「もう帰るの?」

まだ何もしてないのに。名残惜しい目をオレに向けるこの女はついこの間、オレの頬を叩いた女だった。
「ごめんね」腰に回された女の腕をするりと解いて、女に笑みを向ける。
女は一瞬だけ目を見開くと、すぐにふっと自嘲の笑みを浮かべた。そしてオレにより解かれた腕をぐっと上に持ち上げて伸びをすると一つ、気怠げに欠伸を漏らした。

「あいかわらず淡白ね」

淡白。それは皮肉を込めてオレに放った言葉だったが、オレはその言葉が嫌味とは捉えなかった。物事にこだわることのないを意味する『淡白』。オレにとって、それ以上の褒め言葉はない。ならいっそのこと、全ての人や物に無頓着になってみたいものだ。そんな思想を頭に浮かべれば苦い感情が胸に広がり、思わず苦笑した。

「じゃあね」

ベッドから立ち上がり、女を見ずに部屋の扉まで向かう。背後で「最低」と微かにオレを罵る声が聞こえたが、聞こえないふりをして部屋を後にした。

外に出れば朝焼けの冷たい空気がオレを包み込んだ。悴んだ手を隠すようにポケットに手を入れる。歩き慣れた家路までの道をゆっくり歩いていると、アパートが見えてきた。
しばらく歩いて足をピタリと止める。ゆっくり視線を上に向けて自身の目に映らせたのは自分の部屋ではなく、隣接する隣の部屋だった。

彼女は寝ているのだろうか。

閉ざされたカーテンを見れば、あの日の無防備な彼女の寝顔を思い出してしまい、思わず口元が緩んでしまった。こうしてアパートの前に足を止めて彼女の住む部屋を確認してしまう癖がいつの間にか定着していたオレは今日も彼女の部屋を見上げていた。

ふいにサーッと音を立ててカーテンが開かれた。ーーチフユさんだ。彼女はたった今起きたところなのか、寝巻き姿のまま先程カーテンを開けたばかりの窓から空を見上げて、今日の天気を窺っている。ひやり、外気は冷たく寒い筈なのに汗が流れる感覚が背中に伝わる。
マズいな。慌てて、自室まで向かった。


***


「おい、カカシ!団子でも食べないか!」

いつも通り、団子屋の店の前で通り掛かると必要以上に声を上げてオレの名を呼ぶ声が聞こえた。足を止めずに声のする方向に目だけ向けると予想通り、ガイの姿がそこにあった。ガイは口に団子を頬張りながらこっちに来るよう手招きをしている。

「オレ達と団子なんか食わねぇよ」

冷めた口調で言い放った声の主はガイと同じ席に座るアスマだった。アスマはオレを見ず、じっと団子が乗った皿に視線を向けている。隣に座る紅が慌てて「ちょっと」とアスマがオレに向けた言葉を咎めた。

「二人ともどうかしたのか?」

一人だけ状況を把握していない空気を持ったガイがオレとアスマを交互に見て心配そうに訊ねた。

「そいつの言う通り、そういうことだから」

じゃあね。オレの放った言葉は明らかに嫌味な言い方だった。あんなにうるさいガイでさえもさすがにオレに話し掛けてはこない。これでいいんだと、オレはそのまま歩みを止めずに立ち去った。


あの居酒屋での出来事からアスマとは不穏な仲になっていた。別に気にはしていないが、ああやって喧嘩を売られるような言葉を投げられたりしたら、自分でも苛ついて、つい買って出てしまう。忍たるとも、常に冷静でいなくてはいけないのに。
アスマ、ガイ、紅の優しさが疎ましい。もうオレに構わないで欲しかった。放っておいて欲しかった。

ムシャクシャした気持ちがなかなか消えず、丁度よく目の前に通りかかった本屋で気を紛らわそうと足を向けた。

本屋に入れば独特のインクや紙の匂いがオレの鼻を掠めた。この匂いは嫌いではない。落ち着く匂いだ。
ーーそういえば、今読んでいる本の新刊が出たんだっけ。これは別の事を考えるにはいいなと新刊が置いてある棚へと向かった。


どれくらいの時間が経ったのか、はっとして本から出入り口の外の景色に目を向ければ日が暮れて夜に変わっていた。いくらなんでも立ち読みしすぎでしょ。本に夢中になっていた自分自身にほどほど呆れ、パタンと本を閉じると棚に戻した。

本屋から出て、ポケットに手を入れながら歩き出す。今日はさほど大変な任務ではなかったので体力は有り余っている。時間を持て余すのも勿体無いし、これから体を鍛えて修練を積もうかな。そんな事を考えながらのんびり歩いていると、路地裏で男女が争うような声が耳に入った。

痴話喧嘩だろうか?

なんとなく気になり、通りを外れた路地の奥に目をやる。建物の隙間から窺えた姿を見れば、思わず息を呑んだ。それは、久しぶりに目にした彼女、チフユさんだった。彼女は誰かにより手首を掴まれ、睨みつける目を相手に向けている。その鋭い視線は自分にも向けられたことがある目だったので、思わず胸が痛くなった。


「お願い、離して」


冷たい夜の静かさのなか、彼女の放った言葉がはっきりとオレの耳に届いた。彼女の腕を掴む人物に視線をゆっくり向ける。そこにいたのは以前、彼女の部屋から出てきた横暴で冷酷だと感じた男の姿があった。
男は大きく左手を振りかざして今にも彼女を殴るような勢いだった。彼女も殴られると悟ったのか、ぎゅっと目を閉じている。
ーーだから言ったのに。


『瞬身の術』


走るより速いと思い、術を使って正解だった。振り下ろそうとした男の左手は今にも彼女に当たりそうだった。パシっと音を立てて男の手首を掴むと、男はぎょっとした形相でオレの顔を見た。

彼女を見れば、未だ怯えた顔をしながら目を瞑っている。しかし予想した痛みがなかなか自身に訪れないことを怪訝に思ったのか、そっと瞼を開けた。オレはなるべく怖がらせず、しかし厳しく咎めるような言い方で彼女に言葉を掛けた。


「だから関わらない方が良いって言ったじゃないの」


彼女の弱々しく揺れる瞳には忍としては目立ち、相応しくない色をしたオレの髪が映り込んでいた。


流れ落ちる月白





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