「恭、弥、くん」

一体何があったというのだろう。まだまだ仕事が終わる時間には到達していないし、こんな風に息を切らして帰ってきたことなど今までに1度だってなかった。その上頬には昨日の比ではない大粒の涙が伝っている。その場で立ちすくむ僕を潤んだ瞳で捉えると、途端になまえさんはふにゃりと顔を歪ませ、僕に抱きついた。
すると今までよほど我慢していたのか、大きな声でわんわんと泣き喚くなまえさんの体をゆっくりと抱き締める。あの普段明るいなまえさんがこんなにも泣くだなんて、一体、会社で何があったのだろう。細い背を撫でさすりながらヒールを脱がせてやり、リビングへと連れて行く。そしてゆっくりとソファに座らせた。


「どうしたの」


いまだボロボロと涙を流し続ける彼女の涙を拭いながら問う。僕は彼女を見上げるようにフローリングに膝をついた状態だ。だが、問いに答えるでもなく彼女は僕を見下ろしながらわなわなと唇を震わせている。よほど言いたくないのだろう。それほど口惜しいことがあったのだ。さてどうしようかと思案した。
だけれども、暫くするとなまえさんはゆっくりと口を開き、小さな声で呟いた。


「わたし、失敗したの」


その声はひどく弱弱しかった。そのために、僕は一瞬聞き間違えたのかと思ったほどだ。だってそう思うじゃないか。けれど泣きながら微笑もうとするなまえさんの姿を見て我に返る。聞こえなかった事にして、もう1度、問いかける。


「今、何て」

「今日ね、大事なプレゼンがあったの。なのにわたしの書類は不十分で、もう1人の担当が用意してくれてるはずだった映像はね、違うやつだったの。もう散々だったの。わたし、連絡するまで会社に来るなって部長に言われちゃったの」

「…なまえさん」

「ちゃんと作ったと思ったんだけど、不十分だった。部長に迷惑かけちゃった…」


なまえさんはそう言って膝の上で強く拳を握り締めた。

あまりに痛々しい姿に息が詰まる。あれだけ一生懸命に頑張っていたプレゼンが失敗した?僕の目から見ても絶対に成功するだろうと思えたあのプレゼンが?しかも映像の方まで失敗だったなんて、そんなことがあるのだろうか。会社勤めの経験がないので生憎どういうシステムなのかは分からないが、少なくとも彼女だけの失態ではないということだけは確かだった。
しかしこれも分かる。やたらと責任感の強い彼女のことだから、この失敗は全て自分が引き起こしたのだと反省しているのだろう。

僕は彼女の隣に腰掛けると、その頭を自らの肩に抱き込んだ。そしてぽんぽんと軽く叩く。大丈夫だと。安心してと。言葉にならない思いを指先から伝えられるよう、なるべく繊細になまえさんに触れた。髪を撫でた。自らの頭をすり寄せた。

どれだけ、そうしていただろうか。

なまえさんはゆっくりと起き上がると、僕の目をしっかりと見据えて、それから恐る恐るといった様子で僕に抱きついてきた。細かに震えるなまえさん。
ああ、彼女は今までに挫折を味わった事がないのだ。持ち前の明るさでピンチをチャンスに変えてきた彼女だから、こんな風に絶対的な窮地に立たされた経験が皆無なのだ。
だからこんなにも、辛いのだ。

するりとなまえさんの背中に腕を回す。ゆっくりと、力を込める。僕の耳元で小さく息を吐くなまえさんの吐息が聞こえた。とても切なげで脆くて、愛おしい。この腕の中に居る彼女は壊れ物だ。硝子なんかよりももっと壊れやすくて繊細で、それでいてしなやかで美しい。このひとを守るために必要なのは何だろう。この腕は彼女を抱き締めることぐらいしか出来ないけれど、この気持ちは彼女の心を少しでも穏やかに戻すことが出来るだろうか。


「ごめんね、恭弥くん」


くぐもった声だった。それでも少しは、笑ってくれているみたいだった。なまえさんの声は穏やかで、いつもの優しい声に戻っていた。たったそれだけのことでこんなにも嬉しく思う。ぎゅうと抱き返すと、ぐりぐりと小さな頭を撫でてやった。心地よさそうに身を捩るなまえさんが愛しくて堪らない。


「何が?」

「昨日から見苦しいところいっぱい見せちゃってごめん」

「今更でしょ」

「それと、」

「ん?」

「わたし恭弥くんが居てくれなかったら、耐えられなかった。頭が真っ白になっても、わたし、恭弥くんに会いたい一心でここに帰ってこれた」

「……」

「恭弥くんがここに来てくれたのは恭弥くんの意思じゃないかもしれないけど、でも、居てくれてありがとう」


そう言ってなまえさんはより強く僕を抱き締めた。思っていたよりもずっと小さな身体だった。僕より一回り以上小さな身体で、今までどれだけ頑張っていたのだろう。

するとなまえさんはゆっくりと僕から離れた。すんと鼻を啜る姿はやはり未だに痛々しいが、それでもだいぶ帰ってきた時よりは落ち着きを取り戻したらしい。長い睫毛は涙を纏いしっとりと濃く色づいている。その様が、とても綺麗だと思った。化粧なんかしなくたってこんなにも綺麗なのだ、このひとは。世界中に自慢したい気分だった。
するとなまえさんの小さな手が僕の服の裾を小さく握った。そして伏し目がちに目を伏せたまま、ぽつりと呟いたのだ。


「笑わないで聞いてね」

「うん」

「わたしは社会人だし、大人だし、恭弥くんは子どもだけど、これはちょっとした犯罪だけど、でも、どうしても。困らせちゃうって分かってるんだけど、今日、気付いた」

「………」

「わたし、恭弥くんのことが」


好きなの。


彼女の切ない震えた声色が静かに部屋の中に解けた。そしてギシリ、とソファが軋むスプリングが1つ。僕は彼女の濡れた目元に柔らかく口付けた。くすぐったそうに目を閉じるなまえさん。可愛い、綺麗、儚い。ゆるゆると彼女の頬を撫で上げ、そのまま固定する。すると彼女もまた、僕の手に自らの手を添え、更に僕の頬にも手を添えてくれた。彼女の手は泣いていたためか、ひどく熱を持っていた。けれど、震えては居なかった。

カチカチ、秒針の音が次第に遠ざかっていく。まるで世界に2人しか居ないみたいに、周りのものが何も見えなくなっていく。なんて心地よいのだろうと思った。心臓も体温も何も持たない僕だけれど、この存在全て今、僕は彼女のものだった。そして彼女もまた同じく、僕だけのもの、だった。

徐々に近付いていく彼女の顔。僕はゆるりと瞳を閉じた。

(10.1029)




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