氷室辰也を知らない人間はこの学校において誰1人としていないだろう。その甘いマスクはもちろんのことアメリカ仕込のレディーファーストに抜群の運動神経だけでは飽き足らず、成績までいい。そんな男に惚れない女などそうそういない。そしてかくいうあたしだって、氷室辰也に恋をしている人間のうちの1人、なんだろうと思う。

なんだろうと思う、なんて言葉を濁したのはまだあたしの中でその気持ちが固まっていないからだ。なぜならあたしと氷室辰也はおどろくほど接点がない。クラスも違えば部活も違う。そんなあたしたちが顔を合わせることができるのなんて廊下ぐらいなもので、たまにすれ違うことはあれど、どちらかから声をかけるほどの仲の良さもない。言うなればただの他人だ。クラスメイトですらない。友達なんてもんでもない。
けれど委員会だけは一緒である。そしてその委員会で帰宅部だからという理由ですべての仕事を押し付けられたあたしにただ1人「手伝おうか」と言ってくれたのが、氷室くんだったのである。まあぶっちゃけて言えばバスケ部のスタメンに手伝ってもらうほどのことではなかったし、氷室くんを部活に向かわせなくてはならないという謎の使命感に燃えたあたしはそんなやさしい氷室くんの言葉に全力で首を横に振って教室からほとんど無理矢理追い出したのだけれど、そんな挙動不審なあたしにすらも氷室くんは笑って「ありがとう」なんて言ってくれたのだから、そりゃ恋なんてものもはじまるだろう。

あれからあたしは氷室くんの虜だ。寝ても覚めても氷室くんのことを考えてしまうし、廊下ですれ違うことができたら1日中ハッピーなまま眠ることができる。けれど、やはりあたしは氷室くんにとって知り合いですらないのだろうし、そんなあたしがどうして氷室くんに想いを打ち明けられるだろう。
それに氷室くんは黙っていてもモテる。その上、どんな美人が告白してきても断るのだという氷室くんに自分が釣り合えるとも思えないし、ぶっちゃけ誰にも氷室くんのことが気になるのだと言ったことはない。だからいつかこの想いは憧れに風化して、そのうちに氷室くんのことを考えるだけで胸が痛くなることもなくなってしまうのだろう。

すれ違うだけで幸せ。
これを恋というのであれば、あたしはもうずっと長いこと氷室くんに恋をしていることになる。


「しかしほんとに帰宅部は暇なんだって思われてるんだな…実際暇だけど」


だが恋をしていようがしていまいが、あたしがしなくてはならないことは変わらないし、こんなふうに放課後いきなり先生に呼び出されて資料の運び出しを頼まれるのもよくあることだ。他の帰宅部の友人は「断っちゃえばいいのに」と笑っていたけれど、それでも断れないのがあたしの性分である。それに先生も疲れ切った顔をしていたし、すこし資料を運ぶぐらいわけはない。
だから重い段ボールを何度か降ろしながら運んでいたのだが、そろそろ腕もしびれてきた。どうしたものか。そう思いながら何度目かのため息を吐き、気合を入れて足を踏み出したのだが、自分の身長よりも高いものを運んでいたものだから前がまったく見えていなかったのだろう。
ぼふん、と何かにぶつかって、あたしはそのまま廊下に尻もちをつく、はずだった。
が、前から長い腕が伸びてきて資料ごとあたしを抱きとめてくれたものだから、そんな大失態は犯さずに済んだようである。


「…えっ、あの、すみませんほんとごめんなさい!前がよく見えてなくて!怪我はありませんか」
「ああ、その声はなまえちゃんだね?」
「え、あ、その声は氷室くん?」
「はは、俺だよ」
「え、あの、ほんとにごめんね…!てか重いよね!ごめん!すぐに体勢立て直すから!」
「べつに重くないよ。だけどそうだな、体制は立て直そうか」
「う、うん!」
「だけど荷物はこっち」


慌てて体制を立て直そうとしているあたしの手からそう言いながらあっさりとダンボールを奪い取った氷室くんはニッコリと笑って、「これはどこまでだい?」なんて尋ねてきた。…憎いほどイケメンである。というよりどうしてあたしがさっきまで抱えるように持っていた段ボールを自然と奪うことができるのだろうか。氷室くんのバスケはとてもキレイで流れるようなバスケだと誰かが言っていたけれど、こういうところもやはりそういう技術は反映されるのだろうか。あたしにはよく分からないけれど、そうでなければ説明がつかないような気がする。
しかし、氷室くんはバスケ部だ。たしかに段ボールは重いし、あわよくば誰かが手伝ってくれたりはしないかななんて甘い期待を抱かなかったといえばウソになるが、氷室くんの練習の時間を割いてまで手伝ってもらうのは申し訳がない。


「い、いいよいいよ!もうすぐそこだし!氷室くんは練習いきなよ!」
「もうすぐそこなら尚更持っていくよ。それに段ボールを運ぶぐらいそんなに時間はかからないだろ」
「そうかもしれないけど…」
「俺と一緒にいるのが嫌なら練習に行くけど」
「そういうわけじゃない!」


挑戦的にそんなことを言う氷室くんの言葉に、自分でも驚くほどのスピードで否定の言葉が出た。そしてそんなあたしの言葉を氷室くんは分かっていたのか、楽しげに笑いながら「じゃあ、どこまで?」ともう1度聞いてきてくれたので、今回は素直に答えておくことにする。そうするとその準備室はなかなかに遠かったので氷室くんに多少笑われもしたが、それでも運んでくれるらしい。やはり氷室くんは女性に優しいフェミニストだ。日本にももっとこの文化が浸透してくれればいいのに、と思いながら氷室くんの隣に立つことにする。
だがもちろんあたしだってすべて氷室くんに持たせるのは悪いと思ったので氷室くんに「半分持つよ」と言ってみたのだが、氷室くんは目を細めながら「このぐらい重くもなんともないよ」なんて言ってくれた。…やはりそこらへんは男子と女子の違いなのだろうか。なんなら氷室くんはそれを片腕で持ち上げてみせてくれたりした。

そして「男のメンツを立てるためにも俺に持たせてくれると嬉しいな」なんて、そこまで言われてしまえばあたしだってそれ以上喚くことはできない。

だからすこしばかりの居心地の悪さを感じながらも氷室くんと準備室までの道を歩いていたのだが、氷室くんは何も言わない。もちろんあたしも何も言わない。まあそれは当たり前だろう。クラスも部活も違うあたしたちが話すことのできる共通の話題なんてのはおそろしいほど少ないのだから。

しかしさすがは氷室くんだと思う。


「なまえちゃんはさ」
「あ、うん」
「結構先生の手伝いとかしてるよね」
「まあ帰宅部だしね」
「でも予定もあるだろう」
「あーまあ、調整できるし」
「人がやらないことを率先してやったり、そういうところを見てるやつは意外といるもんだよ。もっと自信を持っていい」
「はは、そういう人もいてくれるといいなあ」
「いるよ。具体的な例で言えば、俺とかね」
「…あはは、なんか照れる」
「なまえちゃんみたいな子を大和撫子っていうんだろうね」
「いやーそれは違うと思う」


遠くから眺めているよりも氷室くんはずっとずっと素敵な人で、楽しい人だった。ともすれば冷たい印象を与えてしまいそうなほど整った顔は思っていたよりもずっといろんな色を持っていたし、安心感をも与えてくれる。まあ、合間に挟まれるリップサービスはすこしばかり気恥ずかしかったけれど、それも嫌ではない。氷室くんは人の長所を長所と褒め、美徳だと言ってくれるのだ。そんな言葉が嬉しくないはずがない。

そしてその資料を準備室まで運んでくれた後、氷室くんは思い出したように手帳の最後の一枚を破り、そこに何かを書きこんでそっとあたしに手渡してくれた。だが、事態がうまく飲み込めずあたしはその紙を握りしめたまま氷室くんの顔を見上げていたのだけれど、氷室くんはそんなあたしの頭を何度か撫でてから、なにかを言ってから、そのまま部活へと行ってしまった。ちなみにあたしの苦手教科は英語である。だからあたしには氷室くんが言ったなにかはまったくもって分からなかったのだけれど、後日聞いた話によると、その日氷室くんは部活に遅刻した罰でかなりのメニューをこなさなければならない羽目になったらしい。これはやはり、言うまでもなく、間違いなく、あたしのせいである。

だからあたしがこうして紙に書かれていたメールアドレスにメールを打っているのは、けっして不自然なことじゃあないと思う。『あの日は手伝ってくれてありがとう。そして部活に遅刻させてしまってごめんなさい』たったそれだけのメールに氷室くんがくれた返信は『きみといたかったからだよ』なんて、さらに混乱してしまったけれど、昨日よりは今日、氷室くんに近づけた。

ちいさな幸せが積み重なって、恋が大きくなっていく。これはどれだけ待っていたところで憧れにはならないだろう。あたしはきっとずっと氷室くんが大好きだ。

(14.0123)
甘いお話ってこんな感じですかね…?あまり接点がない、という設定だったのに改変してしまって本当にすみません…!お気に召しませんでしたたらいつでもお申し付けくださいませ!それでは素敵リクエスト本当にありがとうございました!


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