彼岸花
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トン、と音を立てて庭に足を着ける。
するとアヤカがゆっくりと振り向き、にこりと微笑んだ。
「あなたもこっちに来る?」
ほら、と鯉の餌を差し出しながら、静かな声で言う彼女。
その誘いに乗り、彼女の隣に佇んだ。
「見て、鯉達を。必死になって餌を食べてるでしょ? 恐いくらいに。……そんなに美味しいのかしらね」
パシャパシャと音を立てて跳ねる、十三匹の鯉。どれも美しい模様、色だった。
「あなたもやってみる?」
アヤカは餌の入った袋の口を開けて、掌に乗せてくれた。ぽろぽろと掌で転げる丸い餌。とても美味しそうには見えなかった。
その美味しそうに見えないもの──鯉の餌を池に放り込むと、我先にと鯉が群がる。
悪食──そう感じられるほどに。
「……あれから一年経ったのね」
する、と不自由な足を撫でるアヤカ。悲しそうな顔をしているのか──心配して顔を覗き込んでみる。
が、彼女の顔は清々しいほど、晴れていた。
「不思議でしょ? 一年前のあの日から、時々あった痛みがなくなったのよ」
「…………」
ゆら、と綺麗な瞳が揺れる。
その瞳に映っているのは、過去の忌まわしい記憶だろうか。
「あいつが死んで……私は生まれ変われたような気がするの」
「……そう。それはよかった」
「……あなたは?」
ぺたりと草の上に座り込み、首を傾げながら訊ねてくるアヤカ。
その仕草が可愛くて、思わず抱き締めたくなったが、すぐ傍の部屋にいるであろうマイコ達に遠慮する。
「あなたは、何か変わったかしら? ──キョウスケ」
一年前の肝試しの日、僕はある男を手に掛けた。
その男の名は、ケンジ。
幼馴染みでもあり、友人でもあった男だ。
その男──ケンジ殺害計画を立てていたのは、僕──キョウスケとアヤカ、そしてマイコとジンの計四人。
あの肝試しそのものが、ケンジ殺害計画のためのものだったのである。
同窓会を開き、肝試しにケンジを誘う。そして、それぞれが用意した仕掛けでケンジを驚かせ、混乱させて──殺す、というもの。
用意した仕掛けは、アヤカが本堂の蜘蛛の糸、マイコがマネキン、ジンが人魂だったそうだ。
それに無断で手を加えた──蜘蛛の糸に血を思わせる赤い塗料を滴らせ、マネキンの頭を斧で割り、人魂で焼死したように見せかけた──のは、全て僕である。
自分の仕掛けに──知らぬ間に手が加えられていて、三人共、さぞ怖かったことだろう。
……では何故、この四人が……幼馴染みであるケンジを殺したのか。
理由は様々だった。
まず、アヤカ。
彼女は、ケンジのせいで足を悪くしたのである。
お金持ちである彼女を羨み、嫌っていたケンジはある日、彼女を階段から突き落とした。
階段から落ちた場合、最悪死ぬ。アヤカは幸いにも死なずに済んだ──が、しかし、足が不自由になってしまったのだ。
ちゃんと歩くことはできないし、走ることもできない。
足が悪くなってからというもの、彼女は時々不安定になった。
「どうして……どうして私がこんな目に遭わなければならないの!? ……こんな目に遭わせたあいつ……あいつは、ケンジはどうして生きているのよ!」
と、半狂乱になって暴れたこともあった。
僕はそんな彼女を見る度に、ケンジを憎く思った。
それから、マイコ。
彼女はラブレターをからかわれたことを始めとして、いじめのようなことをされていたらしい。
ジンはというと、金の無心をされていたようだ。
僕らを子供の頃から散々苦しめてきた男。それがケンジなのだ。
「……変わってはいないね、僕は。でも、今のように幸せそうにしている君を見ていると、幸福になれるよ」
餌を掌で転がしながらアヤカに言うと、嬉しそうに微笑んでくれた。
「……手は、血に染まってしまったけどね」
一年経った今でも、ケンジを殺した感覚が残っている。
斧で彼の首を刎ねた感覚が。
「時々、夢に見るよ」
首に斧が食い込み、肉を千切り、胴から離れる──その映像が何度も何度も繰り返し、僕の頭を流れるのだ。
「その夢を見る度に……何でだろう、何だか──楽しいっていうか、面白いっていうか……一人で笑ってしまうんだ」
昨夜、この別荘でジンと同室だった僕は、その夢を見た。
起きて一人笑っていると、ジンが恐ろしい、この世のものではないものを見るような、そんな目で僕を見てたっけ。
「僕はおかしくなったみたいだ。……嫌いになるかい?」
「ならないわ。そんなあなたのことも、愛してるもの」
目を細め、妖艶に笑う。歪んだ唇がほっそりとした月のようだ。
「……本当に、こんなに新しい、清々しい気持ちになるのなら……もっと早く殺ってしまえばよかったんだわ」
空で輝く太陽を見詰め、アヤカが低い声で呟く。
「あんな男……生きている意味がなかったんだから……」
アヤカの美しい顔が憎しみに歪む。が、その憎しみを向ける対象がもういないことを思い出したのか、ぱっと顔を明るくした。
「でも、死んだ後に役に立つなんて!」
鯉の餌が入った袋をプラプラとさせ、楽しそうに笑う。
「……そうだね。彼も鯉の糧になれて……役に立ててよかったんじゃないかな?」
掌に乗る、ちっぽけな鯉の餌を見ながら答えてやると、アヤカは満足そうに頷いた。
ケンジの死体は──胴と首が離れた体は、セバスチャンによって処分された。
それと、もう一体……僕の身代わりで死んだ、シェフの死体もだ。
あの日、僕は薬で眠らせたシェフに火をつけ、殺した。彼はもがき苦しみながら焼け死んだ。
悪かったと思う。が、仕方がなかった。ケンジを確実に葬るためだった。
そして、死んだフリをした僕は、こっそりとケンジを殺す機会を窺っていたのだ。
崖から出口を探している間も、斧を取りに行っている時も。片時も彼の傍を離れなかった。
よく気付かれなかったと思う。
そうして、隙をついて殺した後、セバスチャンを呼び、死体を処分させた。
後日、死体をどうしたか訊いたら、セバスチャンは無表情のまま、小さな袋を僕に渡した。
それが、この鯉の餌だったのである。
セバスチャンは、死体の一部を鯉の餌としたのだ。その他の部位はどうしたのか──もう訊く気にもならなかった。
「セバスチャンは本当にすごいね。一体どうやったのかな」
「さぁ……私にも教えてはくれなかったわ」
くすくす、とアヤカの笑い声が耳を突く。
それに釣られて、僕も笑った。
心の底から、幸せを感じながら。そして──掌から、ケンジの憎悪を感じながら。
庭の隅で、彼岸花が風に揺られていた。
その花は、僕の手についた血のように赤い。
彼岸花は、鎮める。
無残に殺された、愚かなケンジを。
彼岸花は、嘲笑う。
自分は悪くないと思っているマイコを。
彼岸花は、哀れむ。
後悔し、一生その罪を背負っていくことにしたジンを。
彼岸花は、見守る。
憎しみの呪縛から解き放たれたアヤカを。
彼岸花は、……何を思う?
殺人鬼となって、まともな人間でなくなった僕に。
「見てごらん、彼岸花が綺麗に咲いているよ……随分と早く咲いたものだね」
アヤカの別荘の庭に。
僕の手に。
真っ赤な真っ赤な、彼岸花が。
ケンジが死んだこの日を赤く赤く照らし、一生忘れないようにと、深く深く僕らの心に根を張ろうとしているのかもしれない。
……この花は、二度と枯れないだろう。
僕らがいつか、この世から消えてなくなるまで。
「ケンジ、見てるかい? 君がいなくなった方が、この世界は輝いて見えるよ……」
僕の手から、残りの鯉の餌が零れ落ち……そのまま、鯉の口の中へと吸い込まれていった。
鯉が跳ね、飛沫が舞う。その飛沫は彼岸花に掛かり、キラキラと赤を美しく輝かせていた──。
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