音声をパルスに載せて送る技術に取り組んでいた。
 当時国鉄は青森―函館間に専用の通信回線を持っていたが、これを多チャンネルの雑音の少ないものに切り替える計画が動きだしていた。電電公社通信研究所の依頼を受け、日本電気は音の信号に応じてパルスの位置をずらすPPM(パルス・フェーズ・モジュレーション)と呼ばれる技術を用いた通信装置の開発を進めていた。
 青森―函館間の回線は一九五二(昭和二十七)年十月には開通したが、その直前に大内が肺結核で倒れ、一年半の療養生活に入った。石井は青森―函館に続いて、東北電力が仙台と会津若松間に設ける専用線に同じ技術を生かす作業に携わった。だが復帰した大内と入れ替わるように自らも結核を患い、手術と療養生活を余儀なくされた。
 一九五五(昭和三十)年に職場に復帰した石井は、心機一転、日本電気にとっても新しい仕事となるコンピューターに携わることになった。
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