今思えば恭弥くんが居てくれた日々は、夢みたいな日々だった。だからこそ、多分わたしは立ち直れたのだろう。人間のたくましさというものを改めて実感する。いくら悲しいことがあろうとも、それぞれの環境というものがあればそれに順応するのだ。社会的役割が加われば尚更である。失恋したからといってそれが役割をこなさなくていい理由には成り得ない。
そして今日も今日とて残業に追われ、すっかり遅くなった帰宅時間。いくら何でも休みすぎたか。ご丁寧にもわたしが休んでいた間の仕事は一切手は付けられておらず、わたしはこの数日間と言うもの、本当に忙殺される勢いである。だがこの忙しさが悲しみを和らげてくれているのも確かだ。仕事の忙しさに助けられてる。
ごそごそと鞄の中を探るも、なかなか鍵は見つからない。あれ、おかしいな。会社に忘れてきたかな。いや今から戻るのだけは本当に勘弁。マジもうベッドにダイブしたい気分なんだもん。はあ、と重い溜息をつき、そういえば元彼が返しに来た合鍵をポストに入れっぱなしにしていた事を思い出した。
セキュリティー的にはかなり問題アリだが、実際これでわたしは何度も助けられてきた。よく会社に鍵を忘れるわたしにとって、この合鍵は非常に重要な役割を持っていたのだ。
「……ない」
だがしかし、やはり甘かった。
そりゃあ盗られるわ。ポストに鍵なんて入ってりゃそりゃ盗られるわ!
しかし、鍵がないと言う事は誰かが今、この部屋に居るということなのではないだろうか。それはもしや、強盗などの類なのではないだろうか。お母さんだといいなと思いながら、インターホンを押す。
すると扉を開いたのは、意外な人物だった。
「おかえり、なまえさん」
見間違えるはずがない。
「恭、弥、くん………?」
「話すと長くなるから省略させてもらうけど、僕は死んでなかったみたいでね」
「え、え、ええええ!」
「銃で撃たれて生死を彷徨ってはいたみたいだけど。2日前目が覚めた」
「銃で撃たれる!?そ、そんな馬鹿な…!」
「ワオ、叫ばないで。近所迷惑になる」
「ご、ごめん」
あまりにも現実離れしている言葉の連続についつい声が大きくなってしまった。慌てて口を閉じると、恭弥くんはニヒルに笑ってわたしを抱き締めた。間違いない、恭弥くんだ。次第に潤んで滲んでいく視界。恭弥くん恭弥くん。
「ああ、そうだなまえさん」
「……ん?」
「この合鍵、貰っていいよね?」
合鍵を手ににこりと微笑む恭弥くん。
当たり前だ。これからは今まで寂しかった分全部埋めてもらうんだから、恭弥くんにはずっとここに居てもらわなくちゃ、わたしが困る。合鍵ぐらいいくらだってくれてやる。そんな今更過ぎる「合鍵をくれ」なんて、そんなことを問う恭弥くんに何度も何度も頷いた日から数週間後。まさかイタリアに移住する事になるだなんて、わたしはこのとき、これぽっちも思わなかったのである。
(10.1122)