あれから数日が経ち、幸いにもチフユと顔を合わすことはなかった。

自分から遠ざけた手前、もう後には引き返せない。今の自分にできることはチフユと過ごした日々の記憶が小さくなり消えてゆくのを待つこと。だが人間とは厄介な生き物で、記憶は色馳せど想いまでは簡単に消えてはくれない。
理由は考えずとも明白だった。チフユの近くにいるから想いが募ってしまうのだ。だったら一刻も早く住むアパートを変えなくては。そう思うのだが、なかなか実行に移せない自分がいて、気持ちだけが先走り、焦るばかりだった。




今日も待機所で任務に備えていたオレは指示待ちの間、本でも読もうかとソファーに腰を掛けて愛読書を開いた。続きはどのページだったか。しおりを挟むのをすっかり忘れていた過去の自分に軽く苛立ちながらも、適当に頁を捲った。

「おい、カカシ」

ふと頭上から聞き慣れた太い声が聞こえ、目をやれば髭面で大柄な男、アスマが目の前に立っていた。相変わらず口には煙草が加えられていて、フゥと吐き出した紫煙はゆるりと立ち上り、天井に灰色の靄がかかった。

「…何?」

それだけ言って、すぐに視線を本に戻すとアスマは案の定、「相変わらずつめてぇな」と小言を漏らした。

「どうだ?最近の調子は」

言いながらアスマは断りもせずにオレの隣に座った。距離が近くなったことで、煙草臭さが一段と濃くなる。喫煙者ではない自分にとって、この匂いは鼻について不愉快極まりない匂いだ。オレはわざと大袈裟に溜め息を吐くと、アスマに目を向けた。

「…見ての通り。調子いいと思う?」
「思わねーな」

アスマはふっと笑みを溢すとソファーの背もたれに寄り掛かり、窓から見える景色を眺めた。今日の空は水色の絵の具だけで塗られたような、雲一つない晴天。それはまるでチフユと最後に会った、あの日の空を現しているようだった。

あのとき、オレはチフユを泣かせてしまった。

空なんて別に初めて見たわけではないのに、やけに記憶が鮮明に残っているのはチフユの涙を見たせいだからだろうか。
無性にあの日の記憶から逃げたくなったオレは窓の景色から本に視線を落とした。ようやく読みかけのページを見つけたオレは雑念を振り払うため、本の世界に入り込むことに努める。

「なぁ」

しばらく耽読しているとアスマから声を掛けられて仕方なく隣に目をやった。アスマは何か言いたげな、逡巡したような表情を浮かべてオレを見ている。せっかく良いところまで読んでいたのに。一気に現実世界へ引き戻された気持ちになったオレは「何」と少しだけ刺のある言い方で返した。
アスマは眉間に皺を寄せて、ばつが悪い顔をすると「お前さぁ」と歯切れ悪く言葉を紡いだ。だから何なのよ。読む気もとうに失せてしまった本をポーチの中へ仕舞うと、オレは腕を組んでアスマを問いただした。

「何?言いたいことがあるならはっきり言いなよ」

わざと冷めた口調で問い掛ければ、アスマは備え付けの灰皿に煙草の灰を落とした。落とされた灰は微かに煙が舞う。

「…お前、昨日また別の女といただろ」

眉を潜め、険しい顔をしながら訊ねるアスマに心臓が跳ね上がった。なぜ知っているのだろうか。
アスマの言う通りオレは昨日、女といた。さらに言えばオレはその女を抱いた。昨日だけの話ではない。最近では求めてくる女、全ての女を受け入れては、オレは柔らかい肌に触れていた。
当然ながら行為中に愛などなかった。本来ならば、そういった行為をするのは情を持った相手にだけするべきだ。頭では分かってはいたが、あの日、アパートの廊下でチフユに会った日以降、ぽっかりと空いた虚無感を埋めるために体を重ね合わせることしかなかった。それ以外の方法が、見つからなかった。
アスマはオレが複数の女を抱いているとチフユに言ってしまうだろうか。そしたらきっとチフユはオレを軽蔑し、当然の如く嫌いになるだろう。
…いや、もしかしたらこれはオレにとって好都合なのかもしれない。汚れた本当の自分の姿をチフユが知って、チフユから離れてくれればこれ以上、感情に揺さぶられることはない。

「……いたよ。ちなみに今日も他の女と会うつもり。悪い?」

平然を装い淡々と答えればアスマは「お前なぁ」と、呆れたように嘆息を漏らした。

「単刀直入に言う。チフユと会って話をしろ」

お前ら見てるとイライラするんだよ。言いながら、アスマはまた一つ灰を灰皿に落とした。アスマの顔は言葉通り、苛立ちが含まれている。短くなった煙草の火を灰皿に押し付けるアスマはまるで苛だたしさをそこにぶつけているようだ。
話をしろと言われても。押し潰された煙草の残骸を見ながらオレはどう答えようか考えを巡らせた。

「そんなこと言われてもお前の彼女にチフユと会うなって言われているからね」

ようやく捻り出した答えは以前、病室で紅に言われた『チフユに近付かないで』の言葉だった。この話は事実だ。紅からはこれ以上チフユを悲しませるなと釘を刺されている。紅を理由にすればアスマは何も言えないだろう。例えそれが口実だとしても胸の内を言わず、口を閉ざせば気持ちがバレることはない。

「お前にとって、チフユは大切な人間じゃないのか?」

だが、アスマは食い下がることなく反論の意見を述べた。アスマの言葉に腹の中にある憤りがジリジリと這い上がってゆく。チフユは大切な人間かだって?そんなの当たり前だ。ホントはずっと側にいて欲しいと願っている。けどそんなの言えるはずがない。事情をよく知りもしないアスマと紅。オレが言いたくても言えない言葉をいとも容易く言い退けてしまう二人に腹が立って仕方がなかった。

「同じようなこと、紅にも聞かれたよ。お前らホントに似たもの同士で面白いね「おい、ごまかすなよ」

皮肉を込めて言ってやるとアスマが声を荒げた。待機所にいる者たちが皆、一斉にしてオレたちに目を向ける。アスマは周囲からの視線に気が付いたのか先程よりも声を落とした。

「お前、本当はまだあの事を引きずってるんじゃないか?……オビトとリンのこと」

オビトとリン。アスマの口からその名を聞いたのはいつぶりだろう。

「…もうお前は充分に償ったじゃねぇか。もう前を向いても良いんじゃねえのか?」

同情し宥めすかすような言い方をされて、余計に自分が惨めに思えた。前を向いても良いだって?そんなの絶対に許されるわけがない。オレは、過去を見ながら生きていくと決めた。オビトとリンがいた過去を振り返らなければ、オレは生きる意味がない。それにオレはオビトから受け継いだ左目で里を守らなくてはいけない使命がある。リンを守ることができなかったオレにはもうそれしか残っていなかった。それが唯一、オレを生かす糧だった。

「簡単に言わないでよ。お前に何が分かるの。これ以上オレに構わないで。ほっといてくれる?」
「だが…」

なかなか引き下がろうとしないアスマにこれ以上何を言っても無駄だ。喧嘩するほどオレには気力がない。落ち着かせるために息を吐くと、丁度良く扉が開かれ自分の名が呼ばれた。恐らく今日の任務のことだろう。オレは返事をしてスッとソファーから立ち上がると未だ険しい表情を浮かべるアスマの顔を見た。

「この話は終わり。呼ばれたから行くね」

アスマはまだ腑に落ちないのか素っ気なく「ああ」と頷くと新しい煙草を箱から取り出して口に加えた。

「なぁ、カカシ。次の非番はいつだ?」

唐突な質問に一瞬戸惑う。次の非番は明日だ。けど何故そんなこと聞くのだろう。疑問に思いつつも正直に答えれば「分かった」と、一言だけ返事が返ってきた。

「どうして?」

アスマは怪訝に思うオレを察したのか先程と打って変わって、にっと笑うと、

「ほら、たまにはお前の部屋で飲もうかと思って。明日の夜、酒持ってそっち行くからよろしくな」

と、機嫌よく返された。「ほら、もう行けよ」アスマは強い力でオレの背中を叩きつけるように押すと待機所から出ていくことを促した。
背中にヒリヒリとした痛みを感じつつアスマに言われた通り、待機所を後にする。
扉を開けば係の者がオレを待ち構えていた。どうやら今日はCランクの任務らしい。気を引き締め直したオレは早速、今日の任務先へと向かった。


***


翌日、非番であったオレは特に何もするわけでもなく、一日中部屋で過ごしていた。暇を持て余すのはよくない。装備品の手入れ、溜まっていた洗濯、掃除。やらなくてはいけないなと日頃から思っていたものを一つずつ片付けていった。気付けばあっという間に時間が過ぎ去り、今現在の時刻は20時を過ぎた頃。夕飯を有り合わせのもので簡単に済ませ、風呂にでもゆっくり浸かろうかと思っていた矢先、呼び鈴が部屋に鳴り響いた。

そういえばアイツ、飲みに来るって言ってたんだっけ。

すっかり忘れていた約束を今さら思い出して嘆息を漏らす。せっかく風呂に入ってのんびりしようと思っていたのに。心の中で悪態を吐きながら冷たい廊下を歩き、玄関へと向かった。
来客はアスマだと分かってはいたが、念のためドアスコープで人物を確認する。小さな覗き穴からはてっきり大柄な男が見えると思ったが、窺えたのは予想していた姿とはかなりかけ離れた、小柄な姿をした彼女だった。

ーーチフユだ。

彼女だと知った瞬間、反射的にバッとドアから身を引いた。なんでチフユがオレの部屋の前に?ていうかアスマはどうしたの?心臓の鼓動が逸り動揺が隠しきれずしばらく呆然と突っ立っていた。
居留守を決め込むにも照明の明かりが漏れている部屋を見ればオレが在宅中なことは一目瞭然だ。とりあえず用件だけ聞こうとそっと扉を開いた。

「何?」

凍てついた冷気を振動させ、放った自分の声はこの空気と同じくらい冷ややかなものだった。
目の前にいるチフユはオレの顔を見るなり小さく体を震わせた。その様子は明らかにオレを怖がっていると見て取れる。チフユの反応を見たオレはチクリと針で刺されたように胸が痛んだ。

「カカシとちゃんと話し合いたくて」

弱々しく頼りない声はよく耳を澄まさないと聞き漏れてしまう声量だ。チフユが言った、オレと話し合いたいこと。きっとそれは『オレから離れたい』そう伝えに来たのだろう。

お前に言われなくても引っ越すつもりだよ。お前が望むのなら目の前から消え去ってあげるよ。口にすることは容易いが、言葉が喉に詰まり声が出なかった。それはまだ、オレの中でチフユに情があるから。好きだから、愛しているから、嫌われて拒絶されるのが怖い。

「…もうチフユとは話さないと決めたから」

チフユの顔を見ず、静かに意を伝えるとオレは扉を閉ざした。
部屋に戻ろう。明日も早いし風呂にも入らないといけない。そう思うのだが、この薄い板の向こう側に落としてきた大切な何かがあるような気がしてオレの足は根が張ったかのように動かなかった。
扉の隙間から入り込む冷たい風が晒された足の爪先を撫でた。この寒さだ、チフユも自室に帰ったことだろう。ここで突っ立っていたって時間の無駄なだけ。自分で閉ざした扉なのにも関わらず、その場から離れるのが名残惜しく思い、そっと扉に指を這わした。冷たく固い感覚と反して、様々な感情が押し寄せる胸はとても熱い。
ーーチフユを引き止めたい。チフユを強く抱き締めたい。指をぎゅっと丸めて拳を作ると爪先が手のひらに食い込み、痛みが生じた。
体中から込み上げる様々な感情。怒り、後悔、苦しみ、絶望、恐怖。そして、愛しさ。行き場のない気持ちは胸だけでは抑えきれず、やがて涙と化して、オレの目から溢れ落ちた。

「カカシ」

頬に生温いものが伝ったと同時に扉越しからチフユの声が耳に入った。はっと我に返り、ドアに触れていた手を離して一歩後退りする。
気配を殺して涙を必死に止めようとするが、意に反してさらに溢れ落ちる。いよいよマズいと思い、オレは部屋に戻るために踵を返した。しかし微かに聞こえる、懐かしい歌声が耳を包み込んで足が止まった。

その歌はいつだって、今だって、心を落ち着かせる大切なものだった。

どうしてお前はオレの心をこうも掻き乱すの。初めて出会った時もそう。どこか冷めたような瞳の裏には寂しさが混じっていて。かといえばこの歌声のように優しく慈愛に満ちていて。いつだってそっと寄り添ってくれるお前にオレは助けられてきた。
だからこそオレは弱みを見せないようにしてきたつもりだった。一度でも誰かに寄り掛かってしまえば自分が駄目になりそうで怖かった。オレが張っていた虚勢は薄っぺらく脆い。一瞬でも隙を突かれたら崩れ落ちてしまうだろう。
だが、チフユはずっと前から澄み切ったその目でオレの心を見抜いていた。オレとお前は似たもの同士。お前の気持ちが分かるように、お前もオレの気持ちを知っていた。

「チフユ」

気付けばオレは彼女の名を呼んで扉を開けていた。目の前にいるチフユの双眸からは止めどなく涙が零れ落ちている。共に涙を流していたなんて、やっぱりお前とオレは似た人間だ。チフユの泣き顔を見れば見るほど自分の目頭には熱いものが込み上げてきた。
チフユは一歩、オレに近付く。そしてすっと手を差し伸べると、まるで存在を確かめるかのようにオレの頬に触れた。チフユの指先はオレの肌と同じぐらい冷たい。肩の高さまでしかないチフユはオレを見上げて目を合わせた。涙で滲ませたその瞳は一点の濁りもない澄んだ瞳。強い眼差しに負けそうになったオレはつい目を逸らしてしまった。
チフユは両腕を広げるとオレを包み込むように抱き締める。躊躇うオレにチフユは気にする素振りも見せず再び腕に力を入れた。ぎゅっと回されたチフユの腕、体、温かく柔らかな感覚がオレを襲う。夜気と混じり合うチフユの甘い香りがふわりと鼻を掠めた。

ああ、チフユだ。

戸惑いながらも自身の腕を回し抱き締め返すとチフユはまるで子供をあやすかのようにそっとオレの背を優しく撫でた。その行為がまた感情を高ぶらせ、止まりかけた涙がはらはらと零れ落ちる。泣いても泣き切れない自分がみっともなく情けなかった。

「…ごめん、チフユ。オレ、お前に嫌われるためにわざとあんな態度取った」

オレは数え切れないほどチフユのことを傷付けた。チフユを突き離し、チフユからの愛を背けた。なのに今はこんなオレを抱き締めてくれている。勝手すぎる自分をチフユは見限ることなく受け止めてくれた。だが、優しさとは時に儚く残酷なもの。優しさに甘え、相手と寄り添い合いたいと願えば、瞬く間に消え去ってゆく。

「失うのが怖いんだ」

思いのまま気持ちを吐き出せばチフユの小さな背が微かに反応した。オレの唇から漏れた言葉は夜空に迷う。

「大切だと気付くとみんないなくなってしまう。オビトもリンも先生も、みんな」

オレに優しく接してくれた人達はもうこの世にはいない。情愛を持ち心を許して受け入れると、手のひらで掬った砂のようにたちまち零れ落ちる。サヨナラも言わず突然にしていなくなる。

「…私、カカシのこと何も知らない。だから、教えてよ」

チフユの腕の力がより一層強くなる。その言葉に甘えていいのか。チフユの優しさを受け止めたら他の人と同じようにまた目の前からいなくなるのではないだろうか。同じ考えばかりが頭を巡る。あれだけ拒んでおいてこんな事を望むのは間違っていると思う。だけど、チフユにはオレを知って欲しい。
気持ちを伝える代わりにきつく抱き締めてチフユの肩に顔を埋めると、彼女の温もりがじわりじわりと侵食するように体に溶け込んだ。

「カカシの背中にある物、半分私も持つよ」
「そしたら少しは楽になるでしょう?」

チフユの声は夜に負けないくらい眩しい。真っ暗な暗闇から手を取り導いてくれるチフユのそばにオレはずっといたい。
言われた言葉に嬉しさが込み上げて、胸元にいるチフユを見ると、必然的に視線が合わさった。チフユの目は泣き腫らして真っ赤に充血している。オレは今度こそチフユの目を逸らさず真っ直ぐ見つめた。その黒い双眸に自分はどんな風に映るのか。知りたくなったオレは静かに顔を近付けた。
チフユの瞳にはオレの背後に灯る照明の暖色の光が映り込んでいる。こんな時にも優しい色合いを持つチフユの瞳にオレは目が離せなかった。

「オレ、チフユが好き」

無意識に唇から落ちた告白は、白い吐息と共に夜空へ舞い上がる。ようやく想いを伝えられた喜びを噛み締めながら、チフユの目に映る暖かい光を見つめた。


君とオレンジ色





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