前夜祭
(side:M)
雑音が聞こえない。
シンと辺りが静まり返り、アヤカの話す声以外の音が一切しないのだ。
心なしか寒さも感じる。
クーラーは効いているのだが、ここに来た時はここまで寒く感じなかった。
体中が、いや、心まで凍り付いて寒い。
それなのにあたしの額を一筋の汗がツウッと線を描くようにして滴り落ちた。
暑い訳じゃない、冷や汗だ。
アヤカは話し終わったのか、ゆっくりと目を閉じるとフウッと一息つく。
そして口の端を少しだけ上げて優しく微笑んだ。
「これがその廃寺に伝わる昔話よ」
その言葉が出た途端、一気に緊張が解け、知らぬ間にあたしはホッと安堵の息を吐いていた。
どうやら緊張していたのはあたしだけじゃなかったらしく、ジンも、あのケンジでさえも、今、息を吹き返したかのようにホッとした表情を浮かべていた。
アヤカの話はそれだけ怖いのだ。
だって霊が見えると言うアヤカが話す昔話だ。
たとえ誰かが作った話でも、何処か真実にも聞こえてしまう。
その綺麗な顔が一瞬恐ろしく見えるくらいに。
「でも、鬼とかそんなもの、この世にいる訳ないよな」
アヤカの話をどうしても否定したいのか、ジンがそうであって欲しいと言わんばかりに小さな声で呟く。
だが、アヤカの話が物凄く怖かったのか、心なしか声が震えていた。
ジンは昔からそうだ。
自分から怖い話をするのは平気なくせに、人が話す怪談話などは本当に苦手にしていた。
あたしはジンのその態度に呆れて、ありがたい事に、怖いという感情が薄れていった。
キョウスケだって困ったようにジンを見て笑っている。
だが、ジンの言葉に反応したのはアヤカだ。
先程まで微笑んでいた唇を尖らし、意地悪くジンを見つめる。
「あら、いると思うわ。文献にも鬼と言う言葉はたくさん出てくるし、なにより幽霊だっているのよ? ほら、今もジンの後ろに……」
そう言ってジンの後ろを指差しながら、面白そうに冗談を言うアヤカに、ジンの表情が凍りついたのは言うまでもない。
ハハッとカラ笑いを浮かべ、固まってしまったジンを見て、キョウスケとアヤカが小さく笑う。
あたしもジンの表情がおかしくて、思わず噴き出してしまった。
だけど、そんな柔らかい空気を変えたのはケンジだ。
腕を組んで、視線は宙を彷徨ったまま、ポツリと呟いた。
「なんかさ、その話に出てくる女って、まるでアヤカみたいだよな」
「えっ?」
ケンジの呟きに思わず反応したあたしは、知らずに声を上げていた。
だが、ケンジの言葉に反応したのはあたしだけじゃない。
ジンもアヤカも、そしてキョウスケも皆、ケンジを見ていた。
その視線に気付いたのか、ケンジはこちらを向くと、テーブルに置いてあるナイフを手に持ち、クルクルと回し始める。
銀色がぶれ、重なり、綺麗な円形を宙に描いているようだった。
「ほら、足が動かないとか、黒髪とか……。あ、後はおっかない所が一番似てんな!」
ケンジはからかうように笑うと、回していたナイフを握り、先端をアヤカに向けた。
いきなりナイフで自分を差されたアヤカは、その行為にかなり苛立ちを感じているらしく、ギッとケンジを睨んでいた。
「ケンジ、ナイフで人を差すのはマナー違反だよ。危ないから下ろして」
そんな二人の間に入ったのはキョウスケだ。
アヤカに向けられたナイフを右手で制すと、左手でケンジの手に優しく触れ、ナイフごとテーブルへ下ろさせる。
その表情は行動と同じく柔和だった。
ケンジはつまらなかったのか、フンッと鼻で息を荒く吐くと、アヤカから視線を逸らした。
アヤカもケンジを睨んでいたが、キョウスケがアヤカを宥めるように優しく何かを囁くと、複雑そうな表情をしながらもケンジから視線を逸らした。
この二人は子供の頃からそうだ。
いつも小さな事でケンジがケンカをふっかけ、アヤカが機嫌を悪くする。
お嬢様であるアヤカに冗談は通じない。
そしてそんなアヤカをケンジはどうしても苦手としている。
まるで油と水なのだ。
キョウスケが間に入ってくれたが、この場の空気が何処か痛々しく感じる。
「あ、ほ、ほら、ご飯冷めちゃうよ!! シェフはもう帰っちゃうし、明日からはこの料理が食べられないんだから、あったかいうちに食べようよ!」
あたしはこの空気が嫌で、何とか言葉を出してみたものの、どうも空回りな気がしてならない。
でも、それに助け舟を出してくれたのはジンだ。
「そうだよな、せっかくの料理が冷めたら勿体ないし、これこそマナー違反だよな!! 久しぶりのご馳走だし、腹がパンパンになるくらい食わないと、俺みたいな人間は、この先食べられないかもしれないからな」
ジンはケンジの背中を叩きながら笑うと、すぐにテーブルに置いていたフォークを取り、「いただきます」と言うやいなや、目の前の料理を口に入れていく。
その入れ方はかなり早く、口の中に何をどれだけ入れたか分からないくらいだ。
ジンの食べっぷりに思わず噴き出しそうになる。
「売れない作家先生は大変だな」
ケンジは叩かれた背中を擦りながらも、ジンに哀れみの表情を浮かべ、手に持っていたナイフを置き、代わりにフォークを持つ。
そして、ジンと同じように食事を再開した。
ケンジの言葉を聞いていたのか、ジンは抗議の声を出そうとするが、悲しいかな、ジンの口の中は物でいっぱいだ。
その姿にキョウスケは苦笑し、アヤカの目じりが下がった。
よかった、空気が戻った。
あたしはジンの食べっぷりに心で感謝をすると、目の前のパスタに手を伸ばす。
だが、近くで声が聞こえた。
綺麗だけど、何処か寒気がするような声が。
「そうね、これが本当に最後の晩餐かもしれないわね」
声の主はアヤカだ。
面白そうにクスリと笑いながら、こちらを見ている。
おそらくアヤカ独特の冗談だ。
だが、あの話を聞かされ、ケンジとアヤカのケンカがあった時点でこの言葉を聞くと、少々怖い。
実際、アヤカの表情は優しいのに、何処か造り物にも感じるのだ。
「確かに、シェフが作る料理は今日でおしまいだからね。さ、食べようか? そうしないと始まらないから……」
アヤカの言葉をフォローするかのように、キョウスケが苦笑しながら話す。
アヤカはキョウスケの言葉に嬉しそうに微笑むと、素直にコクンと頷いた。
食事が終わったら、メインイベント……。
つまりは肝試しだ。
キョウスケの言葉を聞いていなかったのか、それとも聞きたくなかったのか、怖がりのジンは必死で目の前のものを食べている。
ケンジはちら、とキョウスケを見たが、やっぱり目の前の豪華な食事の方が勝るのだろう。
ジンと競うように食べている。
だけどあたしはどうしても手が動かなかった。
寒いのだ。
怖いのだ。
元々怖いのは苦手だが、今回ばかりは本当に怖いのだ。
アヤカの話してくれた怪談がそれを増幅しているのは確かだが、それ以上に目には見えないものがあるようで、背筋が凍るように冷たい。
だが、時は止まってくれない。
冷酷に、淡々と過ぎていく。
「大丈夫、マイコ? 食べないと肝試しの時に歩けなくなるわよ?」
手が止まっているあたしを心配してか、アヤカが声を掛けてくれた。
だが、突然の声にあたしの肩はビクッと上下する。
「あ、ははっ……そうだよね。うん、食べる食べる! いただきまーす!!」
あたしは慌ててさっきの動揺を隠そうと、無理に笑いながら手を合わせた。
その姿を見てアヤカはホッとしたのか、あたしから視線を外すと、白くて細い手をのばし、目の前のグラスを取った。
透明で綺麗な水の入ったグラスを。
水がユラユラと揺れる。
まるであたしの心と同じように。
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