苦艱の家



◎祖父母の家に身を置く、少女時代のエリシャ



 お腹がしくしくと痛んでつらい。
 垂れ落ちる脂汗で床を汚していることを自覚しながらそれを拭き清めることも、その場から立ち上がることもできずにお腹を抱えて蹲っていた。

 ―違和感を覚え始めたのは洗濯物を干している最中だ。そのときの私は、一緒に暮らすおじいさんとおばあさんに少しでも仕事の出来栄えを気に入ってもらえるようにと一生懸命に上着の皺を伸ばしていたのだが、ふと自分の身体に奇妙な感覚が燻り始めたことに気が付いた。
 痛いというわけではない。気持ち悪いというわけでも、特になかった。正しく違和感≠セった。なにかの前兆が私の身体の中に呼び覚まされていた。
 妙な心地に胸はざわついたけれど、じっとしているだけでは家事も仕事もなにも片付いてはくれない。言い知れぬ不安に苛まれながらも空になった洗濯桶を持ち上げる。私へ向かって突風がぴゅうと吹きつけたのは、そのときだった。
 風の寒々しさに身を震わせる―ことも、できなかった。その風が、私の中にあった違和感を明確な苦痛へと変じさせた。
 なにが起こったのか理解する間もない。這う這うの体でどうにか家の中に戻ることだけはできたものの、それだけだった。
 最早そこから一歩も動くことは叶わず、痛みに呻くだけ―。

 今までに経験のない痛みだった。お腹の中にある内臓という内臓が全て捩じ切れてしまうのではないかと思うほどの、異様な激痛だ。呼吸さえ儘ならなくて、はくはくと何度も浅く繰り返すのが精いっぱいだった。

「……大丈夫、大丈夫。こんなの、ちっとも痛くない……。平気よ、エリシャ……。きっとすぐに治まるわ……」

 荒い呼吸の合間に気休めの言葉を途切れ途切れに吐きながら、何度もお腹を撫でさする。いつもなら身体のどこかが痛んでもこうしてじっとしているだけで少しは楽になるのに、今ばかりはこんな自己暗示はなんの役にも立たなかった。
 そのうち口を開くのも難しくなって、私は言葉もなく床にへたり込む。その拍子に股の間からどろりと生温かい血液が零れ出しまでして、私は呆然とそれを見つめていた。悲鳴も出なかった。実際お腹の痛みに悲鳴を上げるどころではなかったけれど、仮令たとえこの痛みがなかったとしても驚きと恐怖でどの道声は上げられなかっただろうと思う。
 混乱に何度も目をしばたかせながらも、私の心中にはひとつの閃きがあった。
 浅ましい考えだった。あまりにも醜悪で、もしこの胸のうちを覗き見ることができる者がその場にいたならば、「恥知らずな娘よ」と私の頬を張っていたかもしれない。

 だけど病に侵されている今ならば、おじいさんとおばあさんに少しでも心配をしてもらえるのではないかという欲が出てしまった。

 一度善からぬ考えが沸き起こってはもう衝動を留めることもできなかった。
 私の赤い髪を見ては顔を強張らせて重たく黙り込んでしまうふたりが、私がいないときにはただひたすら穏やかに言葉を交わし合っていることを、私は知っていた。暗がりで耳をそばだてることもなくあの温かな声と眼差しを一度でも向けてもらえるなら、その瞬間に死んだっていいとすら思えた。
 だけどそんなものは結局私の独り善がりな甘えた願望でしかなくて、下半身を血でどろどろに汚しながら現れた私におばあさんはつんざくような悲鳴を上げて、その声に駆けつけたおじいさんは真っ青になって私を数少ない私物ごと家から叩き出した。
 固く閉ざされた扉に追い縋って自分がなにを口走ったかは、正確にはよく覚えていない。とにかく床を汚してしまったことへの謝罪だとか、掃除をした後にはどんな罰も受けるだとか、思いつく限りの言葉を必死に並べ立てていた気がする。
 どれほどそうしていただろうか。言葉の飛礫つぶての間隙を縫うように一度きり扉が内側から強く叩かれて、私はびくりと口を噤んだ。

―お前の赤黒い髪を見ているだけで……吐き気がする……!」

 扉を挟んで向こう側にいたのはおじいさんだ。他にもなにか言っていたかもしれないけれど、私に聞き取れたのはそのひとことだけだった。
 それは、今にも泣き出しそうにぐしゃぐしゃの声だった。言葉尻が震えるほど力の籠った声音が、彼の迫る心情を否応なしに私に理解させた。
 だから、もうここにはいられないのだと悟ってしまった。
 放り出された荷物を拾い集める。よろめく脚で、それでもなんとか立ち上がってゆっくりと家から離れていった。太腿を伝うどろりとした血の感触が気持ち悪くて仕方がない。
 行く当てなどあるはずもない。だけど、私は行かなければならなかった。おじいさんとおばあさんの目につかないところへ。私が誰かを苦しめずにいられるところへ。
 ―そんな場所が、本当にあるかどうかもわからないのに。
 遠ざかりつつも振り返れば、十三年暮らしてきたはずの家はむっつりと黙り込んで、見も知らぬ他人の背を眺めるかのように私を見つめ返していた。

 私は、もう二度と後ろを振り返れなかった。


―――
23/01/09



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