カラン、小さな音を鳴らして落ちたのはいつも左薬指にはめている結婚指輪だった。

「やだ待って」と慌てて排水口まで流れてゆく指輪を手で押さえつけて微かな感覚を頼りにしながら小さな塊を握り締めた。拾い上げて、ゆっくり手のひらを広げてみれば、無事に救出できた指輪が照明の明かりに照らされてキラリと光を放った。

「何事?」

背後から低い声が聞こえて振り返ると、眉を潜めて心配そうに覗き込む私の夫、カカシの顔があった。恐らくリビングまで響き渡った私の声を聞いて、キッチンまで来てくれたのだろう。

「指輪、抜けちゃったの」

手のひらの上に乗った指輪をカカシに見せると彼はじっとそれを見て「え、」と言葉を漏らした。

「ナマエ、痩せたから抜けたんじゃないの?」
「そうなのかなぁ。まあ、でも、最近仕事が忙しいからそのせいかも」

いつの間にか痩せてるなんてラッキーだよね。冗談気味に笑い掛ければ、カカシはむっとした顔付きに変わった。前髪の隙間から覗かせた額には微かに皺を寄せている。

「そんなことで痩せるなんて喜ぶことじゃないでしょ」

カカシは強い口調で私を咎めた。彼の顔は明らかに怒っている。カカシが口にした言葉は間違ってなどない。心配してくれる彼に対して私が放った言葉は余りにも安易で浅はかだった。「そうだね」と私は肩を落として呟いた。

彼は溜め息混じりに「分かればいいの」と口にすると、そっと手を伸ばしてぽん、と私の頭に手を置いた。ゆっくりカカシの顔を見上げれば、先程のような怒っていた表情はなく、緩く優しい笑みを浮かべた彼の顔がすぐ近くにあった。

「サイズ直して来た方がいいんじゃない?」
「そうだね。明日お店に行ってみるよ」

カカシの提案に素直に頷くと、私の頭に乗せていた彼の手が撫でるような手つきに変わる。擽ったいなぁと思いながら、カカシの手の熱を感じていると、今度はするりと私の長い髪を梳くように滑り落ちた。カカシのその手はずっと一緒にいて、何度も触れられたことがある手なのに未だ慣れなくて、ぼっと頬が火照る感覚が私を襲った。

「ナマエ」

優しく甘い声で私の名を呼ぶと、彼がそっと、唇にキスを落とした。



***


「…サイズ直しですと、2週間はお時間をいたただきますが、よろしいでしょうか」
「はい、お願いします」

翌日、私は結婚指輪を購入したジュエリーショップに訪れていた。店員は注文書のような紙に指輪のサイズ変更の詳細を記入している。ふと店内を見渡せば結婚指輪を選んでいる若いカップル客がいて、店員が出してきた指輪を左薬指に嵌めては「どれにしようか」と二人で顔を見合わせながら悩んでいる。カップル客の顔があまりにも幸せに満ちていたので、釣られて私も口元を緩ませた。

私もたくさん悩んだなぁ。

結局、自分では決められなくてカカシに決めてもらったんだっけ。思い出に浸りながらカップルからショーケースに並ぶ、煌びやかな指輪に視線を向けた。

「では、2週間後に受け取りに来て下さいね」

はっとして顔を上げれば記入をし終えた店員が私に笑い掛けていた。

「分かりました」

店員に渡された控えを受け取ると、店をあとにした。



左手の薬指にいつも嵌めていた指輪がないというのはなんか、変な感じがする。なんていうか、自身の体の一部が欠けたというか。いつの間にか親指で薬指の指輪に触れる癖がついていた私は今もなお確認するかのように親指で薬指の付け根に触れてみる。当たり前だが、そこに指輪を嵌めている感覚はない。

そっと飾り気のない左手を顔の前にかざしてみた。ずっと指輪を嵌めていて気付かなかったが、薬指の付け根には灼けた指輪の跡がくっきり残っていた。

こんなにもカカシと年月を共にしたんだね。

灼けた指輪の跡を見つめれば、同じ指輪の片割れを薬指に嵌めている彼に強く会いたくなり、胸がぎゅっと締め付けられた。私は気持ちを閉じ込めるように何もない左手をそっと握り締めて、仕事へと向かった。



私が勤めている職場は駅前の花屋だった。長く勤めてきたお陰でフラワーアレンジにも自信がついた私はこの職業が大好きだった。そして店長の勧めもあって、今はフラワーデザイナーを志していた。

どの花がいいかな?

テーブルの上に並べられた色とりどりの花を眺めては頭の中で組み合わせを考える。仕事が終わった後もこうして実践しつつ、私はフラワーデザイナーの勉強をしていた。腕を組みながら「これじゃない」「あれじゃない」と考えてみるが、いいアイデアが浮かばない。どうしたものか。はあ、と小さく息を吐いた。


「ねえ、君さ。仕事終わったら一緒に遊ばない?」


突然にして掛けられた声に驚いて声の主を見ると、声を掛けてきたのは確実に自分よりも年下の男だった。男は私と目が合うなり、意味深にゆっくり微笑む。…その様子からすると、花を買いに来た客ではなさそうだ。

「…困ります。仕事中ですので」

キッパリ断ると、男は私の言葉にも屈せず「仕事終わりだったらいいでしょ」と言葉を続けた。

「私、結婚してますので」

ここまで言えば身を引くだろう。男の顔を見ず、目の前に並べた花を取ろうと手を伸ばす。しかし、伸ばした手は男の手により動きを阻止された。

「うそ。指輪してないじゃん」

ほら、と私の左手首を掴みながら見せつけるように思い切り強く引っ張った。咄嗟に休憩室にいる店長を呼ぼうとするが、怖くて声が出ない。


「オレの奥さんに何か?」


頭上から聞き慣れた声が降り注ぎ、ゆっくり顔を上げてみると月明かりに照らされて一層銀の輝きを放つ、幾度も触れた柔い髪が私の目に映った。

――カカシ?

カカシは何も言わず、じっと男に向けて鋭い目を向けている。同時に掴まれていた男の手がぱっと離れた。恐らく鬼気迫る彼の顔に怖気付いて離したのだろう。

「…別になんでもないです。すみませんでした」

それだけ言い残すと男は逃げるように走り去ってしまった。カカシは遠ざかる男の背中をしばらく見つめたあと、ゆっくり私に視線を向ける。そして見るなり、呆れた表情を浮かべるとはぁと大きな溜め息を吐いた。

「既読がつかないから心配したと思えば、ナマエは本当に何してるわけ」

既読?慌てて携帯を確認すると画面には「仕事帰りにナマエの職場に寄ってくね」の文字が表示されていた。慌ててカカシを見れば「ほらね」と言って、肩を竦めた。表情は変わらず、呆れたままだ。

「…ごめん」
「もういいよ。帰るよ」

今にも怒り出しそう、というか、もう怒ってる?背を向けて歩き出そうとするカカシに慌てて「ちょっと待ってて」と呼び止めた。急いでテーブルの上に置かれた花を片付けて「お疲れ様でした」と休憩室にいる店長に声を掛ける。すると店長はにっと笑うと「新婚でもないのにお熱いねぇ」と冷やかした。その言葉にぶわっと頬が熱くなる。顔を隠すように頭を下げて一礼したあと、私は店を出た。

カカシは車道と歩道の間を仕切るガードレールに寄り掛かりながら私を待っていた。彼は空を見上げて星空を眺めている。釣られて私も空を仰ぐと宵の星が辺り一面にチカチカ輝いていた。

「お待たせ」

未だ空を見上げている彼に声を掛けると私の声に気付いたのか、空から私へと視線を移した。黒い瞳が私を見る。眠たげなその目は仕事が大変で疲れているのか、それとも本当に眠いのか。彼はふっと笑い掛けると「帰ろっか」と言いながら右手を差し出した。その表情からすると、どうやらもう怒っていないようだ。

「うん」

私は自身の左手で彼の右手をぎゅっと握った。少しだけかさついたその手は何度も繋いだ手の感覚で、あぁカカシだな、と安心する。

私達はゆっくり同じ家路まで辿る。その間カカシは指で私の薬指を撫でるような仕草をする。擽ったくて思わずカカシの横顔を盗み見れば、彼はどこか悲しげな表情を浮かべていた。

「…ねぇ、いつ出来上がるの?」
「え?」

唐突な彼の質問に思わず聞き返してしまう。薬指を撫でていた彼の指が今度は私の指を絡めるように繋がれる。

「指輪」

はっきり言われて、ようやくカカシの言葉を理解した。私はすかさず「2週間後」と答えると彼は困ったように笑いながら「長いね」と返した。

「そんなことないよ。カカシが近くにいてくれるから指輪がなくても寂しくない」

私の言葉に驚いたカカシは一瞬だけ目を見開くと、すぐにふっと優しく微笑んだ。

「そうかもね」

彼の言葉にゆっくり頷く。ふと微かに聞こえるのは水が流れる川の音で、私達が歩いているこの川沿いの道は初めて手を繋いだ場所だと思い出した。あの頃はまだお互い上の名前で呼び合っていたんだっけ。蘇るカカシとの記憶は、懐かしくて擽ったくて愛しくて。つい口元を緩ませた。

「覚えてる?あの時ナマエ、躓いて転びそうになったんだよ」
「え、そうだったっけ?」

彼も同じように私との過去を思い出しているのか、嬉しそうに話すその横顔は懐かしい、あの頃のままだった。

「そうだよ。で、オレがナマエの肩を引き寄せたらナマエときたら、みるみる内に顔を真っ赤にさせたんだよ」
「え、覚えてないよ」

意地悪く笑うカカシの言葉を認めるのが悔しくて私は嘘を吐いた。本当ははっきりと覚えている。引き寄せてくれた肩がとても熱かったことを。些細なことだったのに彼が覚えていてくれて、嬉しい気持ちが込み上げた。

ふと少し寒い風が私の背中に当たった。恥ずかしくて熱くなった私の体にはちょうど良くて心地いい。

「ずっと近くにいるよ」

左耳から微かに聞こえたカカシの言葉は、ここで告白してくれた大切な言葉だった。彼は優しく、緩く笑う。眠たげな目は昔も今も変わらない、あの頃のままだった。私は彼の言葉にゆっくり頷いた。そうだね。こうしてカカシと出逢わなければ言えなかったね。私もあなたも同じ気持ちだよ。ずっとそばに、ずっと近くにいるよ。


歌詞参考 ずっと近くに/aiko







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