たいしてやりたいこともない冷めた大学生だったころ、適当に選考を受けて内定をもらった企業が反社のフロント企業だったことを知ったのは偶然だった。周囲の人間には他企業に比べても格段に待遇のいい企業であることから多少妬まれたりもしたものだが、口外できないまでも反社のフロント企業であると知ってもおなじように妬んでくるような強者はいないだろう。だが、社会人となってもやはりたいしてやりたいことのないわたしは直接的に反社に関わることがないのであれば別段フロント企業であったとしても構わないか、と思い直し、とりあえずは勤勉な社員としてつつがなく業務に従事しよう、と思っていたのがもう数年前のことになる。なら今は何なのか。何を隠そう、今は愛に生きるスーパー社畜である。


「おはようございます三途さん!!」
「朝からうるせー挨拶どうも」
「今週もバリバリ売上あげてますよ!」


ほら、と報告書を手に三途さんのほうへ駆け寄るが、ご多忙な様子ながらわたしたちの会社の売上なんかはしっかりと目を通してくれているらしい。どんな陶芸家でも真似できないほど緻密に作り上げられた端正な顔を崩すことなく、三途さんはわたしの報告書を一瞥だけすると「知ってる、よくやったな」と端的に言葉を返す。週に1度しか三途さんは出勤されないが、当初は三途さんに認知されたいという気持ちから営業活動に勤しんでいたが、認知いただけた今、わたしの営業のモチベーションはこの週に1回のチャンスに褒めてもらえるかもしれないという可能性によって保たれている。


「今月の売上見込みは?」
「先月と同額はすでに見込み立ってるので、できる限り乗せていきたいと思います。来月の仕込みもすでに始めてますので、今期の収益は期待していただいてもいいかと!」
「俺が言うのもなんだけどよォ、反社のフロント組織って知っててそんなモチベーション高くバリバリ働けんのおまえぐらいだわ」
「お役に立ててますか?」
「そりゃなァ」
「その言葉だけで三日三晩寝ずに働けそうです」
「そんなことしやがったら労基が来ちまうじゃねーか。反社のフロント企業とはいえ一般企業なんだから労働基準法は守って馬車ぐるまのように働け」
「三途さんのお役に立てるなら休みなんていりません!」
「だから一応一般企業の体だっつってんだろ」


そう吐き捨てるようにわたしに言葉を返す三途さんはどうやら先週よりも疲れているようだ。わたしたちフロント企業勤めには三途さんたちが本来の組織でどんな動きをしているか、なんて探りようもないが、そちらの仕事だってなにか手伝えることがあればいいのに。だがいくら営業としてスキルを認めてもらっていたとしても、三途さんがそちら側の仕事をわたしに手伝わせてくれることはきっとないだろう。上品な見た目とは裏腹にすこしばかり乱暴な言葉づかいをされる三途さんだが、週に1度どれだけ忙しい中でもこうしてオフィスに足を運んでくれるのは決してわたしたちが無理をしないようにするためだ。他企業と比較しても待遇が良いのはインセンティブがおおきく左右しているからで、三途さんいわくそれも「こんな会社で働くってなりゃモチベーションは金ぐらいしかねーだろ」とのことだが、どこの一般企業だってこれほど社員のことを思ってくれるようなトップはいないだろうと思う。だから決して楽な仕事とは言えないまでもこの会社の離職率はおどろくほど低い。まあ、去年入社したばかりの事務社員の佐藤さんはしばらくここで働いてお金を貯めたら、適当に成績の良い営業社員をつかまえて寿退社したい、と目論んでいるそうだがそれはそれである。男がモチベーションであってもわたし自身はまったく構わない。それこそ三途さんを狙うようなことさえなければ。

ドカドカと足音をたてながらオフィスをまっすぐ進んでいく三途さんが腰を下ろしたのはわたしの席の隣だ。まあ、そうなるようにあえて空席を自席の隣につくったのだが、そのくらいは営業部のエースのささやかなわがままとして許してほしい。


「なんか困ってることとかねーか」
「三途さんがお疲れのご様子なのでなにかお手伝いできることがあるといいのになって今猛烈に思ってます」
「俺じゃなくておまえのこと聞いてんだけど」
「わたしはいつだって三途さんが世界の中心なので」
「おまえはここでバリバリ働いてくれりゃ十分俺のためになってんだよ」
「でもわたしそこそこ有能かもしれないですよ」
「は、喧嘩もしたことねー女が俺らの世界でできることなんざねーよ。オフィスワークがお似合いだわ」
「たしかに殴り合いの喧嘩とかは経験がないですね」
「そりゃそうだろ」
「だから最近、仕事終わりにキックボクシング習い始めました」
「ただでさえ働き詰めのくせに何予定増やしてんだ殺すぞ」
「でも直近おやすみくれたじゃないですか」
「死ぬほど有給残してる営業社員がいたからなァ」
「だからそのおやすみでハワイに行ってきました」
「おーそりゃいいこった」
「3日間射撃訓練場にこもりっぱなしで、全弾真ん中撃ち抜けるようになりましたよ。拳銃もライフルも両方できます」
「ガチで即戦力になろうとしてんじゃねーよ」


ちなみに、きっと三途さんはわたしが習っているキックボクシングもそこらの女性たちがエクササイズ目的で通っているような平和な事務を想像しているかも知れないが、もちろんその道のトップ選手たちが通うようなガチのジムである。学生時代は品行方正とまではいかずとも喧嘩の一つもしたことがないような女子学生だったなりに、それなりに器用な性分であったことが幸いしたらしい。今となってはジムのオーナーにも「会社員を辞めて世界を取りに行かないか」などと誘われているが、わたしがほしいのは世界の頂点という栄光ではなくいついかなるときも三途さんからの称賛である。

なんとかして三途さんの力になりたい、と言葉を重ねるわたしの姿に、三途さんは頬杖をついたままこれみよがしに溜息を吐いた。そんな三途さんの姿に今にも暴れ出すのではないかと佐藤さんはいささか怯えた様子だが、わたしも思えば三途さんとはそれなりに長い付き合いだ。明確な損害を与えでもしない限り、自分を慕っている人間に手を上げるような下衆な真似を三途さんは決してしない。


「なんでそんな本気なのかは理解できねーが、そんなに俺のためになることがしてーかよ」
「はい!事務処理はもともと得意なほうですが、裏の仕事だって基本的なことを教えてもらえればできるようになると思います!」
「まあなるだろうなァ」
「はい!」
「させねーけど」
「…まだまだ精進します…!」
「俺のためになることがしてーんなら今日ディナーでも行くか?」
「え、ディナーですか?」


素っ頓狂な声をあげるわたしとは裏腹に、頬杖をついたまま愉快そうに口角をあげながらわたしを見つめる三途さんは余裕そうだ。だが、ディナーとは今までにない提案である。ランチであれば何度かご一緒したことがあるが、三途さんは出社したとしても夕方ごろには他の用事のために退社してしまうのである。もちろんご一緒したいところではあるが、三途さんが普段行くような格式高いお店の知識などわたしにはない。それにそういったお店にはおそらくドレスコードなんかがあるんだろうし、普段仕事ばかりのわたしのクローゼットにそういったドレスコードにも対応できるようなフォーマルな服があるとは思えない。まあ、今日ディナーなのであれば用意も間に合わないだろうが、どうしたものだろうか。
ううむ、と考え込むわたしを見て三途さんはクツクツと愉快そうに笑い声を上げる。…本格的に楽しんでいるあたり、もしかしたら今日のディナーというのはわたしをからかっているだけなのかもしれない。


「おまえが何考えてるか当ててやろーか」
「…どうぞ」
「俺が行くような店に入れるようなドレスもねーし、店の心当たりもねーから予約どうしようってとこだろ」
「めちゃくちゃエスパーじゃないですか!」
「全部顔に出てんだよ」
「まさかの」
「おまえが気にすんならドレスぐらい用意してやっけど」
「え、そんな三途さんに立替精算いただくなんて悪いです…!クレジットカードお預けしますのでそのカードで三途さんのお気に召すドレスを購入いただければなんだって着ます!」
「バカ言え、女に財布出させるような男じゃねえわ」


すかさずバックから財布を出そうとしていたわたしの手を制止するように、三途さんの大きな手がわたしの手を押さえつける。はじめて触れた三途さんの手はわたしより一回りほど大きくて、端正な顔立ちとは裏腹にごつごつした男の手だった。そんな三途さんの動きに驚いてぴたりとわたしの手は止まってしまったのに、それに気づいているだろうに三途さんは相変わらずわたしの手から手を離そうとはしない。


「…え、っと、三途さん?」
「んだよ」
「三途さんはお疲れなのに、わたしとディナーに行って疲れちゃいませんか?あれだったらまっすぐお家に帰って寝たほうが体も回復するんじゃないでしょうか」
「暗に行きたくねえってことか?」
「そんなわけないです!三途さんとディナーなんて全財産なげうってでも行きたいぐらいです。もしかしたら幸福の多量摂取で心臓発作起こすかもしれないですが」
「そのぐらいで心臓発作起こされたんじゃたまったもんじゃねーな」


添えられたままだった三途さんの手が、まるでわたしを確かめるみたいに手の甲を撫でる。それにまっすぐわたしの目を見つめている三途さんの目線はそのままで、視線を外すこともできないでいるわたしの表情は三途さんの目に映るそれを見る限り年甲斐もなく真っ赤になってしまっていて、吐息を吐き出すことすらためらわれた。けれどそんなわたしの様子を見て、三途さんはより一層距離を詰めてくるのだからいよいよわたしは今日心臓発作で死んでしまうのかも知れない。所在なさげにカバンに添えられた手に重ねられた手はそのままに、頬杖をついた手をわたしの椅子の背もたれにかけて引き寄せられる。そうしてまるで覗き込むようにしてわたしを見つめている三途さんの表情は実に楽しそうだ。


「なァ、俺が毎週なんのためにここに来てるか知ってっか」
「そ、それはわたしたちが快適に働けてるかどうか知るためって前おっしゃってましたよね…?」
「それもあるが、おまえがいるからだって言ったらどうする?」
「ど、どうするとは…!」
「他にもフロント企業の担当はいくつか持ってる。けど、他の管理は全部部下に任せてんだよ。優秀な営業マンのなまえなら意味はわかるよなァ?」


断られるなんて微塵も思っていなさそうな三途さんの瞳が好戦的に細められる。もとからわたしに選択肢なんてひとつしかなかったのに、そんなふうに微笑むなんてずるい。


「じゃあ仕事終わりにドレス用意して車で迎えにくっから、今日は定時で上がれよ」
「わ、わかりました」
「帰りはどうする?」
「帰りですか…?」
「おまえの家まで送るか、俺の家に来るか」


考えとけよ、そう耳元で囁いて席をたった三途さんがオフィスを出ていってから、わたしに掴みかかってくる勢いで飛んできた佐藤さんが何事か騒いでいるのは理解できたけれど言葉が一向に入ってこない。夢でも見ていたんだろうか、なんて思うけれど、バクバクと早鐘のように鳴り響く心臓の音が耳元でうるさく響いて、いつの間にかデスクの上に置かれていた三途さんの名刺には見慣れない携帯電話番号が乱雑に綴られているあたり、どうやら夢ではないらしい。

ああ、ほんとうに心臓発作で死んでしまいそう!

ハートフルな殺人鬼
(22.0123)
タイトル:獣様より




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