「おまえにはいつもそうやって許されてきたけど、一度でいいから本気でぶつかってほしかったな」なんて下らない言葉と一緒に他に好きな人ができたらしい男と別れたのは、結婚式の1か月前だった。しかもその女とやらがわたしのかつて勤めていた会社の後輩の女の子だったのだから笑えない。まわりの友人たちは「そんなみっともない男と別れられてよかったじゃない」だとかそんな言葉でわたしを慰めようとしてくれているけれど、要するにわたしはあの年下のかわいらしい女の子に負けたのだ。そしてその上彼のためを思ってと控えめな女でいたのが敗因だったというのだから泣くに泣けない。
それならもっと我儘でも言えばよかった。会いたいからなんて理由で呼び出して、思うさま甘えてみればよかった。なんて、そんなことをいまさら言ったところで遅いのだ。それができる彼女にわたしは勝てなかった。もうそれだけで十分である。


「お姉さんお酒強いんスね」
「…あなたも強そう」
「ああ、ただロックが好きなだけ。俺自体はそんなにお酒強くないっスよ」


ひさしぶりにお酒でも飲もうと1人でバーで酒を飲んでいたのだが、まさか声をかけられるとは思わなかった。いや、たしかにずっと隣に男が座っているなとは思っていたのだが、普段声などかけられないだけにそんなことすら想像ができなかった。だがまあ、これだけ酒を飲む女が1人でいれば、興味も沸くだろう。この男はどうやら社交的なようだし、気に止めるようなことでもないはずだ。
だからわたしは今手に持っているグラスを一気に煽ってあけてしまうと、そのまま新しい酒を注文しようとした。

が、それを男はやんわりと止めるかのように「そう言えばお姉さんシャンパンとか好き?」と聞いてきた。そのときわたしを静止した手は彼氏だった男よりも大きかった。なのに、すこしばかり華奢で骨ばっているのがやけに目についたけれど、それがなんだか扇情的で思わず目をそらしてしまう。


「シャンパン、嫌いじゃないよ」
「普段はあんまり飲まない?」
「普段からシャンパンとかよく飲むの?」
「好きだけどあんまり飲まないかな」
「じゃあ、どうして?」
「せっかくきれいなお姉さんに出会えたから」
「ていうかそのお姉さんってやめてよ」
「なら名前教えてくれる?」
「なまえっていうの」
「俺は涼太。なまえちゃん、俺と一緒に飲んでくれないっスか?」


もうちゃん付けされるような歳でもないんだけど、なんて無粋な言葉は飲みこんだ。そんなことをいちいち指摘してこの場の雰囲気が損なわれるのが嫌だったのだ。だからわたしは笑いながらその問いに頷いたのだが、どうやら彼はそれなりに金を持っている人らしい。まあそうでなければ初対面の女に一緒に飲もうなんて言ってこないだろうが、彼はシャンパンのボトルを注文して、それをわたしにすすめた。


「ボトル?」
「飲めなかったら無理しなくていいっスからね」
「…お酒はそんなに弱いほうじゃないの」
「あはは、なら俺の奢りっスから気持ちよく飲んでほしいっス」


どうやらお金の心配をさせないためにわざとボトルで注文したらしい。こんなこと、あの男はしてくれなかった。デートはほとんど割り勘だったし、それでいいとも思っていた。けれど、あの後輩の女の子にはすべて奢っていたのだと知ればまた違っただろうか。…まあ、いいか。もう忘れなければ。
しかし彼もなかなかお酒には強いほうらしい。まるでわたしにもそうしろと言わんばかりに気持ち良くシャンパンを飲んでいる彼の姿を見ていると、もうわたしも飲みすぎてしまってもいいかなと思えてくる。そうだ、もういいのだ。若いころのように後先考えずにその場の楽しいことを考えてしまったって、明日のわたしは今日のわたしを許すだろう。


「…なんで1人なの?とかそういうこと聞かないんだね」
「聞いてほしかったら聞くっスよ」
「んーあんまり聞いてほしくないかも」
「言いたかったら言って?俺といるときにまで遠慮しちゃダメっスよ。今はそういう夜なんスから」
「そういう夜?」
「あるんスよ。大人の夜にはそういう夜が。ありのままでいい、だれかに気を使わなくていい夜」
「…なんかすごい、それ、素敵」
「今がそのとき」


俺でよければいくらでも迷惑かけて寄りかかってよ、なんてそんなことを言ってしまうのが許されるほど、涼太は整った顔立ちをしていた。だというのに気取った感じがなくてとっつきやすい。今までいろんなひとと出会ってきたけれどこんな人は1人もいなかったなあ、なんて思いながら、もしそんな夜を本当に彼が許してくれるなら、そんな夜を楽しみたい。
わたしが笑えば涼太も笑う。おもしろくもないわたしの話を彼は黙って聞いて、ときおり素敵な言葉をくれる。彼はわたしだけしか見ていない。それがどうしようもなく高揚した。この場にはわたしたちしかいない。わたしたちが今見つめる相手はたった1人だけ。そこに誰の介入もない。

時計は目に見えるところにあった。終電があるから、なんて無粋な理由で帰ることもできた。だが、わたしはそれをしようとしなかった。タクシーで帰れる距離だから、なんて言い訳を頭の中で必死に組み立てながら、その実、わたしはそんなことをするつもりなどこれっぽっちだってなかったのだろう。


「…この大人の夜は」
「ん?」
「いつまで続いてくれるの?」


気が付けばわたしたちの距離はとても近くなっていた。だというのに不快に思わないのは、お酒のせいだろうか、それとも彼の醸し出す雰囲気のおかげだろうか。それに彼から距離を詰めたのではない。彼も多少距離を詰めただろうが、それでもわたしだって自ら近寄った。
ふわり、と彼の香水の香りがする。その香りははじめて嗅いだもののはずなのに、どうしてだかしっくりと身体に染みついた。きっとこれから先、もし同じ香りを嗅ぐことがあったら、わたしはどうしたって彼を思い出す。

もう今夜は思いがけないことばかりだ。こんなふうに自分から話をしたのもはじめてだし、誰かとこんなに近い距離でお酒を飲んだのも、こんなふうに大胆なことを自分から言ってしまったのもはじめて。
けれど彼が言ったのだ。今はなんでも許される夜だと。だからもうすこしだけ、あともうすこしだけだとしても、出来る限り浸っていたい。そんなわたしを彼は許してくれるはずだ。そう確信できるぐらいには、わたしはすでに彼を信頼していた。

すると彼はあまり下心の見えないままの目元をゆるく微笑ませて、それからわたしの手に自分の手を重ねた。その手はやっぱり魅力的で、途端に心臓がうるさくなる。なんだか酔いが回りそうだ。くらくらする目元を指先でそっと抑えると、涼太は笑いながらわたしの肩を引き寄せた。そうすると涼太の肩のあたりに頭がのっかって、そのまま力が抜けてしまう。


「なまえちゃんが望むまで続くっスよ」
「なら、いつまでも終わらないよ」
「それでも俺はいいけど」
「…えへへ」
「このお店そろそろ閉まるんス」
「え、そうなの?」
「どうする?」


耳元でわたしをからかうような彼の声が響いて、意図しない内に息が漏れる。そんなわたしを笑うでもなく、涼太はわたしの顎を持ち上げてわたしと視線を合わせようとした。そしてそのときに、見えたのだ。涼太の目にうつるわたしの浅ましい欲に濡れた瞳とおなじように、そんなわたしをうつす涼太の目も濡れていた。
ああ、今までわたしはどんなふうに生きてきたのだろう。こんな女を今までのわたしはふしだらだと嫌ってはいなかったか。…けれどもうそんなことはどうでもいい。そのわたしは今のわたしでは、ない。


「今日は帰る?」


ぎゅう、と握られた手は熱い。もうどこかしこも熱くて、その先の関係を求めているのはもうお互い様だ。そんなわたしに「帰る?」だなんて、分かっているくせにそんなことを聞く、涼太の意地の悪いこと。

(14.0511)
リクエストを募集しておきながらわたしの書きたかったお題でニアさんめちゃくちゃ感謝です…!しかも遅くなっちゃってほんとうにごめんなさい…!リクエストほんとうにありがとうございましたー!

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