オレは彼女の涙を一度も見たことがない。どんなに感動する映画を観ても平気な顔でいるし、どんなに理不尽なことで誰かに叱られても「まぁこういうこともあるよね」と決して涙を見せなかった。

彼女は泣かない代わりによく笑う人だった。365日、朝から晩までいつも楽しそうに笑んでいる。「ねぇお前ってさ、泣いたことあるの?」ある日彼女に聞くと、彼女はいつものように微笑んで「失礼ね。私だって泣くわよ」と答えた。「じゃあどんな時に泣くの」彼女はうーんと唸ったあと「悲しい時や辛い時以外」と続けた。

「ふつうそういう時に涙が出るもんじゃないの」

オレの問いに彼女は得意げな顔をしてふっと笑う。相変わらず楽しそうな顔を見て、なにがそんなにおかしいのだろうと疑問を抱く。

「ばかね。そういう時に泣いたら余計悲しくなるじゃない」
「じゃあ、嬉しい時は泣くの?」

今度は口の片端だけを上げて意地悪く笑った。表情がころころと変わる彼女から目が離せない。彼女は目を伏せて、こう答えた。


「そうだね、私が泣くのは嬉しい時だけだよ」


それからは彼女を泣かせることに必死だった。悪趣味だと思う。だが、一度も見たことがない彼女の泣き顔をオレはどうしても見たかった。ある日は彼女へアクセサリーを送ってみたり。また別のある日には柄にもなく大きな花束を買ってプレゼントしてみたり。思い付く限りの彼女が喜ぶことをしてみたが、彼女が泣くことはなかった。「ありがとう」そう言って微笑むだけで、涙一つ流さなかった。

「おやすみ」
「おやすみなさい」

電気を消し、ベッドの上で横になり、彼女の手を繋ぐ。いつもと同じ夜。変わらない日常。挨拶。オレから「おやすみ」と言い、彼女も当たり前のように「おやすみ」と応える。
おはよう。いただきます。ごちそうさま。いってきます。いってらっしゃい。今日もたくさん彼女と挨拶を交わしたなあ。彼女はオレからの挨拶をいつも返してくれる。喧嘩をした翌日の朝もそうだ。気まずいと思いながらも声を掛ければ、「おはよう」とぶっきらぼうな返事が返ってくる。彼女はいつも変わらず、そこにいて応えてくれる。嬉しかった。ずっと一人で生きてきたオレにとってはこの日常が擽ったくて、あたたかくて、かけがえのない宝物だった。

彼女は寝てしまっただろうか。繋いでいる手に力を入れ、握り返してみても反応はない。少し寂しく感じたが、自分とは違う柔らかな手のぬくもりを感じて幸せだな、と心の底から思った。

「このまま、ずっと一緒にいられたらいいのにね」

言葉がするりと喉を通り、声として溢れ出た。ほとんど無意識だった。自分の吐いた声は夜の静けさと混じり合い、やがて何事もなかったように溶けて消えた。なんだか一人でくさい台詞を言ってしまったな。無性に恥ずかしくなり、ぎゅっと固く瞼を閉じた。しばらくすると「カカシ」とオレの名を呼ぶ声が聞こえた。

「…このまま、ずっと一緒にいようね」

彼女の声は掠れていて、明らかに涙声だった。もしかして泣いてる?いや、まさか。いつも笑っている彼女が泣くはずがない。暗闇の中、手探りで彼女の頬を撫でた。微かに濡れている。

「カカシの言葉が嬉しくて泣いちゃった」

彼女は涙声で、笑う。電気をつければきっと泣き顔が見られるだろう。だが、できなかった。あれだけ彼女の泣き顔を見たかったのにいざ目の前で泣かれると途端に焦ってしまった。でもやっぱり彼女には泣くのではなく、いつものように笑っていて欲しかった。それは多分、お前の泣き顔よりも笑った顔が一番好きだと思ったから。

「泣かないでよ。いつものように笑ってよ」

思いのまま言葉にしたら彼女は小さく頷いた。涙の生温かい感覚が手のひらに伝わる。ふふ、そうだね。声に出して彼女はまた笑う。涙と笑顔。彼女のちぐはぐの笑みを想像すればオレも口元が緩んだ。

「ずっと一緒にいようね」

彼女は明るい口調でもう一度言うと、ぎゅっと手を繋ぎ直した。オレも柔い左手を強く握り返す。心は灯されたろうそくの火のようにあったかい。ずっとっていうことは結婚かなぁ。お前とずっと一緒にいられたら幸せだろうなぁ。次々と彼女と過ごす未来を思い描いては胸が高鳴る。プロポーズの言葉はどうしよう。彼女は泣いてくれるかな。その前に指輪はどこで買おう。「おやすみなさい」いつものように一日の終わりの愛拶を交わしながら、彼女に気付かれないようこっそり薬指のサイズを確かめた。


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