災越の日



 時はすでに下旬。災禍さいかの月と呼べど幸い特筆すべき大事もなく、ラングル家では慌ただしくも穏やかに一年が過ぎていこうとしていた。
 どんな年でも年末年始はやはり仕事が増えるもので、さしものゲーシェグもややほつれた青灰の髪など二の次で黙々と仕事をこなしていた。なんせこの広い屋敷に雇われている使用人は彼女ひとりであるし、余暇や気まぐれに作業を手伝ってくれる主人らもいないのだから、常の悪ふざけも鳴りを潜めるしかない。昼下がりの気持ちの良い陽光だけが、彼女のちょっぴり痛む腰を慰めてくれている。
 年末の恒例行事である不要品の仕分けがようやく終わり、達成感に手頃な窓をぶち破って外に駆け出していきたい衝動と戦っていると、狙いをつけていた硝子が鏡のようにとある人物を映し出していることにゲーシェグは気が付いた。

「ゲーシェグちゃん、ちょっといい?」

 結い上げたふわふわの白っぽい長髪に薔薇色の三白眼を持つその男は、ラングル邸の第二の主とも言えるフィエロ・ラングルだ。王都に所用があると早朝から出掛けていたのでてっきり宿もあちらで取るものかと思っていたが、どうやらとんぼ帰りしてきたらしい。ただでさえ白い肌は疲労のためにやや血の気が失せているし、全体的に少し埃っぽい。自分の浅黒い肌を見慣れているゲーシェグには、彼がいまにも寝込んでしまいそうな重病人に見えて、ほんの少しだけ足元が落ち着かなくなる。だが、それだけだ。見た目ほどに彼が軟弱でないことは知っている。ゲーシェグはそれとない観察の眼を閉じ、褐色の額に滲んだ汗を指で弾いてからフィエロの赤い目を覗いた。

「手短に済ませていただけるのでしたら」
「相変わらず率直だよね」

 見上げる顔にほんのりとした呆れが滲む。ゲーシェグが口を出すことでもないが、その一言だけで使用人の無礼を不問にするフィエロは相当に甘い。皿を割ろうが、窓を破ろうが、雇い主にエルボーを叩き込もう(一応、正当な防衛行為であるとだけ言っておく。)が、ついぞ誰にも張られることのなかった頬を、なんとなく自分の薄い手のひらで柔らかにはたく。いまの自分がかつての仕打ちを受けたなら、いったいどれほどの苦痛を覚えるだろうか。
 ゲーシェグの挙動に疑問はあれどさして追及すべきことでもないと判断したらしく、フィエロは薄い唇を一度きゅっと引き結んでから彼女を呼び止めた仔細を語り出した。妙に気負った様子でいるので何かとんでもない大仕事を押し付けられるのかと思えばそんなことはなく、生の肉を仕入れたのでそれを今日の夕食に出してほしいという、彼の実兄である雇い主の日々の暴挙を思えば随分可愛らしいものだった。ゲーシェグは、彼の珍しい頼みごとを断る気はほとんどなかった。

「仕事を増やすことになって申し訳ないんだけど……。最悪、表面に火が通ってればどうとでもしておいてくれていいから」
「はあ、別に品数が増えるくらい構いませんが」
「ありがとう、助かるよ」

 使用人相手に萎縮していたフィエロは、ゲーシェグがさらりと面倒を引き受けたのを見てようやく花が綻ぶような笑顔を見せた。そこでゲーシェグは彼が突然こんなことを言い出した真意を悟ったのである。

(なるほど)

 災禍の月、下旬。年末の忙しいこの時期に行われる慣習とも言うべき祭がユマニル王国にはあった。本来の慣わしを思えばほとんど独り身の人間しかいないラングル家には無縁の催し事のはずだが、現代においてはやや形を変えているようで、この家では重要な行事のひとつと化していた。それはいま異国の地に身を置く彼にとっても同じことだろう。何もこんな不吉な月にわざわざこんな行事を捩じ込まなくとも、とゲーシェグは思うが、そんなことを考えているのがバレたらユマニル国民から袋叩きにされるのかもしれないので、口をつぐむ。余所者のゲーシェグには計り知れない深い由来があるのだろう、きっと。
 ひとまず不要品の群れを捨て置くことに決めたゲーシェグは、エプロンのリボンをぎゅっと締め直した。先に食事の準備に取りかかったほうが良いだろう。出立前に聞いていた話では、いつもならどんなに急いだってあと半日は軽くかかる行程のはずだが、今日の夕食の前には帰ってくるに違いない。彼と血を分けた弟もそう思ったからこそ、ゲーシェグにこんな頼みごとをしたのだ。

「ちなみに、その生肉の仕入れ先はどちらなのですか」

 ボンネットに丁寧に髪の毛を入れ直しながら、ゲーシェグは訊ねた。いつも干し肉を仕入れる店なら気の良い店主が雇い主好みの香辛料まで添えてくれているかもしれない。そうするとわざわざいまから足りないスパイスを買い足す手間も省ける。ゆるゆると思考を巡らせながらしっかり身嗜みを整えた彼女は、わからない程度に眉をひそめた。

「……フィエロ様」

 いつもならテンポ良く返る答えが、いつまで経ってもない。不審を胸にゲーシェグは沈黙するフィエロをちらりと見た。気まずそうに逸らされた視線が、彼女の面倒を察知する嗅覚をびんびんに刺激している。

「……も、森」
「…………」

 それは仕留めたと言うのだ。



 階下の喧騒を余所に、ゲーシェグは重怠い肩や節々をほぐしていた。
 異国の慣習なれど幾度目かにもなる恒例行事の時期を把握していなかったことも、ゲーシェグには理解し難い場面で発揮される重い家族愛への理解が及んでいなかったことも、素直に己に非があったと認めよう。――だが、それにしたってはしゃぎすぎである。庭に山と積まれた獣を見たとき、ゲーシェグはフィエロの横っ面をしこたまぶん殴ってやろうかと思ったが、ぐっと堪えて鳩尾に掌底を叩き込む程度におさめた。
 蹲るフィエロに踵を返してからの彼女の行動は早かった。そもそも狩猟はユマニル族よりもメンジェゴ族の専売特許だ。かろうじて血抜きだけはしてあった(そもそもそれすらされていなかったら今度こそゲーシェグは彼に何をしていたかわからない。)獣の群れの皮をずばずばと剥ぎ、まだ新鮮な肝を抜き、肉を部位ごとに切り分けた。血の滴るような肝と脂身の多い腹の肉はゲーシェグの主人の大好物だったから、とりわけ注意深く作業を行った。その間にフィエロには香辛料を買いに走らせ、どうにか下拵えをして肝以外の肉全てに軽く火を通す頃にはすっかり日が暮れて、ラングルきょうだいお待ちかねの第一子でありゲーシェグの雇い主たるソリュードロ・ラングルが帰還した。
 彼が戻るなり、ラングル邸は太陽が数年ぶりに昇ったように沸き立った。ゲーシェグはそんな騒ぎを尻目に、自分用に取り分けてしっかり火を通した肉の一皿を手に私室に引っ込んだのだ。
 灯りはいらない。ゲーシェグは夜目がきくから、窓から射し込む町の灯りだけでも十分に部屋中が見渡せた。誰もいない、一使用人に与えるには過ぎる広々とした部屋である。これでもこの邸内では狭いほうらしい。そもそも階上の部屋を使用人に与えるというのも、彼女の感性においては理解に苦しむありさまであると言える。ラングル家は型破りだ。くれるというものを拒むほどゲーシェグは殊勝ではないが。
 誰が見ているわけでもないので、ベッドにどっさりと寝転んだ。ここでまとめておいた不要品をそのままほったらかしにしていたことを思い出したが、勤勉と物臭の戦いなど勝敗は知れている。起き上がる気持ちなど微塵も沸き起こらず、横になったまま肉をぶちぶち噛み千切って咀嚼する。ゲーシェグはもっと熟成した肉のほうが好きだが、ソリュードロは狩りたて新鮮で表面だけ炙ったような、ほとんど生の肉を好んだ。フィエロがわざわざ仕事終わりの疲れた身体で狩りをしたのは、数週間ぶりに帰る兄の好物を用意したかったからだろう。それは勝手なことだが、その好意に巻き込まれるゲーシェグの苦労も考えてほしいものだ。勿論、良きメイドであるゲーシェグは不満を口にするような真似はせず、全ての作業が終わった後で慎ましく万感の怨み辛みを込めてフィエロの足の小指を踏みつけた。ざまあみやがれってんだ、ばーろー、ちきしょうめ。
 強かに振り下ろした健脚を称えつつ、肉をもうひと噛み。何をしても遠ざからないざわめきと部屋のぼんやりとした闇は、彼女の胸の内に空虚を呼び覚ました。
 いくら常識外れに振る舞おうとも、ゲーシェグには植え付けられた分別がある。その分別が息をしている限り、彼女の仕える人々がどんなに優しく椅子を引いて手招いたとしても、ゲーシェグは彼らと祝宴の席を共にすることはない。
 それは多分意地だった。自尊だった。いっそ捨て去ったほうが、よほど己を高めてくれるに違いないのに――――

「シグちゃん寝てんの?」
「ノックくらいしたらどうですか、このうんこたれが」
「前から思ってるけどお前遠慮すべきとこ間違ってるよ」

 感傷は一瞬で掻き消えた。職業柄、足音を消して移動するのが癖になっているソリュードロは入室の際にドアを鳴らすデリカシーを持ち合わせていないので、本当に前触れなく部屋に立ち入ってくる。しかも屋敷の主と言えどこの部屋の主に了解も得ずに「暗くね?」などと言いつつ勝手に灯りを点す。ベッドに横たわったままのゲーシェグが送る普段以上に冷めた目付きはぱっと切り替わった明暗に慣れない目では見えないのか、それとも端から気にも留めていないのか――恐らく後者である。――、やはり気遣いの欠片もなくずかずかと近付いてくるソリュードロからは、いつもの土と獣のにおいとは他に甘い香りがする。さすがのゲーシェグも、これほどの至近距離で横になった無防備な身体を晒すのは憚られて上体を起こした。これが主人を迎える最良な態度でないことは明らかだろうが、ソリュードロは使用人の正しい姿勢についてあまり関心がないようだった。軽口への指摘もじゃれあいの範疇を逸脱しない。常日頃から上下関係だのなんだのには舌を突き出すような男だったが、今日は殊更機嫌が良さそうに振る舞っている。
 それもそのはずだろう。ユマニル王国では、災禍の月の下旬に愛を誓い合った者たち――最近では友人同士や家族間でも――が美しい花やチョコレートを主とした菓子を贈り合う慣習がある。これこそがラングル家の誰もが心待ちにしていたユマニルの祭日のひとつである。ソリュードロもそれに倣って久々に会う愛する家族たちから手厚い持て成しを受け、または施したに違いない。使用人の不適切な振る舞い程度、いまの彼には余計に取るに足らない些事なのだ。
 いったいそんなおめでたい日に、たかだか使用人になんの用なのかと目を眇める彼女に気を払えるような男なら、いまこの場にいない。へらへらとしながらソリュードロは手にした小包を緩く掲げて見せた。何かと問う前に、それはゲーシェグの手の中に落ちてくる。

「どうせ誰からも何ももらってないんでしょ? これ余ったからやるよ」
「お前本当に腹立たしいな」
「え? いまタメ口だった?」
「気のせいでは」

 彼についた甘い香りは家族からの贈り物責めによるものかと思ったが、最大の要因はいま投げて寄越されたチョコレート菓子だったようだ。雑ではないが簡素なラッピングの奥に、形の良いチョコレートクッキーが透けている。余り物だと言っていたくらいだから、手作りだろう。推測するまでもない。この男が家族に関わることで手を尽くさないはずがないのだから。
 ソリュードロをよく知らない者からすると驚嘆に値する事実のようだが、彼はがさつな風貌と人間性とは裏腹に手先は器用で、家事の腕前も中々どうしてこなれているのだ。気まぐれに掃除やら炊事やらに手を出そうとするソリュードロの腹を殴って膝を蹴飛ばしていたものの、ある日とうとう及ばずに彼を台所にまで辿り着かせてしまったゲーシェグは、その手捌きを青灰の双眸でしっかり確認している。不得手でないなら最初からそう言えば存分にこき使ってやったものを。言われていたとしても信じなかったであろう自分のことは当然のように棚に上げていた。
 ココア生地に混ぜ込まれたつやつやとしたチョコレートチップを眺めていたゲーシェグはおもむろに顔を上げて言った。

「渡すべき相手をお間違えではないかと」

 見上げた呆れ顔とよく似た顔をつい数刻前にも見た気がする。

「お前、ほんと可愛くないね〜。渡そうと思ってた奴にはもうだいたいあげてんの。シグちゃんで最後」
「随分調子が良いですね」

 さっきは余り物と言ったくせに、今度は元からゲーシェグのために用意していたとでもいうような口振りだ。――事実、そうなのだろうけど。吐き捨てるような(と言っても、彼女の言葉はいつも不遜な響きでいる。)語調で返したゲーシェグに、ソリュードロは片方の眉をくっと持ち上げた。

「いらねーの?」

 己の好意が無下にされることなど思ってもみない、いっそ幼ささえ感じさせる顔だ。彼の、自分が愛される存在であることをしっかり自覚しているようなところが、ゲーシェグは恐ろしいというか、本質的に相容れないと思う。これは最早好悪を超越した見解だ。ゲーシェグは黙って小包をベッドボードに置いた。ソリュードロはというと、そのことに満足げな様子さえ見せない。受け取られる以外の想定が彼の中になかった事実を彼女は改めて感じ取った。
 振り回されるのは慣れない。錯覚の頭痛を振り切るために緩やかに首を横に振ってから金色の瞳を真っ直ぐに射抜く。いまこそ散々はぐらかされ続けてきた答えを得られる時が来たのだという確信を持って。

「……こんなものをいただけるということは、とうとう受け入れる気になってくださったと解釈してよろしいんですね」
「なんで? ヤだよ」

 衝動のままにクッキーを粉砕しなかった自分を褒めてやりたいとこんなにも切に思ったのは生まれて初めての経験だ。代わりにゲーシェグは固く握った拳をソリュードロの鳩尾に叩き込んだ。崩れ落ち方が弟とよく似ているところに血の繋がりを見る。けれども、戯れだ。この兄弟が本当なら立場を弁えない使用人の暴力を受けずにいる術がいくらでもあったことを、彼女はわかっている。
 だが、それでも彼がこの身を拒む理由だけはわからない。

「何故あなたがそうまで頑ななのかが理解できません。本来付随すべき義務も、私は求めていない。あなたには利益しかないはずです。戦士であるあなたにとって、力はあるだけあって困らないものでしょうに」
「俺ら以外の前で神仕のことそう呼ばないほうがいーよ。たまに面倒なときあるからさぁ」
「御母堂様とお揃いになれますよ」
「それ言われるとちょっと心惹かれちゃうよなあ」

 案の定けろりとして身体を起こしたソリュードロはあからさまに話題を変えたが、わざわざそれを指摘して流れに乗ってやるほど甘い女であるつもりはない。強引に話を続けたゲーシェグにソリュードロは笑って、今度こそ断言した。

「でも、俺、それいらないや」

 額の角隠しに無意識にやっていた手が力なく落ちる。見上げる世界も仕方なさそうに笑う憎たらしい男の顔も、どれもがどことなく歪んで見える。ソリュードロは弟や妹を慰めるのとよく似た手つきでゲーシェグの髪を梳いた。青灰に白肌が埋もれる。ひと房ひと房を確かめるような丁寧な愛撫はかえって彼女の心を逆撫でているのに、思いのままに引き剥がすことがどうしてもできない。

「ところでさあ、」

 俯きながら撫でられる彼女の大きく尖った耳に、思い出したような呟きが落ちる。

「俺になんか渡すもんあるんじゃないの?」
「…………」

 あまりのデリカシーのなさに絶句した。


――――
災越さいえつの日】
 一年(四月)の内、最も不吉とされる災禍の月を乗り越えて、恋人たちの愛がさらに深まることを願って生まれたリア充イベントというこじつけ。
 バレンタインデーに便乗したかっただけなので本編でこの設定が採用されるかはわからない。


18/02/14?


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