「そんな、我慢して溜めこめるものなのかよ。あいつはそれで諦められるような相手じゃねえだろ」 俺の言葉に、光志の肩がピクリと動いたが、それだけだった。 「……邪魔した」 もうこの場にいても無駄だろう。判断して靴を玄関で履いていると、リビングから光志の声が飛ぶ。 「伊織」 「…何だよ」 「やっぱり俺が壊したんだ、家族。お前が壊さないよう、努力していたのを知っていながら。でも俺には耐えられなかった。暴力にも、ずっと我慢して弱音吐かないでいたお前を見ているのも。……悪かった」 「……何言ってるかさっぱり分かんねえよ」 まだ思慮分別のついていない子供のときの話。 引きずっているのはみっともないと思いながらも、引きずるしかない今。もう戻せない関係。 「……俺は、唯が好きだよ」 その声は、諦めてなんかいなかった。 ここで俺に言ったところでどうにもならない。 流すんじゃなくて、溜めこむことを選んだ兄貴には。 だけど溜めこむということは、忘れないということだ。 忘れなければ、いつか絶対にぶり返しがやって来る。 自分の意思なんか関係なしに、求めるようになる。 俺の知らない「恋」は、きっとそういうもので。 「来てくれてありがとう、伊織。やっぱり俺を救うのは、いつだってお前だ」 失った唯へ、兄貴はこれからも叫び続けるのだろう。 心の中、届かぬ想いを。 唯と、同じように。 玄関を開くと雨の匂いと音とがやって来た。まだ小振りだから、さして気にすることもなく出ていく。 「伊織」 数メートル歩いたところで、声に振り返れば傘を持った兄貴が出てきていた。 「これ、持ってけ」 「返しに来いっていうのかよ」 「いや、別にいいよ。そのまま持ってて。とにかく、濡れると身体に障る。モデルにそんなことさせられないな」 もう表に出回っているのは二誌だけで、しかもマイナー誌なのに知られているのは、親父が教えたからか。 「──それに、それじゃなくたって、弟を濡れさせるなんて出来ないだろ」 どう反応していいか分からず、とりあえず俺は傘だけ受け取っていた。兄貴は満足そうに頷いて、姿を消す。 傘を片手に、それを差さないまま帰宅した。空を見上げると重たく暗い雲が一面を覆っている。 『……伊織、またあの人になぐられた?』 『……うん』 過去の記憶で、出て来るのはいつも雨のときばかりだ。 『痛いだろ。ほら、こっち来て。湿布あるから』 母親が薬で自殺した俺が、引き取られてちょうど数年だった。 『……分かってると思うけど、父さんには』 『言わないよ。お兄ちゃんが約束やぶるわけないじゃん』 親父を憎むのと同じように。 昔の自分にだって、同じくらい腹が立っている。 あのとき、どうしてあんなものを守ろうとしていたのか。 『…でも、本当につらくなったら、いわなきゃいけないよ? 伊織、いつまでもこんなこと……』 『兄ちゃんは、言いたいの? 父さんに、離婚してって』 『……伊織が言いたくないなら、言わない』 そのときから俺は親父が嫌いだったし、兄貴にだっていい感情は抱いていなかった。義母は言うまでもない。 それでも、形を壊したくなかったのは、本当にただ「家族」という「形」に拘っていたから。 馬鹿だ。 『伊織、ごめん。もうお兄ちゃんはいやだよ』 外に雨が降り騒いでいるいつの日か、謝り、頭を撫でて、兄貴は親父に訴えた。 傷の痛み。 もうこんなのは「家族」じゃないと、そう。 それでも「家族」だと思っていた俺には、衝撃的な言葉で。 俺の中の、何かを壊した日だった。 『伊織、ごめんな。ごめん』 自分という存在が急に陳腐に思えたのは、多分そのときからだ。 兄貴を救ったのが親父だというなら。 あのころのどうしようもない俺を救ったのは、兄貴だ。 俺が嫌いな親父を尊敬する兄貴。 俺を救った兄貴。 羨望。憧憬。思慕。嫉妬。憎悪。 どれでもしっくりとはまらない言葉。 『……お前には分からなくていいと思うよ』 兄貴が分からなくていいというのなら。 『本当に人を好きになる、この気持ちなんて』 俺の、勘違いなのだろう。 昔兄貴へ抱いてた、あの感情たちを一まとめにしたものなんて。 それこそ、マガイモノで、正解だ。 →# [ 33/70 ] 小説top |