昨日はあんなものを見てしまい、恭弥くんに多大な迷惑をかけてしまった。一緒に寝て欲しいだなんていい年をして恥ずかしい。恭弥くんが優しかったからいいものの、もし相手が最近よくあるような生意気な子どもだったら、わたしは確実に変質者扱いだ。世間からの白い目に晒されることは覚悟しなければならないだろう。…もっとも家に幽霊が居候している状況など他には恐らくないので、相手が恭弥くん以外であるケースで考えるのはこの場合正しいとは言いがたい気もするが、それはもうスルーである。スルー。
とりあえずわたしがすべきことは、この目の前に山積みになった仕事を丁寧に処理していく事である。テイクマイタイム。ゆっくりやれよわたし。ミスをいちいち直していくほうが面倒だ。
するとわたしの隣に元恋人、今は同じ仕事を任された同志が腰掛けた。相変わらず人当たりのよさそうな笑みを浮かべる男だ。この笑みがひどく好きだった昔が夢のようだと思う。恭弥くんの方がずっと魅力的だからかは知らないが、今はこの男に欠片も魅力を感じない。もう本当に仕事仲間としてしか見ることが出来ない。まあそれでいいんだろうけど。お互いもうあとくされはないはずだ。
「書類どのぐらい出来た?」
「あー、まだちょっと残ってる。でも、午後のプレゼンまでには間に合わせるよ」
「そうか。こっちの映像の方は問題ねェから」
「悪いね、わたし本当にパソコンとか苦手なんだよね。だからやってくれてありがと。助かった」
「そのぐらい任せろって」
彼はそう言って笑った。この男はパソコンが得意だ、それこそ会社内でもトップレベルに。それほどの実力があるなれば、わたしなんぞが口出しするよりも任せきりにしているほうがよほど安心といったものだろう。その上、わたしはパソコンが得意な方では決してないし、それにコイツと仕事をするのは初めてではない。ある程度のツボは心得てくれている。
思い切り背伸びをすると、体の関節がボキボキと音を立てた。
「しんどそうだな」
「うん。あ、腕枕ってしんどいんだね。わたしびっくりしたよ」
「…は?」
「昨日腕枕してたんだ、人に。いやー痺れる痺れる。朝起きたとき本当に自分の腕か疑っちゃったよ」
「お前が?腕枕?」
「うん、いやーでもいい経験だったな」
そのとき彼の方を見ていたならば、彼はなかなか壮絶な顔をしていた事に気付いたかもしれない。でもわたしは見なかった。それがいけなかった。わたしは浮かれきっていた。彼はもうわたしになんてこれっぽっちも気持ちを持っていないと勝手に錯覚していた。
そして最も致命的だったのは、彼がするりとわたしの書類を何枚か抜き取った事に気付けなかった事だ。しかも何枚か間を空けて抜き取られたものだから、直前まで気付かなかった。
そして気付いたときには手遅れだった。
プレゼンは散々だった。わたしの資料は不十分で、彼が作ってくれていたであろう映像は全くこのプレゼンに無関係なものだった。どうして、こんなことが。初めて会社でぼろぼろと悔し泣きに濡れるわたしに、部長は声をかけた。その言葉は慰めでも何でもなかった、当たり前だ、わたしは社会人なのだから。そんな生易しい優しさに当たっていられるほど、子どもではないのだ。
「なまえ、オレが連絡するまで、会社には来るな。いいか?」
絶望だった。わたしにとって、それは、何にも例えようのない苦しみだった。部長に頭を下げ、鞄を引っつかみ、会社を走って後にする。ヒールで走った足が痛い。普段運動不足なのに急に走ったりするからだ、肺が悲鳴を上げている。
それでも止まらなかった。早く家に帰りたかった。ぼろぼろ零れ落ちる涙を拭いながら、それでも足だけは止めない。今立ち止まったら、一生進めなくなるような気がした。
「恭、弥くん…!」
恭弥くんに会いたかった。
(10.1029)