前編



金赤色華実咲く_前編




 しゃきっと肌を引き締める爽やかな朝の寒気かんき。冴えた空気は、睡魔が取り憑く泥濘ぬかるみのような熱の残る一身ひとみに心地好い。
 窓硝子を淡く透るのは、仄暗い灰青色の空がようやく迎え始めた白らかな旭光きょっこうだ。線状の光は、まるで道具を使って引いたみたいに真っ直ぐ食堂に飛び込んできては、籠める柔らかな薄暗がりをはらはらと散らしていく。
 その朝日を帯びて、ふわふわに立った白い毛の一本一本をきらきらと輝かせる人がいる。
 彼はふと思い立ったように顔を上げてこちらを見た。橙色の瞳から放たれる視線が、私にちらと掠められる。

「ところで、エリシャ。今日はお前も仕事があるらしいな」

 恒例の早朝の走り込みでたっぷり掻いた汗をタオルで拭うマルちゃんが、そんなことを言う。なんだかんだ、こんななんでもないような世間話を彼から振ってくれるのは珍しいことだ。私は嬉しくなって、ついにこにこと頷いた。

「あ、うん、そうなの。マルちゃん、覚えててくれてたのね」
覚えて・・・……?」

 対するマルちゃんは、途端不機嫌そうになる。真っ白なタオルの隙間から覗く目をぎゅっと細めて、こちらをじろりと見た。
 彼の瞳は優しく甘いオレンジシャーベットみたいにまろやかな色合いをしているから、睨みを利かせてもあまり恐ろしく見えないところがいいなと思う。こんな印象をいだくのは、そもそもこれまでに彼から、私を本気で脅しにかかろうという気が感じられたことがないところも大きいだろう。
 彼は言葉つきやその振る舞いこそ一見厳しいようでいて、誰かに対して理不尽に拳を振り上げるようなことはただの一度としてなかった。誤解されがちだけれども、優しい子なのだ。

「覚えていたもなにも、訊きもしないのにお前が人の横で勝手にべらべらとうるさいからだろ」
「ああ、そういえば、そうね。確かに……」

 記憶を振り返る私に、なおも険のある眼差しが突き刺さる。
 言われてもみればその通りで、私には彼の姿を見るなりついつい寄っていって、なにかとお喋りに付き合わせてしまう悪癖がある。
 これは彼のすぱっとした小気味いい語り口と、本当に私が迷惑なら迷わず背を向けてくれるだろう為人ひととなりに対しての甘えがあるためだった。今だって、マルちゃんはぶつくさとぼやきながらも私のお喋りに根気よく付き合ってくれている。

「うん、でも、だからこそ≠ネんだわ」
「なに?」

 マルちゃんが問いながら片眉を跳ね上げる。

「私が勝手に話したことだったのに、あなたはしっかり覚えててくれてたから。だから、やっぱり嬉しいなって。ありがとう、マルちゃん」

 いよいよ以てマルちゃんはなんだか忌々しげだった。狗族特有のふにふにと厚く柔らかそうに立ち上がった耳がぴるぴる細かく動いて、ぷいと反らされた鼻の頭がむずりむずりと蠢いている。ちょっぴり居心地が悪そうでもあった。

「たかだか凡人風情の脆弱な記憶力と同程度に見てもらっては困る。僕の明晰な頭脳は常に冴え渡っているんだ。お前のせいぜい胡桃大の脳味噌とはわけが違う」
「そうよね、すごいわ」
「……ふん」

 それでも暫くするうちに段々と気分のよさが勝ってきたのか、彼は綺麗に通った鼻筋を誇らしげに上向けた。ふっさりとした尾は床を勢いよく払うように左右に振られ、上を向く膨らんだ小鼻からはむふんと力強い息が漏れる。
 その上向いたままの顔で、マルちゃんは器用に私へ視線を垂れた。

「それにしても……お前もこれでようやくタダ飯食らいの身から本格的に卒業するのだと思うと、感慨深いものがあるな。ここまでお前を見捨てず鍛えてやった僕に感謝しろよ」
「うん、本当にありがとう、マルちゃん。私が少しでも皆さんのお役に立てるようになったのは、あなたのおかげね」
「よくわかっているじゃないか。これからも僕の背中を見て励めよ。絶えず感謝の念を忘れず、末代まで僕のいる方角を向いて拝むといい」
「うん、きっとそうするね」
「お前は鈍間な奴だが、そうやってものわかりのいいところだけは評価できるな」

 マルちゃんはなにごとかひとこと言うたびに一層胸を張っていって、今やひと押しで引っくり返っていきそうなぐらいだ。こんな彼を見るたびいつも思うけれど、それなのに本当にそのまま倒れていってしまった試しのないところが彼の驚異的なバランス感覚の顕れなのだろう。これも、彼が日々自身に課してきた厳しい鍛練の成果に違いなかった。
 マルちゃんはふらつきもせず、その傾いた体勢のままで使い終わったタオルをこちらへ差し出してくる。私も、いつも通り受け取ろうと手を伸ばす。
 だけれど、どうしてだかいつまで経っても広げた手のひらにタオルが落ちてこない。
 どころか、彼は反り返りすぎて逆に下がり気味だった上体をむくっと起こすと、周囲に素早く視線を巡らせた。ふわふわだった白い毛は、なんのためにか針のように逆立っている。

「……マルちゃん?」
「……いや、」

 しきりに辺りをきょろきょろと見回すマルちゃんはなにかを探しているようだった。二度三度ばかり首を左右に振って、結局なにをするでもなく改めて私に向き直る。目当てのものが見つからなかったようだった。だというのにしたる落胆の色も見せない彼は、むしろ探しものがこの場にないことを安堵しているかのようにも見えた。
 思わず気になって、探しものの正体も知らないくせに私も彼の身体越しに視線を右から左へきょろりと流してみる。
 だけど、やっぱりこれといったものはなにも見つからない。ものが増えていたり逆に減っていたりということも特にない、はず。私の目からは、いつも通りの食堂でしかない。
 マルちゃんの背後からアンドラスさんがゆっくりと近づいてきているのは見えたけれど、ただそれだけだった。

―よし、」

 晴れ晴れとした面持ちで、マルちゃんはとうとうタオルを手放した。私の手の中にしっとりと濡れた微温ぬるいタオルが落ちてくる。
 それとほとんど同時だった。彼の頭の後ろから、大きく広げられた手がぬうっと伸びてきた。

「なにがよし≠セ、馬鹿野郎」
「ぐあああッ!」

 マルちゃんの頭に大きく長い指がみしみしと音を立ててめり込んでいく。この手の主はもちろんアンドラスさんだ。
 マルちゃんは苦悶の表情で、頭を両手で抱えるようにして押さえている。アンドラスさんの手をどうにか引き剥がそうとしているようだけれど、うまくいかないらしい。じたばたとしていた。

「ほんっとに学習しねぇ奴だな。―エリシャ! お前もだぞ」
「は、はい、すみません」

 ぴしゃっと叱られて、私はつい肩を竦ませた。アンドラスさんの声は通りの端から端まで届くくらいよく通るから、こんなふうに怒られると「本当に悪いことをしてしまったのだわ」と反省しかできなくなる。

「き、貴様っ、アンドラス!」

 その一方でマルちゃんは勇猛果敢だ。まったくと言っていいほどめげずに、なおも藻掻きながらアンドラスさんに食って掛かっている。

「背後を取るとは卑怯な……! お前には矜持のひと欠片もないのか! 恥を知れ、恥を!!」
「恥を知るのはお前のほうだろうが。いい加減、タオルぐらい自分で片づけろ」

 言いながら、アンドラスさんはようやくマルちゃんを解放した。おでこに指の痕を赤くてんてんてんと残したマルちゃんは、それでもアンドラスさんを鋭く睨みつけてぷりぷりと怒っている。
 しかし、アンドラスさんにもう一度大きくパーの形になった手を見せられると、すぐにくるりと背を向けた。

「何度も言うがな、アンドラス! これで勝ったなどと間違っても思うなよ! この場は、僕が譲ってやったんだ! 覚えておけ!」

 不機嫌一辺倒の足音をけたたましく鳴らしながら、怒鳴り声が洗濯もの置き場のほうへ遠ざかっていく。やがて彼の姿は見えなくなって、私たちふたりだけが取り残された。
 急に場がしん……と静まり返る。私もアンドラスさんも口にするべき言葉を見つけられていない様子だった。言葉もなく、お互いにお互いをまじまじと見合っている。
 わざわざ目を逸らす必要もないからなんとなく向き合ったままでいるけれど、そうやってどうにかもっともらしい理由付けを考えていること自体が、そもそもおかしな話だった。

「……、あ〜……」

 彼も同じように感じていたのかもしれない。アンドラスさんは、どことなく居た堪れないように視線をうろりと動かした。

「今日はお前……家事代行の仕事が入ってたんだよな」
「あ……、はい」

 自警団のみんなとは違って力仕事という面ではてんで役立たずの私だが、家事についてはある程度腕に覚えがある。アンドラスさんはそれを特技として見出してくれ、最近の私は自警団を通して家事の代行を請け負うことが増えていた。
 今回依頼をくれたのは、ナザリーさんという第一地区に住む女性だ。小ざっぱりとしてとても気持ちのいい性格の彼女は、前々から自警団によくご飯を食べにきてくれるお客さんのひとりでもあった。加えて、元は華族かぞくの皆さんや私とも同じ地上オクロムの出身ということで、個人的にも仲良くしてくれている。

「朝の仕込みのお手伝いが終わって少ししたら、すぐにでもナザリーさんのところへ伺うつもりです。……それで、問題ないでしょうか?」
「おう。まあ、これが初めてのことでもないし、依頼人つっても日頃から付き合いのある相手だからな。仕事はきちんとやってもらわなきゃ困るが、それはそれとしてあんまり気負わずやれよ」

 その言葉で知らず知らずのうち身体に入っていた力がぷうと抜ける。
 お仕事なんだもの、適度な緊張はかえって気を引き締めてくれるだろうけども、それで変に強張って失態を演じてしまっては本末転倒だ。
 彼の言う通り。いつものように、私は私にできることをきちんとこなしていけばいいだけだわ。

 アンドラスさんの激励に、私はこくりと頷いた。

「はい、しっかりお勤めしてまいります」
「おう。……おう」
「……、えっと……?」

 お互い、ある程度のひと区切りがついた感じだった。それで会話を切り上げて、とりあえず今は各々の準備に戻っていくような雰囲気だったのに、アンドラスさんの足は一歩たりとも動かない。まだ私の前でそわそわとしていて、なにやら腕を上げ下げしている。
 そのうちに落ち着きどころを見つけたように、腕は中空でぴたりと止まる。そのまま私の肩の上にぽんと降りてきた。
 肩口の布地越し、アンドラスさんの手の熱が私の肌にじゅわっと染みて、少しどきりとする。

「……それじゃあ、今日も一日よろしく頼む」
「……はいっ、こちらこそ、よろしくお願いします」

 私を見下ろすアンドラスさんの表情は岩のように厳めしい。それでも肩から伝わる温もりが優しいから、申し訳なさよりも嬉しさが勝ってしまう。
 もういくらか前のことだ。
 「我儘を言っていい」というアンドラスさんの言葉に甘えきった私は「もっと触ってほしい」なんて妙なことを口走ってしまい、彼を困らせてしまったことがあった。
 当時はなんだか変な空気が漂う瞬間もあったけれど、アンドラスさんは律儀な人だから、それからもこうして折に触れてスキンシップの機会を設けてくれていた。
 置かれた温かな手の上に自分の両手をそうっと重ねる。驚かせてしまったのかアンドラスさんの指がびくっと跳ねて、肩にきゅっと食い込んでくる。
 そのちょっと痛いくらいの手の力に、かえって安心感があった。

「あたたかい、」
「そ、そうか」
「……ふふ、アンドラスさんの手、いつも太陽みたいです。ぽかぽかしてて……」
「そ、そうか」
「自警団の看板に泥を塗らないように、私、しっかり頑張ってきますね」
「そ、そうか」
―おい、」
「わあっ」

 不意に、すぐ真横から人の気配がしてあまつさえ声まで上がる。
 私とアンドラスさんは揃って飛び上がって、一斉に横を見た。

「廊下を塞ぐな、破廉恥共」
「だっ……誰が破廉恥だコラ!」
「ご、ごめんね、マルちゃん、お邪魔だったよね」

 どうやらタオルを片づけてうに戻ってきていたらしい。いかにも手持無沙汰そうに腕を組んだマルちゃんが、憮然とした面持ちで立っていた。


 ―特別自由自治区ラジエントが主都、セゼンリース。その市街を十字に通る大通りは、街を第一地区から第四地区に綺麗に別っている。
 その四つの区画のうち、街の北西に位置するはアンフェ通りとリーズ通りに面した第一地区。役所パレシアにもほど近いそこには、先細りの三角錐の瓦屋根が印象的な民家がある。
 言い伝えに聞く小人が被る帽子のような、なんとも愛らしい見掛けをした家。それこそ、今回の依頼人―ナザリーさんの住む家だった。
 塀に迫られるようにしてある華奢な鉄の門扉を押し開いて見えるのは、家までくねくねと蛇行して続く石畳。その左右には野菜の生る小さな畑と、玉砂利を敷き詰めた庭がある。
 この、客人を家にまで導いてくれる石畳を爪先で「こつこつっ」と鳴らすのが、ナザリーさんの家にお呼ばれしたときの私の密かな楽しみだ。
 石畳を存分に堪能して、ようやく家の前まで辿り着く。重たい手提げ袋を肩に掛け直して呼び鈴を鳴らすと、待ち構えていたかのようにすぐ扉が開いた。

「エリシャ! いらっしゃい!」
「おはようございます、ナザリーさん」

 中から顔を覗かせたのは、もちろんナザリーさんだ。
 さっぱりと爽やかな笑顔が、日の光をいっぱいに浴びる朝露にも負けないほどに煌めいて眩しい。

「今日もまた、随分早く来てくれたんだね」
「あ……すみません、早すぎましたか?」
「いや? 話し相手がほしくて退屈してたとこ」

 ナザリーさんは明るく言いながら、長い睫毛を湛えた目でぱちっとウィンクをする。それが胸を打つくらい魅力的だから、私の頬はつい「ぽっ」と熱くなった。

「さ、上がって! お茶のひとつでも出してやるから、仕事前にちょっとひと息つきなよ」
「は、はい、それじゃあ、お言葉に甘えて……」

 ナザリーさんに背を押されるがまま、私は席についた。そこでようやく気づいたけれど、肩にしっかり掛けていたはずの手提げ袋がすでにない。
 慌てて振り返ると、私の手提げを持ったナザリーさんが台所へ向かう後ろ姿が見えた。私の周りの人たちはこうしてあまりにも自然に親切をはたらいてくれるものだから、私はいつもお礼を言うのが遅れてしまう。
 せめて今からでもお礼をと思って席を立ち上がる。彼女の背中を追いかけようとしたところで、ナザリーさんが壁の向こうから照れ臭そうにちらりと身を覗かせた。

「ごめん。やっぱり、あんたが淹れてくんない? あたしが淹れるより、あんたの淹れたお茶のほうが美味しいんだもん」
「……うふふ。ええ、ぜひ、任せてくださいっ」

 ―台所を借りてお湯を沸かし、ナザリーさんが出してくれていた茶葉でふたりぶんのお茶を淹れる。淹れたお茶を盆に乗せてまたテーブルへ戻ると、すでに席に着いていたナザリーさんが縫いかけのレースリボンを置いて手を振ってくれた。

―にしても、ちょっと安心しちゃったよな」
「……と、言うのは……」

 ほかほかと丸い湯気を立てるティーカップにさっそくとばかりに口をつけながら、ナザリーさんがけらけら笑って言う。

「いやさ、ほら。自分から頼んどいてなんだけど、なんかの手違いでレラージェが来やしないかって、昨日からひやひやしてたんだ。あたしが今日お願いしたいのって、メインは料理関係のことだったからさ」
「そ、そうですか……」
「あの子って基本なんでもできる子だけど、料理だけは―ねえ?」
「う、ううん……」

 否定も肯定もできずについ苦笑って、間を誤魔化すために椅子に座る。
 レラちゃんはなんでもそつなくこなす女の子なのに、どうしてだかお料理関係のことだけは持ち前の器用さが奮わない。これは私たちの間では広く知れた事実だった。
 本人もそれなりに気にしているようだから、私もどうにか少しでも改善できないかと彼女と一緒に台所に立ったことがある。だけれど結果は散々で、その後は暫くの間、どうしてだか私までお料理ができなくなるという珍事に陥ってしまったのだった。
 そんなことがあって以降、私とレラちゃんが一緒に台所に立つことはできなくなってしまった。アンドラスさんに厳しく禁じられたためだ。

「マ、そんなもんだからさ、あんたみたいに気の利く家事上手が自警団に来てくれて、あたしらみたいなのはほんとに助かってんだよ。こういう仕事が、うんと頼みやすくなったんだもん」

 ティーカップをソーサーにそっと置いたナザリーさんが、またリボンを手繰って針を取る。私はというと、未だにお茶に手が伸ばせないままで指先をもじもじと弄っている。
 昔からそうだ。熱さにはどちらかといえば強いほうだったのに、熱すぎる食べものはしっかり冷ましてからでないと一向に口がつけられない。

「家事の腕って言や、そりゃ団長こそ天下一品だけどさ、あの人はあの人で色々と忙しい人だし、なによりあたしが結婚を控えた身で余所よその男を家に入れるのは、なんだか気が引けちゃってね」
「あ……、そういえばご結婚の日取り、決まったんですよね。おめでとうございます」
「やめてよ。改まってそんなこと言われると、なんか照れちゃうだろ」

 私の言葉に、ナザリーさんがぱっちりした目元をくしゃくしゃにして無邪気に笑う。
 彼女には魔界アル=アラートに来てからのお付き合いである恋人がいて、結婚まで秒読みといった期間がもう随分と長く続いていたのだった。それがつい先日ようやく正式なプロポーズを受けたということで、彼女やその周囲は近頃なにかと慌ただしい。
 ナザリーさんがここ最近頻繁に私に依頼を出してくれるのも、結婚の準備で家のことに手が回らないほど忙しくしているためだった。
 今彼女が取り掛かっている縫いものも、恐らくはその準備の一環なのだろう。訊ねるとナザリーさんは首肯して、私にもよく見えるようにとリボンをひらりと広げてくれた。
 純白のレースリボンには、可愛らしい草花や木の実をモチーフとした図案が繊細に縫い込まれている。見たことのない植物だと言えば、そのどれもが彼女の故郷でのみ見られた植生によるものだとナザリーさんは言った。図案も、彼女の一族に古くから伝わってきたものなのだと。
 ふと視線を彼女の肩越しに投げかければ、部屋の片隅には霞が折り重なってできたような美しいチュールがハンガーに掛かってふんわりと佇んでいるのが見える。あのチュールの裾にレースリボンを縫いつけて、ウェディングヴェールにするのだろう。

「どんなもんよ。まだまだ途中だけど、中々の出来でしょ」
「はい、すごく綺麗です」
「はは、あンがと。ぶきっちょだけど、お家柄かな、この手の作業だけは昔っから得意でね」

 その言に違わずナザリーさんは私と言葉を交わす一方で、手に持つ針を実に器用にちくちくと動かしている。その手捌きは、針がまるで彼女のもう一本の指であるかのように見えるほどだ。

「あたしンとこにはさ、花嫁が自分で拵えたヴェールを、親しい人たちからひと針ずつ刺してもらって完成させるっていう古くからの為来しきたりがあったの。そうすれば、嫁いでいった花嫁はずっと幸せに暮らせるって」

 彼女は寂しげに笑った。詳しく立ち入って聞いたことはないけれど、恐らくは彼女も並々ならぬ理由があってこの地にいるのだろう。

「生まれ故郷からは随分離れてこんなとこまで来ちゃったけどさ、だからこそあたしも、このヴェールは最後にはみんなの手を貸してもらって完成させたいんだ」
「ナザリーさん……」

 きっとその美しい為来しきたりには、古くから変わらない絆や愛に基づいた祈りが込められているのだろう。彼女によって繰り出される流麗な針運びに、長きに渡って人々の手により紡がれてきた優しい歴史を垣間見たような気がして、胸に温かいものがじんわりと込み上げる。

「……素敵な伝統ですね。私、応援してます」

 うっとりと呟いた私に、ナザリーさんはぴたりと指を止めてこちらを見る。少しだけむすっとした顔で、目だけで私を湿っぽくじとりとねめつけた。

「ちょっと、なに他人事みたいな顔してんのさ。当然、あんたにもひと針刺してもらうんだからね。わかってんの?」
「……えっ。わ、私がですか?」

 ティーカップを取ろうとした手が滑って、ソーサーが高くがちゃんと鳴る。驚き目を見張った私に、ナザリーさんはますます不満顔だ。

によ。嫌なわけ?」
「い、いいえ! そんな! こ……光栄です……!」
「……ふふん、そりゃそうでしょ。花嫁のヴェールってのは、誰にでも針を入れられるもんじゃないんだからね」

 本当に、思いがけない栄誉と言うよりほかにないことだった。ナザリーさんに大切な友人なのだと言外に伝えてもらったことも、こんなに綺麗な絆の輪に私まで手を引いてもらえることも、なにもかもが嬉しくてまなじりが情けなく垂れていく。
 だらしない顔をしているだろうことが恥ずかしくて、私は咄嗟に俯いた。それでやっと目に入ってきたテーブルの上の自身の手は落ち着きなくぱたぱたしている。丸きり子供みたいで、これもまた恥ずかしい。
 とにかくこの手だけでも隠してしまおうと膝の上にしまい込んだところで、視界にナザリーさんの腕がぐわっと飛び込んできた。

―あーあ! あんたを嫁にする男が憎らしいったら!」
「きゃっ、……!」

 下げていた顔を持ち上げるように、ナザリーさんが私の鼻をぎゅむむっと抓みあげる。

「この可愛い可愛い真っ赤っかな鼻っ面が、そいつだけのものになるってンだからね。妬ましいったらありゃしないよ」
「な、ナザリーさん……」
「あんたの結婚式にはあたしも呼びなよ。いーい?」
「い、今のところ、特に予定はありませんが……」
「ふうん? そう?」

 結婚どころか恋人だっていない私にそんな予定があるわけもない。それなのにナザリーさんはちょっぴり納得のいかない様子で首を捻っている。
 かと思えば窓の外、いよいよ以て青さを増し始めた空を見やって、はっとした顔をした。ナザリーさんは勢いよく席を立ちあがると、縫いかけのレースリボンをキャビネットの中に大事にしまう。

「のんびりしすぎたな。そろそろあたしも自分の仕事に行かないと。じゃ、家のことは頼んだよ。鍵は、いつもの場所に置いといてくれればいいからさ」
「はい、わかりました」
「あ―、あとあれ。この間、作っておいてくれてた煮物、また作ってよ。あれ、すっごく美味しかった。誰のレシピ? 団長? あんた?」
「大元は私のレシピで、そこにアンドラスさんが手を加えてくださったんです。お口に合ったようでよかった。前回とっても喜んでくれていたみたいですから、今日もちゃんと材料、持ってきてますよ」
「さっすが! あんたってば、ほんと気が利くんだから」

 あれこれ言いながら慌ただしく出勤の準備を整える彼女の声に応えつつ、私も一緒になって後を追う。彼女のどたばた具合に釣られて私まで忙しい気持ちになっていたせいか、玄関まで辿り着く頃には大した移動距離でもないのに息が上がってしまっていた。

「よしっ、準備完了! 頼みたいことも頼み終えた! それじゃ、行ってくるね!」
「は、はい。お仕事、頑張ってきてくださいね、ナザリーさん」

 戸口に立って見送る私に、ナザリーさんは面白そうににやにやとする。弓形ゆみなりになった目が悪戯っぽくきらりと光る。

「はは……、あんたに結婚の予定がないって言うなら、あたしの嫁に来てもらっちゃおうかな」
「ナザリーさんには、もうじき素敵な旦那様ができるじゃありませんか」
「そーそ。旦那はもう間に合ってるから、あんたには嫁に来てもらうの」
「もう……お仕事、遅れちゃいますよ」

 冗談を残して軽快に走り去っていった彼女の後ろ姿が見えなくなるまで見送って、私はまた家の中へと戻る。
 まずは溜め込んでしまっていたと聞いていた洗濯ものから片づけたい。それが済んだら家の掃除をして、日保ひもちの利く料理を何品か作る。そのあとは台所を私用に使ってもいいと言われているから、自分の昼食を簡単に済ませよう。そうしたらまた台所周りの掃除をして、依頼は完了だ。
 先ほど台所を見せてもらった限りでは、事前にある程度の食材や調味料の用意をナザリーさん自身でもしてくれていたようだった。献立に困ることはないだろう。こちらでもじゅうぶんに賄える程度の食材は持ち込むと言ってあったのに、気を遣ってもらってありがたい限りだ。

 笑みを収める。深く息を吐いて、また大きく吸う。自分の頬を軽くぱちんっと叩いて気合いを入れると、私は満を持して腕捲りをした。
 ここからは、私も仕事の時間だ。


 お昼と夕方の間くらいの、温かで穏やかな心地の好い頃合い。見上げればまだ空は青々としていて、役所へ真っ直ぐに続く道だけあってアンフェ通りも賑々しい活力に満ちている。手提げ袋はすっかり軽くなって、足取りも軽い。
 ナザリーさんの家での仕事が終わった私は、自警団への帰り道を辿っているところだった。
 曲がり角に差し掛かり、もうすぐ自警団の影も見えてこようかというそんな折、人通りの流れが自分とは逆を往っていることに気づいたのは偶然だ。
 不思議に思って足を止めると、周囲の喧騒も明るく賑々しいというよりはどこか不穏めいて騒々しい。
 不安に駆られて澄ました耳を、誰かの声がつんざいた。


――――火事だ! 火事だぞ!」

 心臓が、まるで耳許で鼓動しているかのようにどくんと鳴る。地面に影が縫い留められてしまったように動けない私のすぐ傍で、声はなおも続ける。

「どこが燃えてる!?」
「ナザリーの家だ! 急ぐぞ!」

 事態を正しく把握したその瞬間、全身の血の気が一気に失せた。指先や足の爪先から身体中の血液が全て抜けていってしまったような、悍ましい感覚だった。
 ナザリーさんの家が? どうして?
 頭の中を、それだけがぐるぐると回る。
 台所を最後に使ったのは私だ。間違いがあってはいけないと、火の始末は何度だって確認した。
 見落としがあったのか。それとも、それとももっとなにか……―。

 ―エリシャの中には、火の魔力があるんだな。

 契機というほどのことはなにもなかった。ただ途端に頭の中心を一本の糸がすっと通っていくような感覚がして、そう遠くもない過去がさまざまと目蓋の裏に蘇った。
 そして今、あっけらかんとして放たれた言葉を、強烈に思い出していた。

 ―パイモンが、そんな感じがするって。もしかしたらお前も、練習すればちょっとした魔法ぐらいは使えるようになるかもしれないぞ。

 いったいどんな話からそんな話題が生まれたのかも覚えていない。それこそ燃える炎のような赤い瞳をした少年があのときと同じく、プリンをもぐもぐと頬張りながら私の記憶の中で何度も囁きかけてくる。

 鼓動が早くなる。息が浅くなる。
 火の不始末でなければ。
 そうでもなければ。
 ――――私が?

 見下ろした両手は白く青ざめている。視界にちらつく、嫌になるほど見慣れたはずの赤黒い髪に今さら脳天を揺らされたような衝撃を受けて、踏鞴たたらを踏む。
 赤黒い髪。醜い髪。かつていた、私と同じ髪色を持った人。誰に言われた言葉かもわからなくなるくらい飽きるほど聞いた、実の父親への恨みと揶揄からかいの文句が私の胸を苦しいほどぎゅうぎゅうに締め上げる。

 ―妻を捨てた。
 おまえを捨てた。
 ―お前の父親は炎の怪物だ。
 ―実の両親さえも、焼き殺したのだ。

 あれが、ただの放言ほうげんでないならば?
 彼の中にあった呪われた炎の魔力が、私にもそっくりそのまま受け継がれていたのなら―?

 記憶が、過去の情景が、頭の中で入り乱れている。今も過去も感情も思い出も、なにもかもが綯交ないまぜになって私の思考をぐちゃぐちゃに埋めていく。

 まだ地上オクロムにいたときのことだ。
 隠れ住んでいた森のすぐ傍にあった町で火の手が上がったことがあった。私はそのとき赤々と染まった空が恐ろしくて、火が燃え移りはしないかとこっそり様子を見に行ったのだ。
 不幸中の幸いとでも言うのか、燃えていたのは家屋の一軒のみだった。それも町に着く頃にはすでに打ち壊されてほとんど消火も終わっていたから、私も誰かに見つからないうちにそそくさと家に帰り着いたのを覚えている。

 あの繊細なヴェールが、崩れてくる瓦礫の中を耐えきれるだろうか。
 いや、それどころか、火に巻かれてすっかり燃え尽きてしまうかもしれない。

 ―あたしも、このヴェールは最後にはみんなの手を貸してもらって完成させたいんだ。
 ―当然、あんたにもひと針刺してもらうんだからね。わかってんの?

 頬を桜色に染めた、幸せそうにはにかんだ笑顔が脳裏を過る。
 ナザリーさんが一生懸命に縫い進めていたレース。
 私にも針を入れさせてくれると言ってくれた、大切なもの。

 もう、いても立ってもいられなかった。来た道を引き返すべく、私は身を翻した。


―――
24/05/08



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