国の手厚い保護を受けて進められた共同開発の成果は、一九七四(昭和四十九)年から翌年にかけての製品発表に結びついた。
 これ以降、IBM互換路線をとった一、二位連合の富士通と日立は、大きく業績を伸ばしていった。
 一方、他の二グループは業績の悪化を余儀なくされ、やがて沖電気と東芝は大型コンピューターからの撤退に追い込まれた。三菱電機は起死回生を狙ってあらたな路線に舵を切りなおした。だが、日本電気は苦しみながらも一貫してACOSシリーズを堅持した。
 日本電気のコンピューターも、小型機には実績を残した機種もあった。本筋の大型機ではトランジスターに絞る方針がとられたが、一九六一(昭和三十六)年五月に発表された当時としては超小型のNEAC―1201は、パラメトロンの安さを生かした低価格を売り物にしてヒット商品となった。
 コンピューターは小型のものでも数千万円していた当時、国民車的コンピューターを目指して一桁下の価格を実現したこのマシンは、一九六四(昭和三十九)年十月に発表された改良型のNEAC―1210と合わせて、予想をはるかに超える八七〇台を売り上げた。
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