斯くして彼女は心的外傷性痛痒感を患った



 人の気配が滲む暗がりを見つめていると、どうしようもなく泥の味が連想される。かつて強く引かれた腕に、もう赤黒い手形は残っていない。けれども、その感覚を甦らせることはどれほど月日を重ねようが私にはひどく容易なことだった。

「つゆり、どうしたの?」

 隙間なくぴったりとカーテンに閉ざされた、とあるアパートの一室を見上げる私の視界に友人の怪訝そうな顔が割り込んできて、私は知らず知らずのうちに無機質に浮かべていた微笑みに気が付いた。私の視線の先を追いかけてアパートの輪郭をぼんやりなぞった彼女には、まさかそこに何者かが息をひそめているだなんて思いもよらなかったようで、「鳥かなんかいた?」と首を傾げるばかり。
 鳥なんて可愛いものじゃない。あの暗闇に姿をくらませているのは、理不尽に蹂躙されるだけの自分を受け入れた愚かな女だけだ。

「……んーん、大きな虫がいるなあって思って」
「うえぇ〜っ、やだやだ! 私、虫苦手なんだよ。早く行こ!」
「わあっ、転んじゃうよぉ」

 わざとらしいくらいに嫌悪感を示した友人は私の手を取ると、そのまま走り出した。足を縺れさせながら柔らかな非難を差し向けた私に彼女は笑うばかりで、ちっとも反省の色は見えない。けれどそれがちっとも不快に思えないのは彼女の特性によるものだろう。彼女には一種の愛嬌とも取れる狡賢さがあった。人の、いわゆる地雷というものを踏み抜くことなく立ち回る器用さがあった。彼女は無意識ながらにも他者の線引きを嗅ぎわける術に長けていたのだと思う。
 人は善性を持たない。幼子でさえ蟻の脚を千切り胴をもぎ取るのに、戦うことも媚びることもなく、ただ頭を抱えて蹲る女に暴虐の手を緩める者がいったいどこにいる?
 転んでしまわないように友人と共に走りながら、女へ問いを投げ掛けたあの日を思い出す。

――――「ねえ、どうしてやり返さないの?」

 従姉妹の蟹道かにみち楽子らくこが学校でからかいの度を越える嫌がらせ行為を受けていたのは近しい親戚間では周知の事実で、私は母や伯母からそれとなく彼女の面倒を見るように言いつけられていた。そのときの私にはまだ楽子に対する哀れみの余地があり、ナイフの握り方がわからないなら一緒に握ってやろうと思うくらいの情けがあった。
 学校帰り、教えられた住所を頭に叩き込んで訪ねていった安アパートは、傷心の娘をひとり放置しておくにはあまりに相応しくなく、同情心を覚えたのを強く記憶している。
 そも、本当にひとり娘が大事なのだと言うならば、そう嘆いたのと同じ口で娘に寄り添い慰めの言葉ひとつでもかけてやればよかったのに、従姉妹と言えど私たちのお祖母さんの葬儀以来ほとんど交流のなかった私に丸投げした時点で家庭内での彼女の程度は想像がついた。
 生前蟹道家に身を寄せていたお祖母さんは、たまに泊まり掛けで我が家へ赴くと決まって悲しそうな顔で私の髪をなぜることがあったが、あれは今にして思えば家の中で立場のない楽子のことを想っていたのだろう。

 軽薄なインターフォンが響いてしばらくした後で、塗装の剥がれたドアを押し開いて楽子が青白い顔を恐る恐る覗かせた。艶のないざんばらの赤髪に暗い瞳をした楽子は幽鬼のようだった。
 事前に伯母から連絡があったのだろう。楽子はひび割れた唇を開いて、掠れた声で私の名を紡いだ。
 何度でも言うが、そのときの私は楽子を奮い起たせることも吝かではなかった。反撃の仕方がわからないなら教えてやるつもりだったし、勇気がないと言うなら隣に立って背を押してやるつもりだった。

「ねえ、どうしてやり返さないの?」

 女の子らしいデザインのグラスで出されたお茶には手をつけず、薄べったいクッションを尻の下に敷きながら彼女に問う。前髪を伸ばし放題にしている楽子はひとたび俯くとその表情を窺い知ることは容易ではなかった。

「……」
「ねえ、どうして?」
「し、仕返しなんてしたら……余計に酷くなるでしょ」
「そんなことないと思うけどなあ。話を聞く限り、楽子ちゃんが何もしないから余計に酷くなっていってるように思えるけど」

 床を見つめて黙り込む楽子に、私は苛立ちを感じていた。何故何も言わないのか。どうして尊厳を踏みにじられるままでいられるのか。その全てが私には理解できなかった。微かな憤懣ふんまんと無理解は、やがて彼女のひとことによって明確な敵意へとその姿を変じる。

「……つ、つゆりちゃんは強いから、そんなことが言えるんだよ。私には……あの人たちが私に飽きてくれるのを待つことしかできないから」

 反射だった。そこに理性はなかった。
 気付けば華奢なグラスを鷲掴んで、その中身を全て彼女に向かってぶちまけていた。薄緑色の液体が彼女のダサいTシャツをしとどに濡らして、肉体の輪郭をくっきりと浮き上がらせていた。大きなおっぱい、腰もきゅっとくびれてて、綺麗な女の子だと思う。成熟した身体を持つ、美しい女の子。

「そうなんだよねえ。私ってば、楽子ちゃんより強いからこんなこともできちゃうの」

 誰にも掴まれていないはずの腕がじくじくと痛んで仕方がない。口中に泥の味が広がって拭い去れない。
 真っ白な顔でガタガタと震える彼女は、私より上背も腕力もあって、それでいてどうして私なんかが恐ろしいのだろう。

「お母さんと伯母さんに頼まれて様子を見にきたんだけど、そういうことなら私は必要ないみたい。もう帰るね? お邪魔しました」

 そんな顔しないでよ。私からすれば、あなたのほうが宇宙人みたい。
 履き古したローファーを足にひっかけて、爪先で地面を数回叩く。ここから、楽子の元から一刻も早く立ち去りたかった。
 泥濘の味が消えない。舌の上にもったりと水を吸った苔が乗っている。突如として素肌に感じた生々しい掌の感覚に思わず後ろを振り向いたが、薄暗い部屋の中には未だ呆然と床にへたり込む楽子しかいない。
 それもそうだ。それが当然だ。
 ノブを回して外へ出る。ドアが閉まるのは自重に任せたから随分耳障りな音がしたけど、構ってなんかいられなかった。
 自らの両腕を掻き抱いて帰路を急ぐ。路地や植え込みに重たく潜む暗がりには意識的に目を向けなかった。

 男と女の違いもわからなかった幼い日。雨上がりの晴れやかな空の下に影差す物置の裏。私の腕を強く強く引いて闇の中へ連れ込んだお兄さんは私を組み敷いた。フリルのスカートと小さなリボンのついたパンツがじっとり湿った泥と苔で汚れるのも構わず力任せにずり下ろして、そして、そして――――
 私の足の間≠ノ夢中でむしゃぶりつくお兄さんの左目を落ちていた硝子片で迷いなく抉り取った私は、確かに彼女よりは強いと言えるのかもしれなかった。


――――
20/11/21
蟹道楽子はシナリオ生還後、面条つゆりの元を訪れナイフの握り方を教えてもらい、それをきっかけに交友関係を築き始める。



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