赤い印肉で雅号を捺したM先生の小形の名刺が入れてあった。笹村は、しばらく机に坐ってみたが、じきに火を細くして寝床へ入った。
 上総の方の郷里へ引っ込んでいる知合いの詩人が、旅鞄をさげて、ぶらりと出て来たのはそのころであった。そして泊りつけの日本橋の宿屋の代りに、ここの二階にいることになってから、笹村は三度三度のまずい飯も多少舌に昵んで来た。
 中央文壇の情勢を探るために出て来たその詩人は、その時家庭の切迫したある事情の下にあった。自分自分の問題に苦しんでいる二人の間には、話が時々行き違った。その詩人が、五日ばかりで帰ってしまうと、その時齎して来た結婚談が、笹村の胸に薄い痕迹を留めたきりで、下宿はまた旧の寂しさに復った。
 その結婚談は、詩人と同郷のかなり裕福なある家の娘であった。臥そべっていながら、その話を聞いていた笹村の胸は、息苦しいようであった。
 話の最中にその時めずらしく、笹村へ電話がかかって来た。かけ手は、笹村が一、二度余所で行き合わせたぎりで、深く話し合ったこともないある画家であったが、用事は笹村が家を持った当座、九州の旅先で懇意になった兄の親類筋に当る医学生が持って来て、少し運んだところで先方から寝返りを打たれた結婚談を復活しないかという相談であった。お銀の舞い込んで来たのは、ちょうど写真などを返して、それに絶望した笹村の頭脳が、まだ全く平調に復りきらないころであった。
「今日は不思議な日だね。」いい加減に電話を切って座に復って来た笹村の顔には、興奮の色が見えた。
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テーマ「人外ファンタジー」
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