一年後
(side:M)
―――
――――――
「これ、だーれのだ?」
その声で振り返ると、声の主はニヤニヤと笑いながら右手を高く挙げ、白い紙をヒラヒラ動かしていた。
いかにも楽しそうに。
だけどあたしはその白い紙を見て、血の気がサッと引き、心臓が一瞬止まったような気がした。
そして、ドクンと心臓が大きく動き出す音が聞こえた瞬間、あたしの体はいつも以上の速さで動いていた。
「返してよ! それは駄目っ!!」
あたしは一生懸命その白い紙を相手から奪おうとするが、それはどう見ても無理だった。
だって背が足りなさ過ぎる。
相手は最初からそれを知っているのか、ニヤニヤと笑い続けた。
愉快そうにあたしを思い切り突き飛ばすと、近くの机へと上り、その場にいた皆に見せびらかすように教室をグルリと見渡した後、口角を更に上げる。
あたしは突き飛ばされたせいで尻餅をつき、目線が相手より遥か下になってしまった。
ジンジンと床に打ち付けた所が痛むが、それ以上にあたしを見下したようなあの笑みが心底気持ち悪い。
アイツは誰かを見下さないと気が済まないんだ!
今度の標的はあたしなんだ!!
「返してよ!」
あたしが大声を上げて相手の足に掴みかかろうとするが、その足で首を蹴られた。
一瞬息が止まるような痛みを覚え、その場に蹲るが、気を失うような痛みはなかった。
ただ、呼吸が全くできず、目の前が少しずつ霞んでいく。
「えーっと……井上君、あなたの事を三年前から見ていました。大好きです!!」
あたしが一生懸命呼吸をしようと、空気を吸ったり吐いたりしているのをいい事に、相手は楽しそうに大声で白い紙――いや、あたしの書いたラブレターを読み出した。
たくさんのクラスの子がいる中で、だ。
「もしよかったら付き合ってください、だってよ! ギャハハッ!! ばっかじゃねぇ?」
視界がゆっくりと開かれ、あたしの呼吸が元に戻った頃には、もうラブレターは全て読まれてしまい、相手は机の上でゲラゲラと面白そうに笑っている。
クラスの皆の視線が痛い。
一部は失笑、一部は哀れみの眼差し、一部は関わりたくないと無視。
何でこんな罰ゲームみたいな事を受けないといけないの!?
あたしが何したのよ!!
わなわなと震える自分の拳を何とかその場に留めるが、それに拍車をかけるように、相手は机の上から跳び下りると、あたしの前へ立った。
「マイコ、お前みたいな奴がこんなの書いてどうするんだよ? 地味で、チビで、頭悪くて、子供臭いお前が何夢見てんだよ。お前なんて幼稚園のガキとおままごとしているのが似合うんだよっ!!」
そう言って、あたしの頭にラブレターを投げつけた。
グシャグシャになったラブレターは、あたしの頭からすぐに落ち、目の前を転がる。
それを相手は右足を上げ、グシャリとゆっくり、そして時間をかけて踏み潰した。
愉快だと言わんばかりに大笑いしながら。
人を蹴落として何が面白いのか。
人の心を踏みにじって何が楽しいのか。
その瞬間、あたしの何かが切れた。
「ケンジー!! あんたなんかっ!!」
あたしはその相手――ケンジに飛び掛った。
憎い、憎い、こいつが憎い!!
鬼のようなコイツが!!
こんな奴――消えてしまえばいいのに!!
―――――
―――
「……っ!!」
ジメッとするような生暖かい風が頬を撫でるように吹き付け、ハッと我に返る。
慌てて周りを見回すと、真っ白で何処までも広い空間があたしを囲んでいた。
フワフワで座り心地の良さそうなソファーに、大理石で出来た机。
全ての調度品が、とても品よく部屋に置かれていて、ここがアヤカの別荘だという事をジワジワ思い出す。
「あたし……寝ていた?」
重い頭を右手で押さえ、軽く叩いてみる。
頭はまるで悪夢をたくさん吸収しているようで、叩いたくらいじゃなかなかその夢は払拭しない。
むしろ夢の内容がどんどんと頭の中で面白いように順を追い、再生をしていく。
思い出したくない過去――ケンジが憎くて憎くて、いなくなればいいと思っていた黒い過去。
だけど、これは夢じゃなくて事実だ。
本当にあった事なのだ。
「ああ、この時期だから……? だからこの夢を見たのかな?」
あたしはいつの間にか小さな声で呟いていた。
そう、この時期だからだ。
この時期だから、あたしはここにいるのだ。
こんな格好をして――。
静かで涼しい空間。
この部屋にはきちんとテレビが備え付けられているが、その音すら子守歌に変わってしまうほどの心地よい場所。
壁が全てガラス張りで、まるでここと外が繋がっているような錯覚になる。
外は綺麗な緑とたくさんの花がまるで絵画のように整然としており、それらに眩しい太陽の光が当たる。
また暑い夏がやってきたのだ。
そしてこの時期も。
知らずにあたしの額から汗がツウッと流れた。
ここは外と違って涼しい筈なのに、何故か汗が出る。
でも、当たり前だ。
だって、あたしは……。
「マイコ」
いきなり後ろから声をかけられ、ビクリと心臓が飛び跳ねた。
思わず左胸を押さえ、慌てて声のした方を見ると、声の主が困ったような苦しんでいるような、複雑な表情をして、あたしを見ている。
その顔がいつものアイツらしくないから、あたしはワザと明るく笑って見せた。
「ジン……何なの? ビックリするから、突然声かけないでよね!!」
手を思い切り振り上げ、ジンの背中をバンバンと叩く。
それがあまりに痛かったのか、ジンは複雑な表情を崩し、痛みいっぱいの表情へと変わる。
途中痛みを訴える声も出していたが、この際無視だ。
何度も叩いてやる。
「痛っ、やめろ!! 本気でやめろよ、マイコ!!」
ジンはあたしの手を掴む。
掴まれた腕は、ジンがかなり強い力を入れているせいで、少し痛い。
「今日はそういう事していい日じゃないだろ……」
静かにそう言われ、あたしもハッと我に返った。
そうだ、今日はそういう事をしていい日じゃないんだ。
ジンはあたしがもう暴れないと理解したのか、掴んでいた手を離し、あたしの前にあるソファーへと座る。
そして締め慣れていないせいで、何処か不恰好になっていたネクタイを苦しそうに触ると、少しだけ緩めていた。
ジンの服はいつもなら見ないようなきちんとした礼装――喪服だ。
そしてあたしの服も、驚くほど真っ黒な喪服。
「もう一年になるんだな……」
ジンが呟いた言葉に、あたしは外を見た。
ギラギラと輝く太陽は地上にまんべんなく光を降らせ、暑さを誇張する。
もう一年経ち、また夏が来たのだ。
あの恐ろしい出来事から一年経ち、また暑い夏が来たのだ。
「けれど、俺達はまだ立ち止まったまま……だな」
ジンが悲しそうな顔をして笑う。
あたしはその表情を見て、胸がジクリと痛みだした。
これはきっと、あたしの良心が感じている痛み。
「後悔……したって遅いのにな」
ジンは頭を抱えながら項垂れした。
グシャグシャの髪の毛は重力に従って下を向く。
そこから覗くジンの手は、一年前より細くて白くて、何よりこけていた。
きっとあの時から後悔して懺悔したのだろう。
たくさん考えて、夜も眠れず、小説すら書けなかったのだろう。
「もう、アイツは戻らないのにな」
涙声にも聞こえる言葉が、ぽつりぽつりと零れ落ちた。
知らずあたしの目から、ツウッと涙が零れる。
これはあたしの涙じゃない、ジンの涙なんだろう。
あたしがジンの代わりに泣いているんだ。
泣けないジンの代わりに泣いているんだ。
だけど、その涙も次の言葉ですぐに枯れてしまった。
「俺達が悪いんだから」
ジンがゆっくりと重みのある言葉を発した瞬間、グルグルと何かがあたしの中で渦巻く。
痛いと泣き叫ぶ心とは別の何かが……。
あたし達が悪い?
あたし達が悪いんだろうか?
ただ、あたし達は誘いに乗っただけで、片棒を担いだ訳じゃない。
何もしていない。
結果がああなってしまっただけだ。
だけど……。
実際は物凄く後悔している。
泣き喚いている。
怖くて苦しんでいる。
この罪から逃れたくて謝り続けている。
あたし達の中の「事実」は、あたし達を「悪」と決め付けている。
ただ、世間が「事実」を知らないだけで――。
ふとジンが生気のない顔を上げ、外を見た。
ジンの見ている方向に、あたしもゆっくりと視線を動かす。
そこには大きな池で静かに佇んでいる女性――アヤカがいた。
優しい微笑みを浮かべ、池にいる鯉達に餌をやっている。
アヤカはその鯉達が愛おしいと言わんばかりに時に目を細め、時に頬を染め、何度も餌をばらまく。
その微笑に心を奪われ、いつの間にかあたし達はジッとアヤカを見つめ続けていた。
ああ、そうだ。
あの時助けてくれたのはアヤカだった。
あたしがケンジにラブレターを読まれ、グシャグシャにされ、ケンジに掴みかかろうとした時、助けてくれたのは他でもない、彼女だけだった。
「人を想う心がどれほど美しいのか、貴方は分かってないのね。貴方のほうが滑稽で子供じみているわ、ケンジ」
アヤカは凛とした声でケンジにそう言い放ったんだ。
そして、今のような優しい笑みを湛え、あたしをジッと見つめてくれたんだ。
あたしはあの言葉で救われた。
頭脳明晰、スポーツ万能、そしてお嬢様であるアヤカは、人を想う心も綺麗で純白だった。
彼女の真っ直ぐな心は全ての人の憧れでもあり、同時に裏では妬みの対象にもなっていた。
そう、彼女は誰からも色々な感情で見られている。
あたしのように尊敬の念で見ている者もいれば、ケンジのように黒い感情で見ている者も……。
「久しぶり」
アヤカを見ながら過去と現在を行き来していたあたしは、突然の声にビックリした。
そして同時に心臓を鷲掴みにされたようで、声の主を見る事が出来ない。
額にジワリと汗が噴き出しているのが分かる。
あたしの代わりにジンが相手と話しているが、二・三言葉を交わしただけで相手はすぐにあたし達から離れたようだ。
ジンの視線が相手を追い、アヤカの方へと動いていく。
おそらく相手の動きを目で追っているのだろう。
相手がいなくなった事に安堵し、ホッとした瞬間、あたしの血はドクドクとうるさい音を立てて流れ出す。
その音は痛い位耳に響き、部屋のテレビから聞こえる、あたし達にとって重要なニュースすら聞こえなかった。
「一年前、行方不明になったと言われている――」
淡々と読み上げるアナウンサーの声に気付く者など――ここには誰もいなかった。
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