ーーはたけさんだ。

背を向けているので表情は窺えないが、先程の彼の声色を聞く限り、怒っているようだった。なんでここにいるの。声にならない言葉を呑み込んで私はただ呆然と彼の背を見る事しかできなかった。

「なんだよお前」

同僚の声が寒空の下、響き渡った。恐らくはたけさんは私の腕を掴んでいた同僚の手を無理やり引き離したのだろう。じんじんとまだ痛む腕を反対の手で触れながら思った。
同僚ははたけさんの急な登場に驚きを隠せない様子だったが声を荒げて彼に突っかかる。

「聞いたぞ。お前、えんどうと付き合っていないんだろ」

そうだろ、なあ。私に同意を求める同僚の声にビクリと肩を震わせた。何も言えない私に苛立ちを覚えたのか、同僚ははたけさんの背中にいる私の腕を再び掴もうとした。すかさずはたけさんは同僚の手を掴み、制する。

「そうだね。お前に嘘をついた事は謝る。でも、女性に手を上げるのは良くないってことくらい馬鹿でも分かるでしょ」

はたけさんは冷たくそう言い放ち、同僚の腕を掴む手の力をより一層、込めた。同僚は痛みを感じたのか自身の腕を掴んでいるはたけさんの手を振り払い、睨み付けた。

「…忍が一般人傷付けていいのかよ」

忍と一般人の力差では敵わないと悟ったのか同僚ははたけさんから一歩退いて、そう言い放った。確かに忍は里を守る特殊な職であって、一般人を傷付けてはいけない。でも、それは私が同僚に殴られそうなのを彼に助けてもらったのであって、はたけさんは決して悪くない。むしろ同僚が悪いのだ。私は反論しようと口を開いた。

「それは「お前の言う通り忍は一般人に傷付けてはいけない」

出しかけた言葉ははたけさんの声で掻き消されてしまった。はたけさんは同僚に向かって一つ嘆息を漏らすと言葉を続ける。

「でも、一般人である彼女も同じであるように傷付けたら許さない」

決して大きな声ではないのに重く、低く、はたけさんの声がこの冷え切った空気にはっきりと響き渡った。
それでも気に食わないのなら何とでも言えばいい。そう続けた言葉は反論なんて受け付けない。そう言っているように聞こえた。
同僚もこれ以上言い返せないと思ったらしく、怯えたような表情ではたけさんを見ていた。

「…それでいいんだな。覚えてろよ」

同僚の口からようやく出た言葉はそれで、こちらに背を向けると走り去って行った。残された私とはたけさんの間には音一つもない静寂な夜が訪れた。私は未だ背を向けているはたけさんに話し掛けようとしたが、彼は足を踏み出して歩き始めてしまった。

ーー怒らせてしまった。

遠退いて行く背中をしばらく見つめて私は胸がぎゅっと締め付けられた。これで完全に仲直りすることはない。結局、私ははたけさんに嫌な態度ばかり取っていただけで、謝ることなんて出来なかった。不甲斐ない自分に落胆して足元に視線を落とした。しかし、自分とは違う足が視界に入ってきて、放たれた次の言葉にそれが彼のものだと気が付いた。

「何してんの、帰るよ」

頭上から降り注がれた声は相変わらず冷たい声色だったが、私にとっては不思議と心が落ち着き安じる声だった。その声に従って私は草色の広い背中に着いて行った。


部屋に着くまで私達は無言で歩いていた。何度もその背中に話し掛けようとしたが、少し離れて前を歩く後ろ姿に話しかけるなと言われているような気がして、開きかけた唇は閉じるしかなかった。
そんな事を繰り返している内に部屋に着くのはあっという間で、立ち止まったはたけさんは自室には入らず、その隣にある部屋へ私が入るまで見届けていた。

「…あの、本当にごめんなさい。それと、ありがとうございました」

ずっと言いたくても言えなかった言葉を口にして、はたけさんの言葉を待つのが怖くなり急いで部屋に入った。
…これで、良かったんだ。未だ鳴り止まぬ心臓を落ち着かせようと息を吸い込んだ。今まで誰もいなかった部屋の空気はひどく冷たくて思わずむせ返りそうだった。

とりあえず、シャワー浴びよう。そう思い、風呂場に向かった。
石鹸を泡立てて体を洗っているとふと腕にある痣に目が止まった。その痣は同僚が腕を強く掴んだ痣で嫌でも先程の事を思い出させる。

あの時、はたけさんが来てくれなかったら今頃ーー。
想像したら恐ろしさが押し寄せて思わず身震いした。

簡単にシャワーを済ませてタオルで濡れた髪を拭きながら寝室に向かった。ベッドに横になり気休めに読み掛けの本を開いてみたが、文字を目でなぞるだけで頭には入って来なく、直ぐに閉じた。

今日は早く寝てしまおう。そう思い、まだ重くもない瞼を閉じようとすると隣の壁からコンコンとノックするような音が聞こえた。

「起きてる?」

大きくもなく小さくもなく、でもはっきりと聞こえた声はつい先ほど部屋まで送り届けてくれた彼の声だった。何だろう?驚きながら小さく起きている事を伝えると少し間が空いてから再び声が聞こえた。

「ベランダに出て来れる?」

そう問われたので私は戸惑いつつも頷き返事をした。薄い部屋着の上に大きめのブランケットを羽織り、ベランダに続くサッシ窓を開けた。
冬になりかけた夜の空気は思ったよりも冷たい。自身の両手に息を吹きかけて暖を取りながら隣のベランダと接する薄い壁まで歩み寄る。手すりに手を置いて少しだけ塀に身を乗り出し壁の向こう側を確認すると、隣人はすでにベランダに立ち、こちらを見ていた。

「はい、どうぞ」

はたけさんに渡されたのは湯気の立つマグカップだった。私は落とさないように手を伸ばし、それを受け取ると飲み慣れた色と匂いにホットミルクだと気付く。
マグカップを両手で包むと温かくて手の熱が戻ってゆく。私はありがとうございますと礼を告げるとはたけさんは謙遜してマグカップに口をつけた。口布は下げていたが、暗闇で顔はよく見えない。

「あの、今日は本当にすみませんでした」
「それさっきも聞いた。まあ、さっきは言い逃げみたいな感じだったけどね」

刺々しく嫌味な言い方ではあったが、はたけさんの声は思っていたより優しくてほっとした。私も受け取ったマグカップに口をつけてホットミルクを飲み込む。温かい液体が喉を伝ったのが分かるほど外は寒い。しかし、この飲み物のおかげで体の中から温かくなる感じがした。

「…紅とアスマ、チフユさんの事すごく心配してるよ」

唐突にはたけさんの口から紅とアスマの名前が出てきて心臓が跳ね上がった。二人の名を聞いて思い出すのは居酒屋を出て行ってしまった光景、紅の心配そうな顔が浮かんだ。
そういえばアスマとはあまり話してなかったな。それなのに心配してくれている事を知って私は胸がぎゅっと締め付けられた。紅に至っては部屋を訪れてくれてまで私を心配しているのにそれを無視している。私は無慈悲な人間だ。

…けど、それでも、私は父の事を言えない。言っちゃいけない。

取り留めのない感情にどうすればいいのか分からないでいた。

「何をそんな必死になって隠してるの?」

黙り込む私にはたけさんはそう問うた。その声色は厳しさの中に優しさがあるのを感じた。はたけさんは二つのベランダを仕切る壁に片側だけ体重をかけ、腕を組みながら寄り掛かっている。
表情を確認しようとしたが、布と額当てをした左側だったので窺う事は出来なかった。

「チフユさんがそんな感じだと、余計に人を傷付ける事になるけど」

その言葉に思い当たる節があり過ぎて私は言葉を失った。はたけさんは鋭く冷たく物を言うから苦手だ。でも、その刺のある言葉は強制というより誘導だとも捉えられる。
はたけさんからベランダから見える景色に目を移すと、そろそろ寝静まる時間帯のせいか、住宅街に灯る明かりは数えるほどしかなかった。私は冷たい空気を思い切り吸い込み、肺に溜めて、喉の奥に詰まっていた言葉と共に息を吐き出した。

「私の父、浮気して出て行ったんです」

震える唇は寒さのせいか緊張のせいか。きっと後者だろうな。そんな事を思って自身の冷たい手の所為でたちまちぬるくなってしまったマグカップの握る力を込めた。
はたけさんはどう思っただろう。やっぱり私を軽蔑したかな。拒絶したかな。
しばらくの沈黙のあと、はたけさんの深く吸う息が聞こえた。

「それで?」
「え?」

意を決して口にした言葉の返事はあまりにも簡単な言葉で、意表を突かれた私は素っ頓狂な声を上げてしまった。それで?って。私がその事でどれだけ悩んでいたと思ってるの。


「だって、浮気をしたのはチフユさんではなく、お父さんだよね。チフユさんはチフユさんでしょ」


お父さんと私は違うよ。そう言い退けたはたけさんはベランダの手摺りに手をつけながら壁の向こう側にいる私の顔を覗き込んだ。
まあ、オレが言うのもなんだけど。罰が悪そうにそう付け足したはたけさんは恐らく浮気と言う言葉に心当たりがあるのだろう。

「…まあとにかく、そう思わない?」

月の明かりに照らされて、ようやく見ることが出来た彼は三日月のように緩やかに弧を描いた目で笑っていた。

…はたけさんの言う通り、私は私だ。答えは案外シンプルなのかもしれない。
私と父は親子の関係だけど、別の人格で別の人間だ。

「そう考えていいの?」
「いいんだよ、それで」

即答するはたけさんの言葉に胸に突っかえていた物がすっと消えてゆく感覚がした。
そうか、そうなのか。そんな事、思いもしなかった。

「ひょっとして紅にもそれが言えなくて悩んでたの?」

はたけさんは信じられないとでも言いたげな顔で私を見た。彼にとって私の悩みなど些細な事だったのだろう。私は途端に恥ずかしくなり、俯いて小さく頷いた。すると、彼は呆れるように小さく嘆息を漏らす。

「それなら尚更、紅に言った方がいいよ」
「そうですけど、なかなか言えなくて」

はっきりしない私に痺れを切らしたのか、はたけさんは少し苛立っている様子だった。はたけさんには言えたのに紅には言えない。それは恐らく、紅は初めて出来た大切な友達だから。失うのが怖いから言えない。

「じゃあ、明日夜の7時にこの前の居酒屋集合ね。紅達にはオレが伝えておくから」
「えっ」
「こうして場を設けないとチフユさんの性格上、言わないで終わるでしょ」

ぴしゃりとそう言い退けたはたけさんはじゃあ、よろしくね。おやすみ。と早々と部屋に戻って行った。
一人取り残された私は隣のベランダの戸が閉まる音まで聞いて、ようやく状況を飲み込む事が出来た。

ーー明日、紅達に言わなければいけない。 

夜空の下、焦燥感に駆られた私は手に持っていたマグカップを彼に返す事を忘れていたのに気付く。後で返さなくちゃ。そう思い、冷たくなってしまった残りの液体を一気に胃へ流し込んだ。


明日はきっと





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