不透の裡



 たまの休みだっていうのに今日はなんとなく、朝から気が立っていた。良い具合に息抜きをさせてくれるフィエロは昨日から義腕の調整にかかりっきりで顔さえ見れなかったし、せめてかわいい弟妹たちと戯れられれば妙な気も収まるだろうと思ったのに末の三つ子でさえ尖った気配でいる俺を警戒して寄り付いてこず、今日触れられたのは時計の針が頂点に近付くと電源を切ったみたいにぶっ倒れるメモワルノだけだ。
 控えめに言ってもお兄ちゃん失格である。いかんいかん、お兄ちゃんはいついかなるときでも弟妹をどろどろに愛し、でろでろに慈しまなければお兄ちゃんではない。これは世界の常識だし俺は正気だ。
 明日からは気分を切り替えていかなければ南方の二番隊を預かる身としても示しがつかないなんて、らしくもなく気合いを入れたところだったのに、ここで彼女が俺に寄ってくるとは思わなかった。

「ソリュードロ様」

 強制したわけでもないのに俺をそう呼ばわる彼女が言葉ほどには尊敬だとか畏敬だとか何か敬うような気持ちをちっとも持っていないというのは自他ともに認めるところで、ならばあの小さな胸の内、いったいどんな心を秘めて俺へ頭を下げているのだと首を捻れば、それは彼女以外誰も知る由のないところである。

「……なに、シグちゃん」

 メモワルノの部屋から出た俺を真っ先に迎えたのは美しい一礼を披露する我が家の使用人、ゲーシェグだ。梟さえ寝息を立てるような深夜に至ってまで、彼女の青灰の髪や衣服、そしてその所作には一寸の乱れも見られない。初めて言葉を交わしたときから彼女は完璧な使用人の顔をしていて、今でもそれはほとんど変わらない。初めて会ったときにまで遡れば、そりゃあ酷いもんだったけれども。

 かつて、彼女とは白地はくちで出会った。国領の外、草木も大地も、空さえ白く染め上げられた不毛の大地に倒れ伏す痩身そうしんは、遠目からは生気の一片も読み取れなかった。それでいてわざわざ近付いて拾い上げたのは一種の慈善活動に近い。どこの生まれで育ちかもわからないが、どうせ土にうずもれるなら荷物の余裕もあることだし、片手間に連れて帰って花の一本でも手向けてやろうと珍しく慈悲を差し向けたのがきっかけだ。そうやって抱き上げてみたら薄い胸が僅かに上下しているのに気付いてしまったものだから、慌てて帰路についたのを昨日のことのように思い出せる。
 言葉を選ばずに言えば、彼女は病気の犬ころみたいにぼろぼろだった。肌はがさがさに荒れてひび割れてさえいたし、あばら骨の浮いた身体では雌雄の区別さえつかず、俺が彼女を"少女"とようやく知ったのは、清拭せいしきのために弱々しい抵抗を繰り返す彼女から下腹部を包む下着を剥ぎ取ったときだ。予想だにしない女の秘部を前に一瞬逡巡しゅんじゅんしたが、今さら人を呼んだりして恥の上塗りをするのも哀れだろうとそのまま清めてやったら、しばらく近付くだけで仔を産んだばかりの母犬よりも警戒してしまって仕方がなかった。数週間面倒を見た後で体力が戻ってきて、自分で身を清めるようにと布巾と湯の入った桶を手渡すだけに留めてからは幾分か落ち着いたようだったが。
 浮浪者もかくやとばかりだった彼女は、今でこそ艶のあるその髪すら小汚かった。灰褐色をしていると思っていた髪が砂や傷みで白茶けていただけで、本当は深みのある青灰の髪をしていたのだと知ったときは本当にぞっとしたし、本人を前にして「ばっちいね、お前」とまで言ってしまった。当の本人は小さな鼻をつんと逸らすだけで何も言わなかったが、これは彼女を女の子と知った後での発言だったので、我ながら「これはなかったな」と今でも反省している点のひとつでもある。
 ―と、まあ、そんな具合で最底辺に汚かった彼女だからこそ、まともな飯と寝床を与え続けるだけできっちり躾けられた名犬に様変わりしてみせたのには大層驚いた。両の手のひらと額、それから両膝を床にべったりつけて「大変お世話になりました。心より御礼申し上げます」なんて流暢に言われるまで、今まで何を言っても何をしても唸るか無視をするだけだった彼女を、俺は口もきけないものだとばかり思っていたのだから、なおさら。
 驚かされはしたものの、良い拾いものをしたとは思う。今にして推測すればどこぞで仕込まれてから放り出されたか逃げ出したかしたんだろう。人らしく扱い職務に見合った給金を出すだけで、ゲーシェグは下手な小間使いよりもよっぽど気がきいた。任せた仕事はきちんとこなすし、俺を試すように使用人というにはちょっとあり得ないくらい砕けた口を徐々にきくようになったところも、わざわざ口に出して言いはしないが気に入っている。
 ただ彼女のほうが俺をどう思っているかを、俺は知らない。多分、これからも知ることはない。

「お茶でよろしいですか。それとも、お酒でもお出ししましょうか」

 俺の逆立った気を宥める気があるのかどうかは知らないが、少なくとも主人が今すぐにでも就寝の準備を調えたいわけではないようだと読み取ったらしい彼女は、淀みなく俺に問う。好き好んで茶なり酒なりをしばく趣味があるわけではないが、いざ訊ねられるとなんとなくその気になってくる。

「飲む。シグちゃん、つまみ作ってよ」
「今からかよ、めんどくせ〜な〜」
「お前、ほんと面白いな」

 淡い微笑みが美しく刻まれた唇から暴言染みた言葉が飛び出すのは、もう慣れっこだ。さっと背を向けた彼女が言葉とは裏腹につまみと酒を用意するべく厨房へ向かおうとしていることもわかる。
 ただ自分から言い出したくせ、なんだか意地悪がしたくなった。
 長いスカートの裾を翻して楚々と歩く彼女の腕を捕まえて引き寄せる。するとゲーシェグはいつものポーカーフェイスをやや崩して俺を見上げた。深い青灰の瞳が真意をはかろうとじいっと俺を見ている。

「やっぱ俺が作るから、晩酌に付き合ってよ」
「は? 嫌ですけど」
「ひとり酒の気分じゃなかったんだよ〜。聞き分けのいいメイドさんがいると助かっちゃうな〜」
「嫌ですけど」
「肉系でいい? ビーフジャーキー残ってたよな」
「嫌ですけど」
「そういやかぼちゃってもう使いきった? 残ってたら食っていい? だいぶ日、経ってるもんな」
「嫌ですけど」

 全力で嫌がられると全力を尽くしてもっと嫌がられたくなる。今日はそういう気分だった。
 キッチンテーブルに添えられたチェアにゲーシェグをふん縛って座らせて、背後でぎったんばったんいう音を聴きながら適当につまみをつくる。水にさらしたかぼちゃの千切りと刻んだビーフジャーキーをお手製のドレッシングもどきで和えただけの簡単なものだが、こういうものは最悪腹に入りさえすればいい。味見として不満げに引き結ばれた彼女の口にひとくち突っ込んでみたが、吐き出されはしなかったので食えない味ではないのだろう。
 ふたりぶんのグラスと食器を用意し終える頃にはゲーシェグはもうすっかり諦めきっていて、いつもの微笑みを浮かべながらいつも以上に温度のない瞳で俺を見つめるのみだった。もう縄をほどいても逃げ出そうとする素振りも見えない。仮にも雇用主に酌をされるのだから、もっとありがたがればいいのに。
 テーブルで向かい合って彼女のまろい頬をぼんやり眺めていると、普段はさして気にならない疑問がぽっと浮かんでくる。

「そういやシグちゃんって何歳だっけ」
「さあ、考えたこともありませんが……。なぜですか」
「ユマニルは未成年の飲酒が禁止されてんだよね。でもあっちは酒とか飲み始めるの早いらしいし、いっか」
「思い出しました、今年で五歳になります。ですのでお酒はちょっと」
「嘘つけ」

 今まで生活を共にしてきて一緒に食卓についたことはないが、ゲーシェグが酒を嗜むことぐらいは知っている。彼女がその日の夕食とワインやらを手に自室に引っ込むのを目にしたのは数度じゃ収まらない。それに出会った頃から姿の変わらないメンジェゴ族のゲーシェグは見た目通りの年齢ではないはずだ。ただ単純に、今この場で俺に付き合わされるのが嫌なだけだろう。
 しかし何度でも言うが、今日は嫌がられるほどかえって酷くしたい。

「かんぱぁい」
「……」

 お互いの前にあるグラスに酒を注いでから自分のグラスを軽く掲げる。渋々俺にならって同じく掲げたゲーシェグは、意趣返しのつもりかやや強くグラスを押し当ててきた。思わず酒で濡れた手に舌を這わせると、深いため息が聞こえた。

「テーブルを啜るのだけはやめてくださいね」
「そこまではしねーよ」

 席を立って布巾でテーブルを拭う彼女の瞳は俺への不信を雄弁に語っていたが、無視してかぼちゃをつまむ。適当に味付けをしたわりには中々いい味だ。

「でも、やっぱシグちゃんの飯のがいーや」
「手間がかかりませんものね」

 背中を向けて布巾を片付けるゲーシェグは淡々とつれないことを言う。先の尖った大きな耳に生える、髪と同じ色の毛をなんとはなしに眺めながら、酒を飲み下した。

「ひねくれんなよ。シグちゃんの飯のが美味いって言ってんじゃん」
「……それはどうも」

 にわかに振り向いた彼女の表情がよく見えない。
 ゲーシェグは俺が何を思って晩酌に自分を付き合わせているのかと思っているかもしれないが、俺だって何を思って彼女が俺に付き合ってくれているのかがわからない。
 ただ別にそれでよかった。さほど興味もないし、必要もなかった。ゲーシェグも、お互いになんでもかんでも明け透けになる関係を望んでいるわけではないと思う。

「シグちゃんて、変わってるよな」
「あなたがそれを言いますか、ソリュードロ様」

 ゲーシェグは俺を「ソリュードロ様」と呼びながら俺を敬わないことを誰もが知っている。その一方で彼女が何を思って俺に頭を下げているのか、誰も知りはしない。
 だが、俺でさえ別段今まで不都合もなかったことなので敢えて暴こうとも思わない場所へ、いったい誰が躍起になって手を伸ばすだろう。そういうわけで彼女は、彼女しか知り得ない心を抱いて今日も息をしている。


―――
21/04/10
フォロワーさんが「今日は主従の日」って言ってたから書いた。


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