後編
金赤色華実咲く_後編
走って。
走って。
走って。
なおも直走る。
荒く浅く呼吸を繰り返す喉が痛い。肺が引き千切れそうだ。酸素が足りなくて耳鳴りがする。足首はなんだか変なふうに痛むし、脚にスカートが纏わりついて走りにくい。
唾を無理に飲み込んで、それでも走った。
ようやくナザリーさんの家に辿り着くと、黒い煙と赤い炎が意地の悪い蛇のように絡み合って家屋に巻きついているのが見えた。木やものの焦げる苦い臭いが鼻をつんとついて痛い。汚れた煙に涙まで浮かぶ。
家の前では、不用意に人が近づかないようにしているのだろう、漁師のおじさまが声を張り上げている。自警団にもよく来てくれる大工のおじさまのお友達のひとりで、彼共々臨時の自警団員でもあった。
彼の目についてしまっては、一歩たりとも家に近づくことは許されないだろう。
だから、よくもこうまで俊敏に動けたものだと自分でも思う。
私は彼の目を盗んで傍にあった桶を掠め取ると、ひと思いに水を被った。そうして息も整わないまま、燃える家へと走り出していく。
焦げて萎れた畑の野菜も、煤けて黒っぽくなった玉砂利も、焼けてぼろぼろになった家も。その全てが悲しい。
こんなふうにされていいものじゃない。こんな簡単に喪われてしまっていいものではなかったはずなのに。
ならばせめて、ナザリーさんの想いひとつだけでも守り抜かなくてはいけない。
背後から怒鳴り声が追いかけてきたけれど、振り返る余裕はなかった。
家に入るなり、火片混じりの黒い煙がばっと私に襲いかかる。咄嗟に袖で鼻と口を押さえて姿勢を低くする。
いくら防止に努めていても、火事はない話ではない。仮にも自警団に身を置く一員としてこういった緊急時における講習だけは受けていた私には、火事の際にはその煙を吸い込んではいけないという予備知識ぐらいはあった。
痛み霞む目を懸命に見開いて、一歩ずつ着実に家の中を往く。
焼け崩れて様相がすっかり変わり果ててしまっていても、何度も入ったことのある家だ。そう広いわけでもない。慎重に歩を進めるうち、なんとか目当ての場所まで辿り着くことができた。
幸いチュールは傷ひとつなく無事で、キャビネットにもまだ火は燃え移っていないようだった。
ほっと息を吐きかけて、ごうごうと鳴る炎の音にすぐ表情を引き締める。
ハンガーからチュールを、キャビネットの引き出しからレースリボンを取り出して、火の粉がかからないようにそれぞれ折り畳んで懐にしっかりしまい込む。
すぐにでも燃え盛る家から脱出しようとして、目の前に埃のように細かい木片がぱらぱらと降り注いでいることに気がついた。透かさず、頭の上に暗い影がかかる。
はっとして顎を上向けると、轟音と共に化粧柱が傾いているのが見えた。火の手が広がると共に支えを失ってしまったのだ。
慌てて逃げようとしたけれど、手遅れだった。柱は何度か壁にぶつかってから、私の足を思いきり挟んで地に伏した。
――がうんっ。
重たいような、鈍いような、なんとも言い難い気持ちの悪い音が全身に響く。
私の身体が鐘だとすれば、大きな槌で力いっぱいに振り抜かれたみたいだった。それぐらいの衝撃が、頭の天辺から爪先までを満遍なく駆け回った。
「い、痛……」
ほとんど反射的に挟まれた足に手をやる。ずくんっと貫かれるような痛みに、すぐに指が引っ込む。
脂汗が出るほど痛いけれど、折れてはいない気がする。散々壁にぶつかって勢いが殺されてくれていたのがよかったのだろう。
だけど、動けない。
足が抜けない。
ぐいぐいと柱を押してみても、うんともすんとも言わない。足が余計に圧迫されて痛むばかりだ。
「ど、どうしよう……」
吐き出した言葉はほとんど形を成さないほど震えていた。
ナザリーさんのヴェールが燃えてしまう。それに、このままじゃ私も……。
熱さか、焦りか、痛みか。蟀谷からじわりと滲み出た汗が顎を伝って襟首に落ちる。
自分でも呆れ返るくらいに無謀なことをした。漁師のおじさまへの迷惑も顧みずに危険を冒したのに、結局なにもできないまま、こんなことになるだなんて。
身動きひとつ取れず、成す術なく天井を見上げる。
もくもくと上がる黒煙はすっかり頭上を埋めている。私の元までこの煙が下りてくるのも、時間の問題だった。
――死んでしまうのかしら。
そう思うとさっきまでの焦りがすうっと引いて、頭が冷えた。
極限まで追いつめられると人はかえって冷静になってしまうものなのか。私は少しおかしなくらいに落ち着いてしまっていた。
死にたいと思ったことも、自分自身で命を絶とうと思ったこともない。
ただ、私がこのまま死んでしまっても誰にも悼まれず、誰にも気づかれないのだろうと思ったことは何度もある。
――だけど、今は違う。
自警団のみんなの顔が次々浮かんでは消えていく。ここへ来てから優しくしてくれた人たち、私を友達だと言ってくれた人たちの顔がまた浮かんで、やっぱり消える。
優しい人たちだから、悲しませてしまうかもしれない。彼らの表情が曇るところを想像するだけで気持ちが重たく塞ぐ。
「――でも、」
小さく呟く。
だけれど、素敵な人たちだからこそ、きっと大丈夫でいてくれると本心から思う。
今、彼らの周りにいてくれる人々が。私のようにまた新しく彼らと出会う人々が、心の傷を癒してくれるはずだから。
足に乗る柱を、じわじわと炎がのぼり始める。足首がじくじくと痛い。それでも今気絶してしまうほどの苦しみを感じずにいられるのは、あまりの事態に痛覚が麻痺してしまっているのか、はたまた私の中にあるという魔力がそうさせているのか、その両方なのか。
もしかしたら煙に巻かれるよりも早く、私はこの火に燃やされて死んでしまうのかもしれない。
自身の胸元をそっと撫ぜると信じられないほど鼓動が凪いでいるのがわかる。心臓のすぐ傍にはナザリーさんのヴェールがまだしっかりとある。
結局出火の原因もわからない。この惨事が、本当に私が引き起こしてしまったものなのだとして、その責任を取ることもこれを持ち出すことひとつすらできないことも、悲しくて仕方がない。きっと、こんな気持ちを心残りと呼ぶのだろう。
じわりと滲んだ涙はすぐに熱気に炙られて消える。
「……アンドラスさん」
自警団のみんなの顔も街のみんなの顔もすっかり消えてしまったあとで、どうしてだか彼の顔だけが消えてくれない。
これも、きっと心残りなのだ。多分、彼こそが私の一番大きな未練なのだ。
死にたいと思ったことなんて、真実ない。
だけど、身勝手な話だけど――。
あの人がもしも少しでも私を悼んでくれるというのなら、今死んでしまっても報われるのかもしれない。
生家を追い出されたあの日、昏い森でひとり「家族がほしい」と泣いた私は、きっともうその願いを叶えてもらっているから。
――大丈夫、大丈夫よ、エリシャ。怖くない。つらくない。
乾燥して罅割れた唇ではもううまく言葉も紡げないから、心の内でそっと呟く。
昔からそうだった。どんなにつらくとも怖くとも、こうして自分を宥めていればいつしか苦痛は消え去った。
――大丈夫。大丈夫。
今度はもう強がりの嘘じゃない。本当に、ちっともつらくない。
私には愛してくれる家族が確かにいたのだと、今はそう思えるから。
――がらん。
ひと際大きな音が鳴る。
とうとう家が崩れ始めたのだろう。顔を上げる。ふと、黒い煙の向こう側に金色に輝く光が見えた気がした。
初めは熱さに意識が朦朧として幻でも見ているのだと思った。だけれど目を凝らせば凝らすほど光はどんどんと大きくなって、次第に人の形を成していく。
「――エリシャ!」
――光から、私を呼ぶ声がした。
はっと閃くような、目映いほど力に満ちた声。
アンドラスさんだ。
幻なんかじゃない。煙の向こうにいたのはアンドラスさんだった。炎に接して紅赤色の髪に金を帯びたアンドラスさんは、普段身に着けている紅の前掛けを腕にかけてこちらへ向かってきてくれていた。
――よかった。アンドラスさんが来てくれたんだ。
安堵に、場違いにも笑みが零れる。
アンドラスさんならきっと助けてくれる。私にはできなかったけれど、彼ならナザリーさんの祈りを守ってくれる。
「あ、アンドラスさん……これを……」
懐からチュールとレースリボンを取り出しアンドラスさんへ差し出す。そうして彼に呼びかけようとして、初めて喉が灼けていることに気づいた。
声が上手く出せなくて聞き苦しいぐらい嗄れた音を、だけどアンドラスさんは聞き逃さない。
アンドラスさんは眉尾と眦をきっと鋭く吊り上げると、私を思いきり怒鳴りつけた。
「――馬鹿野郎!! お前もだ!!」
アンドラスさんは私に前掛けを巻きつけると、足の上に乗る柱を蹴飛ばして私を抱き上げた。
そういえば、この前掛けは特別な素材で作られた、とびきり優れた防火布なのだと聞いたことがある。アンドラスさんの胸に抱かれながら、私はそんな取り留めのないことを思い出していた。
アンドラスさんに抱かれたまま外へ出ると、遠巻きにこちらを見る人々の空気が少しだけ和らいだのを感じた。
私たちが無事なことを確認すると、外でずっと気を張り詰めていたらしい漁師のおじさまは周囲の人々たちに号令をかけて、ナザリーさんの家を打ち壊しにかかる。延焼を避けるためだろう。
その集団をさらに囲むようにして待機しているのは水属性と土属性の魔法に適性のある人たちで、身勝手にも現場へ飛び込んだ私とは違って彼らの備えは万全だった。私のせいで事態の収拾により時間がかかってしまっていたのだということがよくわかる。
アンドラスさんが、漁師のおじさまと素早く視線を交わす。
「すまん、すぐ戻る。もう少しの間だけ頼めるか」
「おお、任せとけ」
おじさまの頼もしい返事にアンドラスさんは頷きを返して、そのまま風上にあるご近所さんの家へと向かっていく。どうやら煙の影響が少ない近場の家を臨時の診療所として開放してもらっているようだった。
家の中では家人もそうでない人も、息もつかせぬ慌ただしさで行き交っている。アンドラスさんは革張りのソファの前まで来ると、私をそこへそっと降ろしてくれた。
自らの足で歩きもせず抱えられるがままだった私はというと、今さら全身の震えが止まらなくなっていた。
恐怖がぶり返したということもあるけれど、とんでもない迷惑をかけた上に危うくアンドラスさんの命まで奪ってしまうところだったという実感が遅蒔きに湧いた。
「……火事は、お前のせいじゃない」
少しだけ言葉を探していたようだったアンドラスさんは、絞り出すふうにまずそれだけ言った。
「だけどな、お前にはひとつ、あとで言っときたいことがある」
彼は私の髪をぐしゃりと掻き混ぜると、そう言い残して部屋を後にした。火事の応援に向かったのだろう。
アンドラスさんが去ったあと、私はすぐに治療を施された。とは言っても挟まれた足や喉以外にはほとんどこれといって目立った負傷はない。
ただ足だけは痕が残ってしまうかもしれないということだった。これだけで済んだのは運がよかったのだとも言われて、叱られた。
いくらもしないうち、外の騒ぎは少しずつ収まりつつあった。そんなとき、不意に破裂するような大きな音がばんと部屋に響いて、誰かが私に飛びついてきた。
「ちょっと! エリシャ! あんた、大丈夫なの!? 火事の中、飛び込んでいったって……! なんでそんな真似したのさ!」
ナザリーさんだった。まだ彼女のお仕事の終わる時間ではないはずだったけれど、報せを受けて切り上げてきたらしい。
彼女はまさしく顔面蒼白といった体で私の全身を隈なく検分するように見て、痛ましげに眉を顰めた。私の足首に巻かれた包帯を見つけてしまったのだろう。
「だ、大丈夫、です。アンドラスさんが、助けてくださったので……」
満面に心配を浮かべてくれる彼女が見ていられなくて、私はつい視線を下げてしまう。それで胸元に抱えたままだったチュールとレースリボンの存在を思い出して、後ろめたさを誤魔化すように彼女へ差し出した。
「それよりも、どうぞ。……ナザリーさんのヴェール、きちんとご無事ですよ。……これしか、持ち出せなかったんですけれども……」
「……は?」
感情のない一声だった。差し出したままの指先が思わず震える。
こんな多大な迷惑をかけたのだ。怒られるのも当然だ。せめてヴェールだけは燃やさずに済んだけれど、それだけで取り返しのつく話じゃないことは私にもわかる。
「――なによ、それ……。あんた、こんなもののために死のうとしてたわけ?」
「え……」
どんな言葉も重く受け止めるつもりだった。だけど、彼女の戦慄く唇は私の予想とはまったく外れた言葉を紡いだ。
ナザリーさんは肩をぶるぶると震わせて、ぎゅっと音がするぐらいに拳を固く握り締めた。
「つまり、あんたにはあたしが……友達の命と引き換えにしたヴェールを被って幸せになれるような、そんな女に見えたわけだ?」
私を真っ直ぐに突き抜く瞳はたっぷりの涙に濡れている。
真正面から、頭をがんと殴られたような気分だった。
「…………ち、ちがう……」
それだけしか言えなかった。
舌の根がなくなってしまったみたいに口が回らない。
ナザリーさんの言葉はちっとも消えていかずに私の鼓膜にぴったりと張りついて、思考も言葉も毛糸玉が絡まったように纏まらない。
「ちがうんです……。わ、わたし……私、そんなつもりじゃ……――」
「――はあ!? なにが違うってんだ! ふざけんな!!」
ナザリーさんは私の手からヴェールを毟り取ると、それを床に投げつけた。軽いヴェールは叩きつけられることはなく、ただふわふわと落ちていく。
大切なもののはずなのに、ナザリーさんの視線は私からほんの少しも逸らされない。痛いくらいに鋭い目で私だけを見ていた。
きゅっと持ち上がった頬の上を、幾粒もの涙が留まることも知らずに転がり落ちていく。
「いい? よく聞きなよ……。今あたしがあんたを引っ叩かずにいるのは、あんたを生かして帰した団長の顔に免じてやってるからだよ!」
私の肺はこんなにも膨らんだり萎んだりを繰り返しているのに、何度試してみてもちっとも呼吸がうまくできない。喉に何百本もの針が突き刺さっているみたいに痛い。
悲しかった。
恐ろしかった。
いつも明るく笑いかけてくれる彼女に私がこんな顔をさせてしまっているのだという事実に、目の前が真っ暗になるようだった。
「――そのこと、しっかりそのあほんだらの頭に刻んで忘れんじゃないよ!! バカエリシャ!!」
ナザリーさんは言い切るとそのまま踵を返そうとして、ぴたりと足を止める。そうして床に落ちたヴェールを遣りきれなさそうに拾い上げると、今度こそ部屋を出ていってしまった。私のほうは、もう一度も見てくれなかった。
彼女が出ていってしまってからほとんど間を置かずして、アンドラスさんが部屋へと戻ってくる。さっきまでの私たちのやり取りを見ていたのだろう。いっそ怖いほど穏やかな顔つきをしている。
「……言いたいことってのは、このことだ」
すぐ傍までやってきたアンドラスさんが徐に口を開く。彼を見上げた私の頭に、本当に軽い力で手のひらがぽんと降ってくる。
「お前に教え忘れてた、自警団員として一番大事なことだ」
「一番、大事な……?」
復唱する私に、彼は小さく頷く。
「救うべき命のひとつとして、自分のことも数えること=v
言って、彼は私の隣に座った。ぎしっとソファの軋む音がして、すぐ横で沈んだ座面の反動で身体が少しだけ弾む。
「お前が命懸けで助けになってやりたいと思う奴なら、なおさらだ。そいつに、お前の命を背負わせるようなことはしちゃならねぇんだ」
彼自身の脚を肘掛けにして、アンドラスさんは一層深く腰掛けた。
躑躅色の目は床の辺りを向いているようで、どこか遠い眼差しをしている。
「命ってのはよ、重くてしんどいもんだ。今のお前なら、それをわかってくれると思う」
これまでに彼は、誰かの命を背負ってきたのだろうか。
その重みを知っているのだろうか。
ナザリーさんからも、アンドラスさんからも、酷く詰られるよりも心からの心配をぶつけられるほうが余程堪えた。丁寧に丁寧に自分の愚かさを目の前にひとつひとつ並べられているようで、喉がぎゅっと絞まった。
本当に、すごくすごく、とてつもなく心配をさせてしまったのだろう。その実感と申し訳なさが今頃心中に湧いて、顔も上げられなかった。
「……お前がそういう奴だってわかってて、このことをもっと早くに教えてやれなかったのは俺が悪い。だけどお前も、しっかり自分を大事にしねぇとな」
縮こまるばかりでろくな応えも返せない私に、アンドラスさんはいつになく優しい声つきで続ける。
「お前がまだ自分を大事にできねぇって言うなら、そのぶん俺が誰より大事にしてやりたい。お前が自分を好きになれるまで、――好きになっても、他の誰でもない、俺がお前を守って大事にしたい。
前まではお前を幸せにしてくれるんなら相手が誰だろうと構わねぇって思ってた。……けどよ、今はそれが俺なら≠チて考えちまうんだ」
唖然として隣に座る彼を見る。アンドラスさん本人も、零した言葉に自分自身驚いたように口を覆っている。
暫しの沈黙のあと、アンドラスさんは秘めやかに囁いた。
「……本気でよ、うちに、嫁に来ねぇか? ――お前が好きだ、エリシャ」
どうしよう、と思った。
好きだと言ってもらえて嬉しくなかったわけじゃない。受け入れようとか、お断りをしようとか、そういうなにか明確なこたえがはっきり浮かんでいたわけでもない。
ただ優柔不断に惑っていた。
だって、守られるばかりでいいの?
アンドラスさんはそうは言ってくれるけれど、なにかをもらうばかりじゃ、私が私を許せない。だけど、自分さえ大切にできない私が彼を大切にして幸せにすることが、果たして本当にできるのだろうか。
私はいつか、彼の重荷になるのじゃないだろうか。
なにも言えなかった。
瞬きのひとつさえできなかった。
ただただアンドラスさんを見つめるだけの私に、彼は表情を曇らせてそろりと視線を落とした。
「……すまん。浮かれてたな、こんなときに。お前の気持ち、ちゃんと考えられてなかった」
アンドラスさんが、立ち上がって出入り口のほうへと向かう。顔は見えない。
「ゆっくり休んどけ。レラのやつも来てるから、落ち着いたら一緒に帰ってこいよ」
示し合わせたかのように、ちょうど入れ違いでレラちゃんが入ってくる。彼女もまたどこからか駆けつけてきてくれたのかもしれない。額に汗を浮かべたレラちゃんは、アンドラスさんと私を見比べて明らかに戸惑っている様子だった。
「なにかあったの? おにいちゃん。……エリシャさん? 大丈夫?」
あの炎の中で炙られていたときよりも顔がかっと熱い。今にも泣き出してしまいそうだったけれど、徒に彼を傷つけた私が泣いていいわけもなかった。
レラちゃんはすでに立ち去ってしまったアンドラスさんの行方を視線だけで心配そうに追いながらも、私に寄り添おうとしてくれた。
だけど、私はレラちゃんの心遣いに応えることもできなくて。彼女にアンドラスさんの前掛けだけを託して、無理を言って先に帰ってもらった。
今はひとりで、冷静になるべきだと思った。
あれだけの騒ぎも、もう遠い過去のようだ。夕焼けに赤く染まり始めた街は、もうほとんどなにもなかったみたいに穏やかな日常を取り戻しつつある。
それが、自分ひとりで世界に馴染めずにいるような妙な心細さを弥増しにした。あんなに丹念に治療をしてもらっておきながら、しぶとい余燼がずっと巻きついているような痛痒感を足首に感じる。額に粘ついた汗が滲む。
レラちゃんを先に帰しておきながら、結局のところ私にとっての帰る場所も自警団以外にはない。ぎこちなく、砂粒のひとつひとつを磨り潰していくようにのろのろと歩く。
なんとはなしに顔を上げると、仲のよさそうな母子の姿が見えた。ふたりは仕事場から出てきた父親らしき男性を迎えて、連れ立って帰路に就いていく。
それぞれ高さの違う三つの影はついたり離れたりを繰り返して、最後にはひとつの塊となってどこかにある彼らの家へと遠ざかっていく。夕陽で赤くなった地面に仲睦まじくくっきりと刻まれた家族の証は鮮明で、目に痛い。
「――アッ! エリシャちゃん!」
ぼんやり眺めていたところへ大きな声で名前を呼ばれて、肩が跳ねた。
「エッ! エリシャちゃん!?」
「オッ! エリシャちゃん!」
次いで矢継ぎ早に上がる声に、見知った人だとすぐにわかって振り返る。
そこにはやっぱりいつも仲良し三人組のおじさまたちがいて、三人ともがびっくりしたような顔でこちらへ向かって駆け寄ってきているところだった。三人で団子状に縺れ合いながらばたばた走っているのが、失礼かもしれないけれど年端もいかない少年のようで若々しい。
私が見たときには火事の現場には漁師のおじさまの姿しか見えなかったと思ったけれど、大工のおじさまと荷持のおじさまはあとから応援に駆けつけてくれていたのだろうか。
「あ……、こんにちは、おじさまがた。先ほどはお疲れ様でした」
「いや、それよりもどうしてひとりで! アンドラスの野郎やレラージェちゃんだっていたのに! 傷は大丈夫なのかい?」
漁師のおじさまは私の足許を見ると、やや煤けた顔をまるで自分自身が大きな怪我をしたようにくちゃくちゃにした。
「ごめんなァ。俺がちゃんと目を配ってやれてたら、エリシャちゃんのかわゆいあんよにこんな傷を負わせずに済んだのに」
「あ、謝らないでください! むしろ、私のほうが謝らないといけないのに。こんなにもご迷惑をおかけして、なんと申し開きをすればいいのか……」
「いやァ……俺ァ、エリシャちゃんが無事なら、なんだって。……って、無事≠ナはないよなァ」
私とおじさまは揃って押し黙った。背後のふたりのおじさまも、所在なさげに目を泳がせている。
ずんと重くなった空気を変えるように、漁師のおじさまが殊更に明るく笑った。
「……にしても、やけにしょぼくれちゃって。もしかしないでも、アンドラスにこっ酷く叱られでもしたのかい?」
「い、いいえ、そんな……。アンドラスさんはすごく優しくて……」
「じゃあ、あれだ! とうとう告白されちまったとか」
冗談粧した言葉は見事に図星を突いた。
「うん」とも「違う」とも言えなかった。
むっつりと口を閉ざした私に、漁師のおじさまは一層気まずそうな顔をした。
「……マジで?」
「ワ、ワアッ……オウゥッ」
「泣くな、むさっくるしい」
そして今突然にいったいなにがあったのか、大工のおじさまがその隣でもう立ってもいられないぐらいに泣き崩れる。嗚咽のたびに大きく上下する山のような背中に、荷持のおじさまは容赦のない張り手を打ち込んでいる。
「……そ、その、でもまだ、お返事はできていないんです」
「ワアアッ、ウオーッ」
「なに喜んでんだ、浅ましい!」
観念して口を開いた私に、大工のおじさまから諸手を挙げてまでの歓声が上がる。荷持のおじさまはそんな彼の背中にさっきよりもずっと勢いのある打撃を食らわせていた。
漁師のおじさまは、他ふたりの姿がそこにないみたいに私の顔を覗き込んだ。
「告白されたのを受け入れようとか、断ろうとか、どちらにせよ君の中でなにか腹積りは決まってんのかい?」
「わ、わかりません」
「わからない?」
「なんて言えばいいのか、わからなかったんです」
「んん……よくわかんねえけど、アンドラスのことが嫌いで困ってんなら、きっぱりフっちまうのがいいと思うけどな」
「き、嫌いだなんて!」
難しげな顔の漁師のおじさまの隣、歯に衣着せず放たれた荷持のおじさまの言葉に驚いて、私は弾かれたみたいに顔を上げた。
「違います。アンドラスさんが嫌いなんて、そんなじゃなくて。私はただ……許してもらえないんじゃないかって――」
「――誰に?」
今度は大工のおじさまのひとことが、私の言葉を裂くようにして差し挟まれた。
思いがけず漏れた本音に間髪入れずのその問いが、釘を打つように鋭く刺さる。私はわけもわからず自分の口を押さえていた。自分が今なにを口走ってしまったのかが、よくわからなかった。
大工のおじさまが立ち上がる。砂に塗れた膝を払いもせず、私にまた訊ねる。
「誰に許してもらえないんだと思う?」
嘘じゃない。本当に許してもらえないんだと思った。
でも、誰にそう思われることを恐れたのか。その答えが、いつまで経っても口をついて出てこない。
それもそのはずだ。こんなにも優しい世界で、いったい誰が私を許さないと言うのだろう。
押しつけがましくも、私はいったい誰を悪者にしようとしているのだろう。
「――俺は、エリシャちゃんだと思うけどな」
続けられた言葉が、すとんと腑に落ちた。
「エリシャちゃんを一番許してないのは、エリシャちゃんだと思う」
大工のおじさまのきらきら輝く円らな瞳が、内面までを見通すように私を覗いている。
そうだ、私だ。
私だった。
身体を分厚く覆っていたなにかが、一気に剥がれ落ちたような感覚があった。
私自身を最も恐れ、忌むべき魔女だと思っているのは――他の誰でもない、私だ。
かつて投げかけられた言葉が、投げつけられた石が、私の中に魔女を作った。そうしてもう誰も私を魔女と呼ぶ人はいないのに、私だけが未だ私の中に醜く恐ろしい魔女の面影を見ている。
脚ががくがくと震えて、もう立ってもいられなかった。
思わずへたり込もうとした私を、大工のおじさまの大きな手ががっしりと支えてくれる。
「正直言って、エリシャちゃんが誰かと結婚しちゃったりっていうのは寂しいよ」
太くて柔らかい声が頭上から降り注いでは私の身に優しく染み渡っていく。丸々大きく焼き上げたパンみたいな手が、染み込んだ言葉を逃がすまいとするように背中を何度も優しく擦ってくれる。
その手が温かかった。
本当に温かかった。
「エリシャちゃんは俺らのアイドルだから、嫌だって、俺らはどうしても言っちゃうけどさ。でも、俺らのそういう気持ちなんて、そんなのなんにも関係ないんだよ。
他の誰がなんて言ったって、君自身が怖いと思ったって、エリシャちゃんはエリシャちゃんが幸せになれる道を遠ざけたりしちゃ駄目だ」
「お、おじさま……」
「大丈夫だよ。エリシャちゃんは幸せになれる。なんたって、君は幸せになるために生まれてきた女の子なんだから」
目が燃えているみたいに熱い。視界はどうしようもないくらいに揺らいでいる。だけど、大工のおじさまの優しい顔だけはくっきりと見えるのがなんだか可笑しかった。
黒く日焼けした顔にぽてぽてとついた眉毛も、ころんとした両目も、全部が明瞭だ。そのすべてが私を穏やかに勇気づけようとしてくれているのがよくわかる。
このままではいけないと、強く思った。
こうまでたくさんの人たちに支えられておいて、私はいったいいつまで過去の傷を舐め回すつもりなのか。
いい加減に気づくべきだ。恐れず認めるべきだ。私が覗く鏡の中にしかいない魔女と目を合わせている暇なんて、もうないんだから。
こんなにも私を想ってくれる人たちを前にして自分の心に背き続けること以上の不義理なんて、きっと世界中を探したってどこにもない。
優しく支えてくれるおじさまの手を借りて、私はもう一度自分自身の足でしっかり地面に立った。
夕焼けに染まる街並みは赤く輝いて私を見返し、目の前に立つおじさまたちも赤々と染まって私を見ている。
その優しい眼差しを受ける私も、また赤い。ただただ赤い。青白い膚も赤黒い髪も、なにもかもが赤に染まっていた。
なんだか、生まれ直したような気分だった。
「もしも……」
「うん?」
口を開いた私に、大工のおじさまが大きな背を丸めて耳を近づけてくれる。
「怒らないで聞いてくださいね。……もしも私にお父さんがいたら、こんな人だったのかしら、って……ちょっと、思っちゃいました」
「へ、へへ……、怒ったりなんかしやしないよ。光栄だなあ」
大工のおじさまは私の言葉に驚いた様子で、それでもにっこりと笑ってくれた。
息を切らして、アンフェ通りを抜けて自警団のあるスーニア通りへと足早に向かう。気が急いているせいなのか、足の痛みはもうすっかり消え失せていた。
とにかく今は、一刻でも早くあの人の顔が見たかった。謝りたかった。彼に伝えなければいけない言葉が、両腕いっぱいに抱えきれないぐらいにあった。
そんな私の気持ちが、今ばかりは世界に通じたのだと思った。
通りの向こうからアンドラスさんがやってくるのが見えた。
涙がぶわっと込み上げる。
胸の内に住みついた想いにいつか気がついたときのような、金赤色の夕映えが目に焼きついて目映い。
燃えるような夕陽を満身に浴びる彼が本当にきれいだったから、涙と一緒に溢れてやまない心はもう堰き止められもしなかった。
――あなたが好き。
私は――アンドラスさんが好き。
恐れもない。
罪悪感もない。
ただ好きだと、真っ直ぐに感じる。
――好きだ。
――好きだ。
――――好きだ!
なんて息苦しく醜く、だけれど――堪らなく愛おしい感情だろうか。
「あ、アンドラスさん……――アンドラスさん!」
私の呼びかけに、アンドラスさんの足が怯んだようにびくりと止まる。それでも私は構わず声を張り上げた。
「……っ、意気地なしでごめんなさい! わた、私もっ! 私も、アンドラスさんが大好きです!」
咥内に痛みと逆流した息が込み上げて激しく咳き込む。一気に枯渇した酸素で膝ががくんと折れる。慌てて駆け寄ってきてくれたアンドラスさんが心配そうな顔で私の肩を抱いてくれる。
それが嬉しくて嬉しくて、私はもう本当にどうしようもない女になってしまったのだと思った。
あなたと生きていきたいと思う。
あなたの隣にいたいと強く思う。
私も、あなたを守って生きていきたい。
きっと、私もずっとそうだった。他の誰でもない私自身が、あなたを幸せにしたいのだと。
今さら気づいた。気づいてしまった。
気づけないまま死んでいく想いでなくてよかったと、今は心から思う。
「好きです、本当に……嘘じゃないです」
「エリシャ、」
「あなたが好き。好きなんです」
「わかった、わかったからあんまり無理して喋んな」
「いいえ、お願い、聞いてほしいんです」
惨めさを探して罰を受けたつもりになるのはもうやめよう。姿かたちのない悪意を手繰り寄せて自分を戒めたような気になるのは、もう終わりにしたい。
「私は臆病で、甘ったれで、情けなくて……でも、まだ間に合うなら、こんな情けない私でもいいなら……」
私はなにも望まれない子供だったかもしれないけれど、それでも生まれ生きてきた私は今、幸せになるために息をしている。
――こんな私の幸せを望んでくれる人たちが、確かにここにいるのだから。
「――エリシャを、あなたのお嫁さんにしてください……」
ぐしゃぐしゃの顔とみっともない声で、それでもせいいっぱいに告げる。
私の肩を抱いてくれていた手が感極まったように背中へ回った。息も詰まるくらいに力強く抱き締めてくれるその腕が、想いが溢れて身も心も弾け飛んでしまいそうな私を繋ぎ止めてくれているようだった。
「……言っただろ、お前が好きだって」
「はい、っ……!」
「嫁に来い、エリシャ!」
「はいっ、アンドラスさん……!」
地平に臨むよりなお眩しい。私の光。私の希望。
私に咲く愛の華はきっとずっとあなたの形をしていたのに、私はこんなにも意気地なしで。
だけどあなたは、そんな私をも受け入れてくれる。
強く抱いてくれる腕が嬉しくて離れがたくて、私も彼の背に手を回してぎゅうっと力を籠めた。
……今この場が、まだ人通りも疎らにある往来であることもすっかり忘れて。
――さて、どうやらナザリーさんの話してくれた為来りには、まだ続きがあったようだった。
花嫁の幸せを願って、ヴェールに針を入れる風習。なんでも、その祈りにも似た風習に参加できるのは花嫁の親族か、もしくは花嫁と親しい未婚の娘のみに限られるのだという。
後日、お祝いの品で溢れ返った自警団にナザリーさんが「結婚はあたしよりも後にしろ」と怒鳴り込んでくるのは、また別の話だ。
――――
24/05/08
おまけ
おっさんズ
「オゥッ、オォン……! エグッ……ォエッ……ゴエェッッ!!」(泣きすぎて嘔吐いている)
「泣くなよォ。お前、よく頑張ったよ、なあ?」
「そうだよ。今日は俺らが奢ってやっから、吐くまで飲もうぜ」
フォル+レラ
「レラから話を聞いたとき、一時はどうなることかと思ったけど、なんだかんだ丸く収まったみたいでよかったね〜」(表を見ながら)
「本当に! 兄貴が断食三日目の鶏みたいな顔で部屋を出てきたときもそうだけど、エリシャさんに『大丈夫だから先に帰って』って言われたときなんてどうしようかと思ったもの。無理矢理担いでいくかどうか、すっごく迷っちゃった」
「ウーン。なんとかなった今だから言えるけど、エリシャにフラれかけて断食三日目の鶏みたいな顔したアンドラ、ちょっと見てみたかったカモ……」
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