ああ、しくじった。第一声は痛みを感じる言葉ではなく、それだった。

真っ白な天井にカーテン。消毒薬の独特な匂い。この部屋は病室といったところか。目覚めたばかりなので、蛍光灯の白色がやけに眩しく感じる。光から遮るように腕で目を覆うと、視界は一瞬にして黒に染まった。
どくどくと脈打つように痛むのは包帯でぐるぐるに巻かれた左足。よくは見ていないが、うっすらと血が滲んでいたような…気がする。自分で負った傷を一刻も早く忘れたくてギュッと目を瞑った。けどそれは無意味だった。痛いものは痛かった。

「私も歳かなぁ」

自嘲気味に笑いながら零した声は誰もいない白い部屋に散り去る。言葉にすると余計に自分が惨めに思えてますます笑って誤魔化した。
そんなことないよって誰でもいいから言ってよ。ふざけたことを望んでしまう私は一体いつまでこの職業にしがみつきたいのだろう。そろそろ未来を担う若者達に世代交代をしなければいけない。身を引いて、教えるべく立場の人間に回らないといけない。分かってはいたが、それをしてしまったらもう二度と忍として生きることが出来ないような気がして怖かった。

「そうだね。お前も歳なのかもね」

聞き慣れた低い声が突如として私の耳に入る。その声は、私が記憶に残るよりも深く、重みを持った声だった。

「カカシ…」

視界に現れたのは白と赤の外套を羽織った六代目火影、カカシだった。どうやら彼は気配を消しながら病室に入ってきたようだ。カカシはどこか楽しげな目をしてベッドで横たわる私を見ている。

「なんの御用ですか?私に構ってられるほど暇ではないでしょうに。六代目火影サマ」

わざと棘のある言い方をして彼を睨みつければ「その呼び方はやめてって言ったでしょ」と困ったように笑った。

「見舞いに来たんだよ。古くからの同朋として、ね」

わざとらしく勿体ぶった言い方をするカカシに「そうだっけ?」としらを切る。「相変わらず釣れないねぇ」カカシは眉を下げてまた笑った。

私達の関係はカカシの言う通り、同朋もしくは戦友のような関係だった。戦場で共に背中を預け合い、痛みを分け合った仲だ。
私は幼少期の頃から彼を知っていた。彼が苦しむ場面を何度もこの目で見てきたし、彼の愛する人々が次々と失い、悲しみに打ちひしがれる姿も目にした。
血の匂いが残るといって、何度も手を洗う癖。『エリート忍者』『里の誉れ』と呼ばれる度に重い荷を乗せたように丸くなっていった背中。そして、数々の苦しみや悲しみを乗り越え、里の長として励む今の姿。
私はずっと、彼の背中を見てきた。そしてずっと、彼に想いを寄せてきた。気持ちを知って欲しくて今まで幾度となく伝えようとしたことはある。だが、過去を見る彼の目には私を映す余地はなく、彼の負担になるくらいなら伝えるべきではないと、気持ちを押し殺した。

「まさかあのお前が足を滑って崖から転げ落ちるなんてね。よく生きてたね」

カカシは嫌味を言った後、ククっとおかしそうに喉を鳴らして笑った。

「うるさいわねぇ」

ギッと鋭い目をカカシに向けるが、私に睨み付けられることなどもう慣れっこのようで、気にする素振りも見せず、近くにある簡易イスに腰を落とした。
私はぎゅっと唇を結んで、怪我を負った日のことを思い出す。カカシの言う通り、私は任務中に崖から転げ落ちた。雨でぬかるんだ地面に滑って転倒したのだ。上忍でもある私が、隊長でもある私が、敵に負わされた傷ではなく、自分の不注意で負った傷だなんてみっともなくて恥ずかしかった。特に、同い年で立派に火影を務めるカカシには絶対に知られたくなかった。

「お前の優秀な部下がここまで運んでくれたんだよ?後で礼を言っておきなよ」
「…分かってるわよ」

優秀な部下。わざとそこを強調するのは何故だろうか。きっとそれは、いつまでも身を引かず任務に出る私に現実を知ってもらいたいのだろう。自分が思うよりも体は劣ってきていると。だから次世代に任せろと。きっとそう言いたいのだろう。

「なんか変な風に捉えてる?オレはお前が心配なんだよ」
「知ってる。分かってる」
「分かってないでしょーよ、まったく…」
「それより、それなに?」

これ以上この件については触れてほしくなかった私は、話題を変えるべく、カカシが手に持つ袋を指差して訊ねた。

「もしかして私の好物のお団子?それにしては重そうね。袋が破れそうよ」
「ああ、これはね…」

言いながら、カカシは袋から何かを取り出す。コン、と高い音を立ててテーブルの上に置かれたものは団子よりも好物のビールだった。

「落ち込むお前のために持ってきた」
「ビール!?気が効くじゃん!カカシ!」
「しーっ!声が大き過ぎるよ」

カカシははしゃぐ私の口を慌てて手で塞いだ。ここは病院。当たり前だが飲酒は厳禁だ。もしも酒を持ち込んできた人物が里の長の火影だなんて知られたら、皆に示しがつかないだろう。カカシはゆっくり手を剥がすと、小声で話し始めた。

「ほら、屋上に行くよ」
「え、屋上?寒くない?」
「寒いよ。けどここでは流石に飲めないでしょーよ」

カカシはしゃがんで私に背を向けると「ほら」と、そこに乗るよう促した。彼の背中には「六代目火影」と書かれた赤い文字。いくらなんでもその上に跨って乗ることに気が引けた私は「いいよ」と断り、ベッドに立て掛けてある松葉杖を手にした。

「可愛くないやつ」

カカシはスッと立ち上がって、不満げに言い放つ。私はカカシを一瞥してから「うるさい」と返して、松葉杖をつきながら歩き出した。けど、負傷した左足を庇いながら歩くのでは思うように歩けない。次第に苛立ちを感じ始めて唇を噛み締めた時、不意にグイと肩を引き寄せられ、掴まれた。

「ほら、」

カカシは私から松葉杖を奪うと、自身の肩に私の腕を回した。必然的に体の重心がカカシ寄りに傾く。どうやら彼は、私を支えながら屋上まで連れて行ってくれるらしい。すぐ近くにある彼の顔を覗いてみると、彼は真っ直ぐ前を見つめている。昔と変わらない、強い眼差しだった。

「…ありがと」

カカシの優しさに触れて、目の縁に涙が滲む。カカシの肩を借りたのは一度だけではない。前にも似たようなことがあった。それは随分と昔のこと。カカシ、アスマ、紅、ガイのみんなで酒を飲んだ時。皆で飲む楽しさも相まってか、私は酒がどんどん進み、仕舞いには飲み潰れてしまった。酔っ払って千鳥足で歩く私を見兼ねたカカシは肩を貸しながら家まで送ってくれることになった。
あの時、疑問に思うことがひとつだけあった。無事に自宅まで私を送り届けたカカシは去り際に「おやすみ」と唇にキスを落としたのだ。驚いた私は一瞬で酔いが覚めた。なんで、どうして。キスの意味を訊ねる前にカカシは「じゃあね」と言い、去って行ってしまった。あれは、どういう意味だったのだろう。

「前にもあったよね?ほら、私が酔って歩けなかった時。こんな風にカカシが肩を貸してくれて」
「…そうだっけ?」

少しだけ間が空いたあと、カカシはいつも通り単調な声で答えた。やっぱり覚えてないか。もう昔のことだもんね。悲しくなり、これ以上話す気もなくなった私は歩くことだけに専念しようとカカシに体重を預けながら一歩、一歩、屋上まで向かった。





屋上はやはり寒かった。「やっぱり寒いね」と苦笑し、誰もいないことを確認してから地べたへ座る。固く無機質なコンクリートの冷たさが更に寒さを感じさせたので、気を紛らわすためにさっそく袋から缶ビールを取り出し、プルタブをパチンと開けた。

「いただきます」

口をつけ、喉を鳴らして液体を飲み込むと、ビール特有の苦味が口内に広がった。ビールはこの苦味が美味しい。若い頃は嫌いだったこの味が、いつの間にか今は大好きな味になっていた。

「寒いけど美味しいね」

思ったことをそのまま口にすればカカシも頷いて笑った。

「そりゃ、良かった」

カカシも缶のフチに口をつけて酒をあおる。液体が喉を通り、ゴクリと音が鳴ると喉仏がゆっくり上下に動いた。その姿を見て思わずドキリと心臓が弾む。歳を重ねても変わらない彼の容貌に、本当に自分と同い年なのかと疑問に思う。なんだか恨めしく思い、私はカカシの顔を横目にしながらビールをもう一口飲み込んだ。

「足、夜風に当たって大丈夫?痛くない?」

カカシは視線を私の足に向けると心配そうに訊ねた。

「大丈夫よ。このくらい」

答えると、私は隣に座るカカシを見た。カカシの顔は月明かりで照らされたこともあり、少しだけ青白く見える。目の下には薄っすらと隈が浮かんでいて、表情には疲弊が滲んでいた。火影の生業は激務だ。里を統括し、守らなくてはいけない使命がある。責任感。重圧。色々と気苦労もあるだろう。

「…それよりも、カカシこそ大丈夫なの?その目の下の隈」

自身の目の下に指をあてて、指摘するとカカシは「ああこれね」と大して気にする素振りも見せず、「ただの寝不足だよ。大丈夫」と、それだけ答えた。

「大丈夫って…」

カカシは昔から心配をされると「大丈夫」を口にする。チャクラ切れで倒れた時だって「大丈夫」。お腹に大きな傷を負った時だって「大丈夫」。本当は全然大丈夫じゃない癖に、カカシはいつも優しい嘘を吐いていた。私はそれがとても嫌だった。私だけには本当のことを言って欲しかった。私だけを見つめて、「大丈夫じゃない。助けてよ」って頼って欲しかった。カカシが嘘を吐くたび、胸が苦しくなった。

「…なんか、怒ってる?」
「怒ってないよ」

カカシは私の顔を覗き込んで様子を窺う。私は顔を背けて、視線を景色に向けた。病院の屋上は見晴らしがとても良い。眼下に広がる家々の照明はあちこちに灯されていて、まるで夜空に散らばる星のようだった。
私達は何も話さず、同じ景色を眺める。しばらく静寂な時が流れたあと、先に沈黙を破ったのはカカシだった。

「…そろそろ任務に出るのやめたら?」
「え?」
「お前が心配なんだよ。また怪我するんじゃないかって。今度は怪我だけじゃ済まなくなるよ?」

隣にいるカカシは眉を寄せて深刻な表情を浮かべている。カカシに見つめられると全てを見透かされそうで怖かった。だから私は合わさっている目を出来るだけ自然に逸らした。

「大丈夫だよ」

ごまかすためにビールを飲もうと、缶のフチに口を近付ける。しかしカカシは私の手を掴んで動きを止めた。同時に、深く長い息を吐く。

「お前はいつだって人に迷惑をかけないように嘘をつく。本当は大丈夫じゃない癖に」

カカシの放った言葉に怒りが込み上げる。「なによそれ。それはこっちのセリフよ」言いながら掴まれた手を払い除けた。拍子に、缶の中身が飛び散って黄色い液体が服に染み込む。ああ、最悪。私は苛立った感情をカカシにぶつけた。

「カカシだっていつも大丈夫だって言うじゃない。本当は大丈夫じゃないくせに」

カカシは目を見開いて驚く素振りを見せたが、すぐにふっと笑みを零した。刻まれた目尻の皺は私の記憶に残るものよりも深い。さっき目にした時には見えなかったその皺が、彼も歳を取ったのだと気付かされる。私だけではなく、彼も歳を重ねていたのだ。

「…ホント、オレ達、昔から似た者同士だよね」

やるせなく放たれた言葉に釣られて、私も肩を落とす。

「…そうだね」

答えると、不意に吹かれた冷たい夜風が火照った頬を冷やし、酔いを醒めさせる。カカシと私は似た者同士。その言葉がストンと胸に落ちた。

「だから気持ちを伝えるタイミングをお互い逃したのかも。
…だってお前、昔からオレのこと好きだったでしょ」

放たれた言葉を聞いてサーっと血の気が引く。どうして知ってるの。予想外の出来事に動揺を隠しきれない。

「…私が?カカシを好き?すごい自信ね」

心の内を悟られぬよう出来るだけ平静を装いながら答えたつもりだったが、上手くいっただろうか?気持ちはバレなかっただろうか?怖くて隣にいるカカシの顔が見れない。

「オレはね、お前のことが好きだったよ。昔から」

カカシが私を好きだなんてそんなこと、ある筈がない。現実を受け入れられないままカカシを見ると、私は「え、」と声を上げた。隣にいる彼の顔は、耳まで真っ赤に染まっていたのだ。
ーー待って。その顔、前にも見たことがある。私は懸命に記憶を辿った。そしてついにある事を思い出した。カカシの頬を染める赤色は、私にキスをしたあの時と同じ色だということを。

「正直に言ったんだから、お前も言いなさいよ」

視線を逸らし、前を向くカカシの頬はやはり赤い。本当に?カカシは私を好きなの?信じていいの?ギュッと手を握り締めて私も前を向く。また一つ、家の明かりが灯された。

「…そうかも。カカシの言う通り私はあなたのことを好き、なのかもしれない」

ポツリと呟いた言葉は夜気に溶け合いながら宙に舞う。『かもしれない』わざと曖昧に答えたのは、まだ素直になれなかったから。まだこの現実を受け止められず、気持ちの全てを伝えるのが怖かったから。私は落ち着かせるために息を吸った。冬の空気が肺に染み渡り冷たさを感じる。けど、火照った今の身体にはそれがちょうど良かった。

「相変わらず、可愛くないね」

私に向けた彼の顔は、とても優しい顔で。カカシもこんな風に笑うんだとびっくりした。カカシは私の手をそっと繋ぐ。冷たい自身の手が彼の手のぬくもりによって温かくなる。そして同時に頬も熱くなった。やめてよ。私達一体いくつだと思ってるの。手を繋ぐなんて恥ずかしい。言えば、カカシは嬉しそうに「楽しいね」と微笑んだ。その顔を見て、また私は気付いてしまう。ああ、彼が好きなのだと。

私は諦めて彼の手を握り返した。瞬間、ふっと吹いた風が、彼の外套をゆらりと揺らした。『六代目火影」の大きな赤い文字が目に映る。火影を背負うカカシは変わらず前を向いて里を見つめている。握る手は夜風と違い、温かい。隣にいる彼は今、何を思い、どんな未来を思い描いているのだろう。

「…ねぇ、カカシ。悔しいけど私、あなたの言う通りにしてみようかしら。もう少しだけ、長生きしたいし」

私は望んでしまった。果てしなく続く遠い未来をカカシと一緒に覗いてみたいと。私の言葉にカカシが驚く。けど、すぐに目を細めて笑みを零した。まるで今宵の空に浮かぶ、三日月のような目だ。

「そしたらオレと一緒に生きてよ。オレの目の届くところで、ずっとそばにいてよ」

嬉しかった。過去を見つめていた彼の瞳にようやく私が映ったような気がして。私達は遠回りをして、今ようやく気持ちが交わったのだ。何度もすれ違う時もあった。泣き疲れて眠る夜もあった。けど、いつか叶うって心の底ではずっと願っていた。たった今、その奇跡が起きたのだ。

「そうしてやるわよ」

私は小さく頷いて、彼に負けないくらい口角を上げて笑った。しばらく顔を見合わせたあと、なんだか無性に気恥ずかしい気持ちになり、話題を変えようと口を開いた。

「…やっぱり寒いね。そろそろ戻る?」

カカシはうーんと唸ったあと、私の肩を徐に引き寄せた。そして外套を広げて私を包みこむ。ふわりと彼の匂いとアルコールの入り混じった匂いが鼻を掠める。くらり、目眩がした。酒に酔ったわけではない。彼に酔ったのだ。焦る私を見てカカシは笑う。そしてまた優しい嘘を吐いた。

「いーや。あったかいね、とても。暑いくらいだ」

クスリと笑う声が聞こえて私もクスリと笑い返す。そして「そうだね。暑いね」と嘘を重ねた。

どれくらいの時間が永遠と呼べるかなんて分からない。でも彼が背負う未来を私も隣で生きて見てみたい。愛する力を勇気に変えたい。そんなことを思いながら、彼と私が命を賭けて守ってきたこの里を見つめた。



歌詞参考 Everything/MISIA


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