朝目が覚めたらベッドの上だった。いや、至極普通の事なのだろうが、あれ、おかしいな。不思議な事にお風呂に入った以降の記憶がごっそり抜け落ちている。そしてどんなに思い返してみたところで自分の足でベッドへ向かった記憶がない。それどころかうっすらとではあるが、あろうことか恭弥くんの肩にもたれかかってしまったような気もする。…ああ、気がするだけと思いたい。夢の中での淡い妄想だと思いたい。
だがしかし現実とやらは思ったよりも当事者に対して辛辣であるらしかった。
「ああ、昨日は僕が運んだよ」
これだ。わたしはもう絶叫したくなった。
それがどうかしたのかなんて言いたそうな涼しげな表情を恭弥くんは浮かべているが、わたしはもう世界の終わりを迎える寸前に立ち会ったかの気分だ。世界の終わりを迎えたことがないのであくまで気分だけの問題だが。
全く動じた様子もなくいつもと変わらない恭弥くんに反して、やはりわたしの慌てふためきようは半端じゃない。頭を抱えてオーバーに落ち込むわたしを愉快そうに眺める恭弥くんにはどうやら事の重大さが分かっていないようである。
笑顔を見られたことも結構わたしとしては衝撃的ではあるが、それよりもよっぽど衝撃的なのはやはり、こんなイケメンに体重を知られてしまったことだろう。
「ああこんなことならダイエットちゃんとしておけばよかった…」
「別に重くなかったけど」
「そんなお世辞いいから恭弥くん。わたし分かってるから。体重計は嘘をつかないからァァ!」
「気にしすぎ」
「だって恭弥くん細いもん!絶対我慢してたに決まってるもん!」
「ワオ、僕男なんだけど」
「でも恭弥くん細いもん!見るからにわたしのほうが力ありそうだもん!」
「ふうん」
じいっとわたしを見据えてくる鋭い双眸に一瞬たじろいだものの、すぐにそれは疑問符へと変わる。ニッコリと意地の悪そうな微笑を浮かべたまま、恭弥くんは何と腕を差し出してきたのである。それも肘をテーブルにつけた状態で。
…まさかこれは腕相撲をしようという合図なのだろうか。いや、確実にそうなのだろうが、いやしかし。
「あの、恭弥くん」
「腕相撲」
「…いやいやいや、わたし絶対勝っちゃうからこれ。ホント絶対勝っちゃうから」
「ワオ、なら、両手使いなよ」
「……え?」
「いいから両手使いな。それでも僕が勝つから」
「いやいやいや!それは絶対ないって!わたし結構力強いし!」
「いいから」
「ええええええええ」
「ただし僕が勝ったら仕事の帰りに日本の名湯入浴剤買ってきてね」
「また渋いところつくね恭弥くん」
どうやら勝負をしない選択肢とやらはないらしく、恭弥くんの手に両手を重ねる。別に日本の名湯入浴剤を買って帰ることぐらい本当に何てことはないが、何だか勝負に負けるのも癪である。なので恭弥くんには悪いのが、思い切り力を込める。込める。込めた。が、動かない。
「…あれ、恭弥くん腕に鉛仕込んだ?」
「ワオ、僕をどこのサイボーグだと思ってるの」
「だって動かないよ、全然」
「当たり前」
「え、え、えええええええ!」
「ほらね、言ったとおりでしょ」
にたりとしてやったり顔を浮かべる恭弥くん。あまりの口惜しさに両腕に力を更に込めてみるも、結果は同じだ。びくともしない。まるで壁を押しているみたいだ。
驚いてわたわたと阿呆面を晒すわたしの顔を愉快そうに眺め、恭弥くんはクツクツと笑った。馬鹿な、わたしが負けるなんて!こんなに細そうな恭弥くんも、脱いだら今流行りの細マッチョだというのか?…いや、脱いだって細いものは細いだろう。だって腰とかもう女の子みたいだもん。すっごい細いもん。
でも負けたものは負けたのである。
目の前には勝ち誇ったように自信満々な笑みを浮かべる恭弥くん。本当に何から何まで整った少年である。この歳で(まあ実際の歳は分からなかったのだが)これだけニヒルな笑みが似合うのは本当のイケメンである証拠だ。改めてこんな少年と同棲している自分の幸運さ加減に万歳三唱である。
「すごいね!男の子って力強いんだね!」
「あなた言うほど力強くなかったけどね」
「でもわたし学生時代握力25あったんだけどなー」
「……まさか僕の握力がそれ以下だと思ってたとかは言わないよね?」
「え?」
「…25以下の男子なんてそう居ないから」
「ええええええええええええ!」
嘘だろう。わたしの中の全ての常識が覆された瞬間だった。男子ってそんなに力強いのか。この歳になって初めて知るだなんてなかなか恥ずかしい話だが、わたしはそこそこ男子の中でも力が強い方だと思っていたぞ。
そう言うと恭弥くんは「あなたって馬鹿だね」と言ってクツクツと愉快そうに笑った。
「で、でもわたし学生時代は結構男子よりも重いもの持ってたりしてたよ!」
「どうせあなたが自分から持つって志願したんでしょ。でもそれが案外重くて、でも今更男子に頼るのも格好が悪いからって震えながら運んだりね」
「……まあ、そうだけど」
「でしょ」
「なんかまるで見てたみたいだね恭弥くん」
「かもね」
「え」
そんなわけないじゃない、と言われると思った。なのに、恭弥くんはふっと微笑んで、そんなことを言いながらわたしの手を取った。男の子らしい大きな手だ。相変わらず体温はないけれど、指なんてわたしよりも一関節分ぐらい長い。思わず恭弥くんの手の美しさに見惚れていると、ちらりと見えた自分の手首に巻かれてある腕時計に表示されてあった現時刻に一気に現実に引き戻された。
さあっと青ざめた脳内を何とか起動させて、椅子の上においてあった鞄を引っつかみ、慌てて玄関へと走る。
「ちっ遅刻ゥゥゥゥ!」
「行ってらっしゃい、日本の名湯入浴剤忘れないでね」
余裕の笑みを浮かべてわたしに手を振る恭弥くん。時間がギリギリになってきてたの、絶対あの子分かってたな!クソウ、今頃はクツクツと玄関先でわたしのことを笑っているに違いない。
しかしあの日本の名湯入浴剤を手渡したときのすごく嬉しそうな笑顔を見ていると、そんな些細な意地悪ぐらい許してあげてもいいかなとさえ思えてしまった。何だかんだでわたしはとても恭弥くんに甘いのである。
(10.1024)