空はなお青く唐揚げは美味しい!



 空は、ひとっ跳びに飛び込んでいけそうなほどに青い。指の隙間から目を細めて覗く一面の青の中には、白熱した太陽ソルフラマが眩しく輝いている。
 今日のような日を秋晴れ≠ニ呼んでいいのかも、最早私にはわからなかった。
 年中を通して比較的温暖な気候が続くゾーリャ地方にも、冬と呼べる季節ぐらいは当然訪れる。西から昇って地上に肉薄するようにじりじり天をにじりゆく太陽ソルフラマは、なにもかげり知らずの恵みというわけじゃない。
 ところが、今日はその認識がよもや間違っていたのじゃないかと思うほど暑かった。夏の影もすっかり遠ざかって、益々寒くなっていくかと思われたこの頃なのに。たったひとりきり千切れた夏の残滓が後から慌てて追いかけてきたみたいな、鬱陶しいぐらいの陽気だった。
 早朝の寒気かんきをすっかり信じ込んで長袖を着込んできたせいで、家を出てからというもの燦々照る陽射しに晒されてきた身体はちょっとくらっとするくらいに火照っている。不快に温もった息を吐ききって、袖をふたつみっつと折り返す。それでもまだ少し暑い。汗ばんだ額が煩わしい。
 でも、目的地まではあと少しだった。
 寄り道ひとつせず、革靴にくるまれた爪先でテラコッタタイルの道を真っ直ぐ叩き続ける。そうすれば陽光を遮るものがひとつとしてない碧空に、経年劣化で色褪せてまだらに朱色を帯びた赤色がくっきりと浮き立っているのが見えてくる。
 鮮やかな色味をしたそれは、ぽってりとした鱗型の瓦が列を成して形作る屋根だ。遠目にはまるで薄切りの苺を並べ立てたようにも見える。
 その愛らしい屋根を笠にした外壁は、折り目正しく積み重なる煉瓦でできていた。角の丸くなった煉瓦が、ホイップをたっぷりあしらって段々に重ねたケーキのごとくにクリーム色の目地で継ぎ合わせられているのだ。
 こうなると、赤煉瓦のスポンジの中へ埋め込まれた鉛桟なまりさんのステンドグラスの窓までもがなんだか甘そうに見えてくる。目にも鮮やかなクリアカラーに色づいたグラスは、さながら硝子瓶いっぱいに詰められた色とりどりの飴玉だろう。重厚感を放ちながらも煌々きらきらしく繊細に透き通る美しさを湛えていて、愛らしいばかりの印象をどこか爽やかにきりりと引き締める。
 童話の小人が住むお菓子の家のような佇まいをしたこの建物は、雑貨屋だ。これこそが私が目指していた場所だった。
 雑貨屋の全貌をようやく捉えた目が、穏やかな日陰を求める心を一層逸らせる。爪先とタイルで「たつっ、たつっ」と鳴らすリズムが徐々に狂い出す。
 私は鼻頭に浮かんだ汗を指で弾いて心を落ち着かせようと試みた。効果があったような気は、あんまりしない。
 結局気が急いたままで、両開きの扉に手をかけた。大きな一枚の硝子を嵌め込んだ扉は相応に重い。薄く汗ばんだ腕に少し力を込めて押し開ける。
 すると、偏屈な老人店主のぶすくれた顔が私を出迎えた。ごちゃごちゃと乱雑に並ぶ商品に囲まれながら沈痛に俯き座っていた老人は、ドアの羽撃はばたきで揺れた空気に顔を僅か上向けて私の顔に視線を掠めさせた。
 いつもこうだった。この歓迎されない場所へ迷い込んでしまったような一瞬の気まずさで、私はいつも空恐ろしいような気持ちにさせられる。
 ただの店主と客というだけの関係性でしかない私たちがいつまでも顔を突き合わせていたところで、空気は一向に和まない。
 さっさと用事を済ませるが吉だ。
 私は老人に向かって軽く会釈をして、このごちゃついた店の中でも比較的整頓された陳列棚のほうへそそくさと逃げた。
 赤煉瓦の壁を全て覆い隠してずらりとそびえ立つダークウッドの陳列棚には、雑貨屋という名が示す通りに多種多様の品物が見られる。地元で採れた野菜をはじめとした、ちょっとした食料品、調理器具に食器、装飾品や細々とした置物、エトセトラ、エトセトラ……。
 私が買い求めるのは専ら調味料や乾物といったものに限られるが、それでもこれだけ色んなものが雑多に並んでいるといっそ壮観ですらあって、ついつい左見とみ右見こうみに目移りしてしまう。
 そんな中で私の目を強烈に射止めたのは、物珍しい外国の置物でも安売りされている調味料でもなく、なにも置かれていない空っぽの棚だった。

 ―今日空なのか。

「あの、」

 思うのと同時だった。
 ほとんど反射的に声を上げてしまってから、一抹の後悔が胸を過った。
 老人と私は、もちろん特別親しいわけではない。私は人見知りをする性質たちだったし、老人は見た目通りの取っつきにくさだったから、これまでに店を訪れることはあっても好き好んで彼との雑談に興じようなんて気は微塵も起こらなかった。当然、私たちの関係性は厚い薄いどころの話ではなく、築かれてさえいない。
 だけど今日この日、そういった心理的な垣根を一瞬全て忘れてまで声を上げてしまったのは、あるひとつのことが気にかかったからだった。
 探るような気配と視線を感じる。今さら口を塞ごうにも、こんなに静かな店内では私の呼びかけの声は明らかに聞こえてしまっていただろう。
 一度言いかけたなら、もう全部言い切ってしまったほうがいい。
 意を決して老人のほうを見る。老人も、私を見ている。私は観念して、目の前の棚を示して彼に訊ねた。

「……ここにあったレース、もう置かなくなってしまったのですね」

 私の言葉に、老人は固く組み合わせた指をぴくりと震わせた。
 私が指差す陳列棚の上。そこにはかつて、ゾーリャ綿で編まれた上質なレースが美しく並べられていた・・。客の手許に旅立って数を減らしても月を跨げば元通り、陳列棚の上で絶えず賑わいを見せていたレースたちは、しかしながらいつからか減るばかりになった。
 ―そうしてただの一枚もなくなってしまってから、もう随分になる。
 このレースの作り手を私は何度か見かけたことがあったし、レース自体を手にしたのも一度や二度のことじゃない。だからか、余計に気懸りだった。
 その人はいつだって丹精込めて拵えたのだろうレースを詰めたバスケットと、手製の料理がひと皿入った手提げを手にしていた。その出で立ちで以て、無愛想一辺倒の老人に親しげに声をかけていた。それが、私の記憶に残る彼女の姿の全てだった。
 いかにも清廉そうだった。蜂蜜のような、聴き心地のよく甘やかな声をしていた。柔和な声色と振舞いからは彼女の善良でたおやかな人柄が透けていた。
 特に目を惹いて容貌が優れていたわけでもないのに、にこにこと笑う横顔がやけに目映く見えるのが印象的な女性だった。

「品卸しされていた方は、どちらかへ行かれたのですか?」

 老人は黙ったままでゆっくりと目を瞬いた。水底でじっと動かずにいる岩のように、ひんやりと寂しげな空気が彼の満身を覆っている。
 気になったとは言ってもなんの気もなしに軽々しく投げつけた言葉だった。誓って意地の悪い意図はなかったが、興味本位の野次馬根性に近い。それがこうも深刻な反応を返されると妙な焦燥感が募った。
 もしや、訊いてはならないことだっただろうか。
 私の危惧を余所に、老人はおもむろに口を開く。

―アルディナ地方から移ってきた若い夫婦がおってな。旦那は傭兵だか兵士だかをしとって、嫁のほうは町で旦那の帰りを待っとった」
―は、あ」

 気構えのないところへ答えが返ってきたから、つい気のない相槌を返してしまう。自分から問い詰めた手前、「しまった」と思ったが、老人は特に気にした様子もなく続けてくれた。

「ここに置いてたレースは、その嫁っこが拵えたんだよ。旦那の留守の間に手編みしちゃあ、うちに卸してもらっとったんだ」

 老人の、加齢に垂れ下がった目蓋で圧されて小さくなった目。それが陳列棚のほうをちらりと見たのがかろうじてわかった。
 老人の重々しく冷えた眼差しの先、木目を晒して立ち尽くす埃ひとつない棚は、今にも自らを着飾るレースの群れがやってくるのを待ち望みにしているように見える。

「それが、旦那が外から帰ってきたかと思えば、今度は夫婦揃ってどこぞへと行っちまった。
 ―それっきりだ。それっきり、もうふたりとも顔を見てない」
「その……どこへ行くだとか、そういう言伝もなかったのですか?」
―は、」

 老人は恨みがましいような目で私を見上げた。深い皺塗れの顔からは、遣りきれない感情を謂れなくもぶつけたがっているのを必死に堪えている様子が窺えた。

「馬鹿を言うもんじゃない。家族でもなんでもないじじいに、わざわざそんなことを伝えて旅行に行く奴がいったいどこにいる」

 少なくとも彼女と老人のやり取りを傍から見ていた私の目には、ふたりが年齢の差を超えた友人のように見えていた。彼自身、なんでもない≠ネんて思ってもみないから彼女を気にしているのだろうに。
 そうでなくとも、定期的に業務上の関わりのある間柄なのだ。ひとこともなしに行方を眩ますというのは、やはり考えられないことだった。
 老人は純粋に友人を憂える自らの心にわざわざ傷をつけるような物言いをしてから、きまりが悪そうに口をもごもごとさせた。

「……まあ、仲のいい夫婦だからな。大方、旦那が帰ってきたのにかこつけて旅行にでも出たんだろうさ」

 夫妻が姿を消した日とレースが置かれなくなってからを単純に結び付けてもよいなら、彼らがいなくなったのはもう一年が経つか経つまいかという頃にもなるはずだ。旅行にしてはあまりに長丁場が過ぎる。
 ―なにか善からぬことがあったのではないか。
 彼女と面識らしい面識もなかった私でさえそう思うのに、彼が夫妻を心配していないはずはない。老人の低く沈んだ声がなによりの証左だ。
 だが、老人は第三者たる私からのそれ以上の言及を拒むように首を緩く振った。私もこうなってはいたずらに突き詰めることも憚られて、口を噤む。妙に居場所がない。
 手持無沙汰な指先をただぶら下げているのも居心地が悪く、みっともなく擦り合わせた。それが私の感じる居た堪れなさを払拭してくれたのかといえば、そんなことはなかったのだけれども。

「また顔を見せるようになったら、お前さんのことは伝えておくさ。『お前のレースを待ってる客がいるぞ』とでもな」
「それは……どうもありがとうございます。ええと、……それでは、私はこれで」
「ああ。お世話様」

 互いにその気もないのに打ち返し続ける渇いて白々しい応酬に、私はとうとう堪えかねてしまった。素早く頭を下げてきびすを返す。そんな私に、雑貨屋の老人は客商売にあるまじき冷淡さでひとことぼそりと言うと、それきり疲れ果てたように顔を俯かせた。ただでさえ小さな身体が、とうとう消え入りそうに縮こまる。
 白髪が薄く渦を巻く旋毛つむじを横目に見ながらに、私は店を出た。買い足そうと思っていた調味料の類いを一切買わずに出てきてしまったことにはすぐに気付いたが、とても戻る気にはなれなかった。


 道に貼られた淡い色合いのテラコッタタイルを踏み締めて、もと来た道を辿るように帰る。
 俯き見るタイルは、数えきれないほどの人の足で踏まれてきたせいで全体に薄っすらとひびが入って割れ砕けていた。今にも剥がれそうなものさえある。
 日毎砕けていく道に気付いている人は、果たして私の他にいるのだろうか。四六時中下を向いて歩いていなければ、きっと気付きはしない。多くの人は自身の歩く足許にタイルが貼られていることなど、普段は気にも留めないに違いないのだ。

 老人は、元より生き生きとした人物というわけではなかった。それが今のようにより一層気落ちした様子になったのは、ちょうど一年前、ある事件で町中がぴりぴりしていた頃だったはずだ。
 あの事件―何人もの幼い少年たちが突如として立て続けに行方不明になった事件は、豊かで穏やかな町を一瞬にしてとんでもない混乱と恐怖に陥れた。子を持つ親はもちろん、子を持たない大人たちまでもが気を張り詰めさせていたし、当時町の自警団なんかはしょっちゅう見廻りに出ていたのを覚えている。
 しかし費やした人手や時間の甲斐もなく、無情に時は流れた。子供は見つからない。子供を害した犯人に繋がる情報も、欠片も上がらない。果てには『この町には人食いの化物がいて、夜な夜な子供の肉を食らっているのだ』なんて不届きな噂がまことしやかに流布し始めまでして、まさに上を下への大騒ぎといったふうだった。
 ただ、子を持たぬ独り身の上に知人らしい知人もいなかった私にとっては、ほとんど他人事でしかなかった。周囲はそれなりに騒がしくはあったけれども、私個人は普段とほとんど変わらぬ生活をのほほんと送っていた。
 だからこそ、事件が解決しないまでもなんとなく町が落ち着きを取り戻し始めた頃には、無責任な安堵を覚えたものだった。
 ただそれだけのことだった。日常に紛れ込んだ珍事という認識でしかなかったのだが―。

 今にして思えば、この事件はレース編みの女性がその夫と共に姿を消した時期とも合致していたようにも感じる。

―まさか、なあ」

 妙な考えが脳裏を過って、私はそれを即座に打ち消した。
 なにを馬鹿な。彼女は、そんなことをするような悪人には到底見えなかった。

 ―見えなかった、けれども。

 思い浮かべた白い横顔に、水面へ洋墨インクが落ちるように疑念が広がりゆく。
 どんなに美しい町にも人の悪意は息衝いている。誰かが誰かを陥れようと虎視眈々と目を光らせては、腹の内で常に算段を立てている。
 私はそのことをよく知っていた。
 だから。
 だから―。

 ―……いや、やめよう。

 私はもう一度後ろ暗い考えを振り払おうとした。
 確証もないくせ、無闇矢鱈と人を疑るのは浅ましい行いだ。それにこれは、一町人でしかない私がいくら浅知恵を巡らせたところでどうこうなるような小さな問題でもない。
 無限とも思えるほど連なるタイル、そのかびの生えた目地に努めて次々目を留めながらに帰路を突き進む。
 だが、考えないようにしようと思えば思うほど、あの女性の横顔や老人店主の哀れっぽい小さな肩が私の思考に滑り込んで頭の中をめちゃくちゃにする。

―アルディナ地方から移ってきた若い夫婦がおってな」

 耳朶じだの産毛がさあっと総毛立つ。記憶の再生に過ぎない老人のそのひとことがあまりに近くから囁かれているように錯覚して、私は慌てて顔を上げた。
 辺りを見回す。当然、老人はいない。どころか、私以外の人がそもそもいない。
 だが、ぐるりと巡らせた首の先でとある空き家の存在を認めた私は、ますます身を強張らせてしまった。
 雑貨屋の老人の言通りに、旦那さんは昼夜を問わず町の外で忙しくしているようだったからあまり見かけたことはなかったが、奥さんのほうはというと、実はあの雑貨屋以外でも時折姿を見ることがあった。彼女の家が、ちょうど私の家と雑貨屋とを結ぶ行路にあったためだ。
 その彼女の家、帰らぬ主人を待つがらんどうの家屋が、今、私を見返している。
 いつの間にこんなところまで歩いてきていたのだろう。奇妙に跳ねたままに速すぎる鼓動を刻む心臓を宥めるため、胸に手を当てる。
 あまり人の家をじろじろと見るのは行儀のいいことじゃないとわかっていて、私は脚を震わせながらその古民家に向き合った。
 家人の不在をわかっている安心感もあって、不躾に眺め回す。
 奥さんは身体があまり丈夫ではなかったのか、長時間の立ち仕事ができない体質だったらしい。大きな木の植わる小さな庭は、普段から隅々まできちんと手入れが行き届いているとは到底言えなかった。

 ―それでも、こんなに近寄りがたい雰囲気は醸していなかったのに。

 この家にも庭にも、もっと生活感があった。家の主人の人柄が滲むような温かみがあった。
 それが、人の気配がないというただそれだけのことで、こうも様変わりするものか。
 家の中は暗い。
 明かりのひとつもない。
 外はこんなに明るくて汗ばむほどの陽気なのに、空き家はただそこだけ隔絶されてしまったかのように冷え冷えとして見える。
 もうこの家に人はいない。そうとわかっていても、レースカーテンの向こうから今にも誰かが顔を覗かせそうな予感がする。
 背筋の薄ら寒くなるような感覚を覚えて、私は震えのおさまった足を我武者羅に動かして足早に立ち去った。


 暫く往けばアーチ形の扉を備えた、のっぺりと白い漆喰塗りに瓦屋根を被せた建物―私の住まいで、城とも呼ぶべき大事な食堂が見えてくる。
 扉にべたべたと貼られたビラを力任せに剥がしてから、私は店に入った。

―ただいま」

 無造作に吐き出した声が、なにも載っていないテーブルや空っぽの椅子に反響して孤独に返る。
 返事をしてくれる人が誰もいないのはわかっていたが、この声掛けは私にとっての習慣と化していたから、いつもつい口に出してしまう。

「……あーあ、なんのために出かけたんだか……」

 せっかく重い腰を上げて外へ出たというのに一切荷物を増やさずに帰ってきたのが馬鹿らしくて、私は小さく笑ってみせた。寒々しいまでの沈黙は破れたが、一緒になって笑ってくれる人さえ傍にいないのが殊更に強調されて、嫌になるだけだった。

「……ありもので、なにか作ろうかなあ」

 熱心に開店の準備をしたところで、どうせ誰も来ないとわかっている。食堂の稼ぎ時とも言える真昼間からのうのうと出歩いて余所の店を覗いていたのも、そのせいだ。
 だけども、なにかしていないと虚しさでどうにかなりそうだった。

 元々この店を土地ごと所有していたのは私の父方の大伯母さんだった。早くに両親を亡くした私は唯一の身寄りであった彼女に引き取られ、この店で手伝いをしながらに暮らしていた。
 優しく穏やかで、とびっきり料理が上手だった大伯母さん。
 もう何十年と長くこの町に暮らしていた彼女は実のところ余所の地方の出身であり、若い頃にここへひとり移り住んできてから店を開いたのだと聞く。古い友人を頼ってこの町へ来たのが始まりで、店を置く土地も、当の友人の厚意から格安で都合してもらったのだという。
 だが、そんな大叔母さんも数か月前に亡くなった。御年八十歳の大往生だった。
 夫も子供もなく、親戚という親戚もおらず、特に弟子の類いも置いていなかった彼女の店は、自然私が受け継ぐことになった。

 それからというもの、私は性質たちの悪い地上げ屋に土地の立ち退きを迫られている。

 手の内に握ったままだったビラを思い出して、紙面を見ることもなくびりびりに破った。そのまま屑籠に捨てる。
 どうせ書かれていることはいつもと同じような内容に決まっている。ふしだらで不潔で、なんの道理も通っていない文言に目を通す価値はない。これは、立ち退きを撥ねのけてから始まったくだらない嫌がらせのひとつだった。

 手を綺麗に洗って気持ちを切り替えてから、厨房に作りつけの大きな氷室≠開ける。
 大叔母さんが店を構えるにあたって特に拘って作ってもらったという氷室は、温かいゾーリャで食べものを新鮮なままに保つには必須のアイテムだ。定期的に整備をしてくれていた専門の人から氷室の仕組みについて、「これは魔術的見地に置いてどうたらこうたら」などという説明を受けた記憶があるが、そういう小難しいことは私にはよくわからない。
 とにかく重要なのはこの大きな箱の中はひんやりとしており、ここに食べものを入れておくと腐敗を遅らせることができるということだけだ。
 冷気の漏れ出す扉の奥を覗けば、そこにはぷりんぷりんの鶏肉が身を横たえており、私に美味しく調理されるのを待っている。
 さて、この立派な鶏肉をどうしてくれようかなんて考えながら、きんと冷えた肉を手に私は調理台へと向かう。
 ソテーにしても美味しいだろうし、煮込んでも揚げても絶品に仕上げられるレシピを私は大叔母さんから受け継いでいる。

「ううん……―よし、決めた」

 今日は、これで唐揚げを作ろう。
 悩んではみたものの、目の前にしていたのが鶏肉であったという時点で半ばポーズでしかなかった。ぴかぴかに鋭く磨き抜いた包丁を手に、私は肉に刃を当てた。

 店の手伝いばかりに執心していたから、私には仕事の知り合いはいても友達と呼べるような人はいない。両親を亡くしたみぎりより大叔母さんと彼女の作る料理だけが世界の全てだった私は、真実それだけで満たされていたから、人間関係というものに対して不真面目だったのだ。
 地上げ屋にとっては、それが大層都合がよかったに違いない。私はあっという間に孤立させられた。店を訪れる客は、もうほとんど誰もいなかった。

 肉についた血の塊や筋を手早く取り除く。粗方取り終えたら、今度はひと口大よりも少し大きめになるよう包丁を入れていく。このサイズ感が仕上がりをよりジューシーにするポイントなのだと、大叔母さんは私に教えてくれた。

 彼女の教えを思い出すたびに寂しさよりもいるべきはずの人がここにいない≠ニいう違和感のみを強く懐く私は、薄情なのだろうか。
 見渡せば、少しだけ古びているけれど清潔な食堂には今も大叔母さんの生活の痕跡があちこちに生々しくある。なにもかもに年季の入った店の中で、腰を悪くした彼女のために少しだけ低くあつらえた調理台だけがまだ少し真新しい。
 私には低すぎて使い勝手の悪いこの調理台が店に馴染んでくれる機会は、恐らくもう訪れないのだろう。

 下準備を整えた肉を、今度は調味液に漬け込んでいく。落とし蓋をするのが調味液を早く浸透させるコツだ。これも大叔母さんから教わった。

 私を大切にしてくれた大叔母さんが亡くなった今、自分の手許に遺されたものはなんだろうかと考えたとき、私は恐ろしいほど心細い気持ちになる。
 土地に店、数々のレシピ、効率のいい洗濯物の捌きかた、愛されたという記憶、それから……―それから?
 形のない思い出や、残り香のように過去の染みついた形あるものだけで生きていけると言い切れるほど、私は強い人間ではなかった。そのことに、大切な人がいなくなってからようやく初めて気がついた。
 私は今まで、人というものに対して本当に真剣味がなかった。誠実でなかった。
それは、もう取り返しがつかないほどに。
 これまで太く大きな一本の柱で支えられていた世界という名の皿がぐらぐらと傾いては、そのたびに私に遺されたものがひとつひとつ世界の外へと放り出されていっているようだった。今になって大きすぎる後悔があった。
 それでいて唯一大切に思っていたつもりだった人の死を悼みきることもできずに、遅すぎる悔恨なんかに苛まれている不出来な自分が本当に情けなくて仕方がなかった。

 調味液が滲み込むのを待ちながら、肉につける衣と揚げ油の準備をする。深底のフライパンになみなみ入った油の温度が徐々に高まるにつれ、底から泡が浮き立っては弾け消えていく。

 私が包丁を握っても、もう誰も注意を喚びかけてはくれない。油の温度を隣で一緒に見てくれる人なんて誰もいない。
 多分、これがひとりで生きていくということで、私はそのための心構えが全くなっていなかった。
 私が嫌がらせに堪えてまで店も土地も手放さずにいるのは、なにも大叔母さんが恋しいからでも、店を守らなければならないという使命感に囚われているからでもない。今ここで思い出まで投げ出して背を向けてしまえば、こんな空っぽの自分のままで生きていける自信がなかったからだ。

 ―人に話せば、同情されてしまうだろうか。

 衣を纏わせた鶏肉を小脇に、油の中に差し入れた菜箸から細かな泡が立ち上るのを眺めながら、つい苦い笑みが込み上げる。

「……そもそも、こんな話を聞かせる相手も私にはいないのにな」

 だからこうして独り言ばかりが増えていく。だけど、同時に「もしも」とも思った。
 もしも―、もしも私の心の声に耳を澄ませられる者がいたなら、こんな私をいったいどう思っただろう。
 哀れんでくれるだろうか。「可哀想に」と眉を顰めてくれるだろうか。それとも、「若い女が、なんて面白みなく彩もない生活なんだ」と、侮蔑的な眼差しを向けられてしまっただろうか。
 それなら、やっぱり私はひとりでよかったのかもしれない。
 いくら私が乾涸びて灰色の人生を無為に擂り潰していたところで、それを嘲る人もいなければ自分で自分を惨めと思うことすらない。
 ただ少し、退屈なだけだ。

 菜箸で摘み上げた鶏肉を油の中へ静かに落として、肉がからりと揚がるのを静かに待つ。黄白色の光の射し込む煌びやかに明るい店内に、私の呼吸と油の弾ける音だけが静かに響く。

 すると―かちゃり、と。

 不意に食堂の正面扉、その下のほうから小さなカウンタードアの揺れる音がした。
 自身の手許に狭く注がれていた意識が急激に広がる感覚がする。はっと顔を上げたまさにその瞬間に調理台をよじ登ってこちらを覗く黒い瞳と目が合って、私は思わず顔を綻ばせていた。

「ああ、いや―、そうか。君がいてくれたね」

 私の声に反応して、もふもふの毛並みを持つ彼の間抜けっぽい黒い瞳がきょろんと瞬く。きっと私の言うことなんてなにもわかっていないのだろうけど、それをなによりの慰めと感じる自分がいる。

「いらっしゃい、もふもふ・・・・ちゃん・・・。君は今日も元気そうだねえ」

 調理台の縁に齧りついて、立ち上る油の熱気を満身に浴びながらに料理の出来上がりを待つを、いったいなんと形容するべきなのだろう。
 彼は仔猫ほどの小さな身体にびっしりと黒く長い毛を生やした獣だ。頭には耳なのか角なのか、二本の突起物。背中側、そのしなやかな腰には二枚の翼と思しき部位を備えていて、まるんとしたお尻からは二本の尾がもっふりと伸びる。
 猫ではないし、犬でもない。狐でもなければ狸でもないだろう。多分、鳥とも違った。もちろん、なんらかの動物であること自体に間違いはないのだろうけれども、その特徴にぴたりと当てはまる生物を私は知らなかった。
 なんとも珍妙な生きもので、名前もわからない以上仕方がないので、私は彼を勝手にもふもふちゃん≠ニ呼んでいた。

「待っててね、もふもふちゃん。もう少ししたら揚がるから、そうしたらお皿にあけたげるからね」

 興奮でもしているのか、ふすふすと荒くなる鼻息に堪えきれず笑う。
 正直言って、これまでにこんなにもわけのわからない存在を見たことはない。だが、不思議と恐ろしいとか不気味だとかは全く思わなかった。

 彼が初めてこの店へ訪れたのは、大叔母さんが亡くなってから少しもしない頃だったと思う。呆然としながらもいつも通り開店の準備だけは進めていた私の耳に、ふとドアをかりかりと引っ掻く音が届いたのだ。
 料理のにおいに釣られて猫でもやってきたかと正面口を覗けば、そこに彼―もふもふちゃんはいた。店の前にちょこんと座り込んで、私を見上げていた。
 くりくりの愛らしい眼差しに屈して食べものをわけてやってからというもの、味を占めた彼は定期的に姿を現すようになった。今や、彼だけが私の作る料理を目当てに店へ訪れてくれる唯一のお客さんだ。私のほうも彼がいつ来てもいいようにと、正面扉の下部を刳り貫いて猫用のスライドドアを備え付けまでしてしまった。
 最初こそ、「どうぶつに人間の食べものを食べさせるのはよくないのではないか」と思わないでもなかった。だが、食べものをわけてやらなければわけてやらないで勝手に氷室を開けて未調理の食材に飛び込もうとするし、求められるがままにお腹がぱんぱんに膨らむまで食べさせてもどういうわけか帰っていく頃にはすっかり元通りのスリムなフォルムに戻っているしで、気にするだけ無駄だと思うことにした。
 食べものを出し惜しみすることで、この小さな友達が私のもとへ訪ねてきてくれなくなることを恐れたということもある。
 人ではないし、お金を払ってくれるわけでもないから儲けもないけれど、彼の息遣いは確かに私の孤独を生温かく埋めてくれていたのだ。今さら、彼とのささやかな交流を手放せようはずもなかった。

「そら、できたよ。おあがり」

 揚がったそばから、食べやすいよう半分に切ってやった唐揚げをもふもふちゃん専用に揃えたお皿にどんどん盛っていく。するともふもふちゃんは狂喜乱舞して、踊るように唐揚げの山に顔を突っ込んだ。

「ウェヒッ、ウェヒヒヒッ。くるるるるっ」
「ううん……、ほんとに変わった鳴き声だよなあ、君」

 口周りの毛を油と肉汁でぺたぺたにしたもふもふちゃんは鳴き声とも唸り声とも笑い声ともつかない、化けものみたいな声を上げている。多分、大喜びしている。
 雑食なのかなんでも食べる彼はとりわけ肉を好む傾向にあるらしく、中でも鶏の唐揚げが大好物のようだった。思えば、初めて彼が店を訪れたときも唐揚げを調理していたところだった。

 今揚げてしまおうと思っていたぶんは全て終えたので、火を落として手を洗う。油はまだびっくりするほど熱いから、これの片づけはもう少し後でいい。
 もふもふちゃんは、作業を止めて傍に寄ってきた私に気付かないほど夢中になっているようだ。
 その姿に悪戯心が芽生えて、私は全身の毛が逆立つほど興奮してがっつく小さな獣の背中をつんとつついてみた。背中周りの薄い皮がこそばゆそうにぞわりと波打つ。
 しかし、彼はこちらを見向きもしない。どころか、小さく器用な前肢で邪魔っけそうに私の手を払い除けた。態度はつれないが、いきものの熱が指先から伝わってくるだけでなんだか満足感が込み上げてくる。
 唐揚げにむしゃぶりつくもふもふちゃんはすっかり熱狂している。喚くだけでは飽き足らず、覗き込んだ顔にくっついた円らな目、その黒目が縦横無尽に動き回ってまでいた。凄まじい形相だ。
 正直言って可愛いとは言い難いと思うのに、なぜか無性に愛くるしく見えるという真正面からの矛盾が生じている。どんなに不細工な顔をしていてもどうぶつはどうぶつというだけで可愛いんだから、罪な存在だと思う。

 ―さて、すっかり唐揚げを堪能して、ようやく満足がいったらしい。もふもふちゃんは「けぷっ」と小さなげっぷをすると、そのままごろりと寝転がった。「はァ〜、どっこいせ」とでもいうような重々しい動作が、なんだかおじさんっぽい。
 彼は横になったままで私を見上げると、黒いぽっこりお腹をぺいーんっ、ぺいーんっ≠ニ一度二度叩いてみせた。そのたびに唐揚げがたらふく詰まったぽんぽんのお腹がぺよんぺよん波打っては私を誘惑する。
 「触っていいよ」の合図だ。私は満を持して彼に手を伸ばした。
 まず指先をお腹に柔らかく埋もれさせる。長くもふんとした毛が私の指を捕まえるように纏わりつく。そんなことをするつもりはないけれど、彼の皮で雑巾を作ったらよく汚れの取れる掃除道具になると思う。
 私の邪心も露知らず、彼は拒む様子もなく、むしろ手の甲に頭を擦り寄せてくれまでするから、調子づいた私は今度こそ手のひらいっぱいに細く柔い身体へと触れた。
 見た目通り、もふもふちゃんは指通りがよくふっかりとした毛並みをしている。他より少しだけ短くて毛流れの整った頭なんて極上の天鵞絨ビロードのような手触りだ。温石おんじゃくを仕込んだように温い身体に手を預けていると、素晴らしい触り心地も相俟ってなんだか眠くなってくるぐらいに気持ちいい。

「ふふ、本当に可愛いなあ、もふもふちゃんは」

 囁き呼んだ声に反応して、小さな黒い毛の塊は身を捩って私を仰ぎ見た。唐揚げを貪っていたときはいくらちょっかいをかけてもちっとも気にした様子はなかったくせに、今になってみて不服そうに睨んでくる。
 時折このどうぶつは、驚くほど人間染みて感情豊かな表情を見せた。

「なんだい、その顔。もふもふちゃん≠ニ呼ぶんじゃあ、ご不満かな?」
「…………」

 むっつり顔だ。不満らしい。

「そんな顔されたって、でも、今さらのことだし、なにより仕方ないだろ。私は君の名前がわからないんだもの。図鑑を漁ってみても、君みたいな姿をしたどうぶつには未だにお目にかかれていないしね」

 言いながら、こつ、と指の爪で極軽く鼻先を小突いてみる。その指に彼は甘く噛みついた。痒くすらないのに痛がるふりをすると、もふもふちゃんはきょとんと首を傾いでから私の指を解放して、宥めるように舐めてくれた。小さく薄い舌が肌をちろちろと這い回るのがちょっぴり擽ったい。

「ふふ、ごめんよ、揶揄からかったりして。ほんとはちっとも痛くないんだよ。大丈夫」

 取り成してみたが、多分彼には通じていなかっただろう。獣はなおもぺちょぺちょと小さな舌を肌に当ててくる。
 固く冷えて強張った心が微温湯ぬるまゆで解されていくような交わりが心地いい。
 ―だが、和やかな時間は突として破壊された。

「おう、邪魔するぜ」

 ―と、下品なだみ声が言いきらないうちに、店の戸が蹴破られた。大音響に驚いて身を震わせ戸口を見遣った私を、下卑たにやけ顔が不遜に見返す。
 破落戸ごろつき同然のその男こそ、私に執拗しつこく立ち退きを迫ってくる地上げ屋だった。店へ度々繰り返される嫌がらせも、全てこの男の仕業だ。
 地上げ屋とこの小さなどうぶつが居合わせるのは、これが初めてのことだった。いつも呑気でいるもふもふちゃんも今ばかりはさすがに警戒した様子で、鋭く毛を逆立てて闖入者を睨みつけている。
 彼のような珍しいどうぶつがあんな男に目をつけられては、それこそどうなるかわかったものじゃない。私は調理場から出て、もふもふちゃんを自分の身体で隠すように立った。
 幸運にも、その動きの不自然さを奴に見咎められることはなかったようだ。地上げ屋はやけに大仰な身振りでぐるりと店の中を見回すと、小馬鹿にするように鼻を鳴らした。

「いやはや……いつ戸を叩いても、涙が出そうなぐらいの閑古鳥だねえ、こりゃ」

 いつ戸を叩いた≠ニいうのか。私は地上げ屋を口汚く罵ってやりたい気持ちを抑えるのが精いっぱいだった。
 この男は、いつだってわざとらしいくらいに乱暴で野卑な振舞いで以て「早く土地を明け渡せ」と言外に私を脅してきた。大叔母さんが亡くなってからこっち、絶えずずっとだ。

「いい加減さ、おい、意地を張るだけ損ってもんだとは思わねえかい? なあ?」
「……ここは私が大叔母さんから正当に引き継いだ土地と店なんだよ。不条理なことを言っているのはあなたのほうだってこと、わかってるはずだろ」
「もうとっくにおっ死んだ老人共の口約束に効力があるとでも思ってんのか!  ええ? 随分おめでてえ頭だな、おい!」

 言いながら、地上げ屋はずかずかと床を踏み鳴らしてこちらへ歩いてくる。足取りは少しゆらゆらとしていて、覚束ない。こんな昼間から酒でも食らっていたのか、それとも薬漬けにでもなっているのか、はたまたそのどちらともだろうか。

「……マ、俺だって鬼じゃあねえのさ、お嬢さんよ。ええ? おい。お前さんがよ、なあ、払うもん、きっちり払ってくれさえすりゃあ、俺だってこんなしみったれた店に用なんぞねえわけで。なあ、おい、なあ、わかんだろ」

 すぐ目の前までやってきた地上げ屋は、充血してどろんと濁った目で私の頭から爪先までを値踏みするように見た。じろじろと身体中を厭らしく這う視線が不快で、腕のあたりがぞわりと粟立つ。
 思わず後退りした私へ、奴のごつごつした手が間髪入れずにぐわっと伸びる。

「胸は貧相だがケツはあるし……顔だってそう悪かねえ。世の中にゃ、いくらでも変わった趣味の奴がいるもんだ。うまいこと仕込んで売り込みゃあ、それなりに客もつくだろうよ」

 地上げ屋は右の手で私の顎を鷲掴みにすると、もう一方の手の甲で頬をぱしぱしと叩いてきた。侮辱的な言葉が投げかけられるごと、一緒に吐きかけられるやに臭い息で胸の辺りが悪くなる。

「……あ? なんだ、こいつ」

 ここで地上げ屋が、調理台の上で四つ足を突き立てて威嚇するもふもふちゃんにとうとう気付いてしまった。

―こんな畜生に食わせる飯があるんなら、俺のことも手厚く持て成してほしいもんだな、ええ? こっちは客だぞ!」
「ちょっと!」

 止める間もなかった。地上げ屋はもふもふちゃんをむんずと掴み上げると、その勢いのままに床に投げ捨てた。
 まるで水の入った革袋を叩きつけたみたいな嫌な音が響く。私は全身の血の気が失せて、今にも倒れてしまいそうだった。

「こ、こんな小さなどうぶつに無茶をするなんて、なにを考えてるんだよ! あなたに人の心はないのか!?」

 声も身体も震えていた。震え上がるほど寒いような気もするのに、顔だけは身体中の全部の血が集まってきているように熱い。しっちゃかめっちゃかなありさまだ。
 だけど、心は今までになくいきり立っていた。
 強張る手を無理矢理に開いて奴に掴みかかろうとする。だが、そんな私の眼前を黒く小さななにかが猛スピードで横切った。

 ―彼だ。もふもふちゃんだ。

 乱暴に床に叩きつけられて力なくぽてりと横たわっていたはずの彼は目にも止まらぬ速さで跳び上がると、その小さな身体で地上げ屋の顔に取りついたのだ。

―ぐあッ! なんだ、てめえ! このっ……離れねえか!」

 藻掻き引き剥がそうとする地上げ屋の手を、もふもふちゃんは驚くほどの身軽さでひょいひょいと躱す。そのとき、地上げ屋の鈍間さを嗤うように軽やかに跳ぶもふもふの毛玉が、一度ちかりと光を瞬いた。見間違いかと思えば、そうではないと否定するようにもう一度光る。
 光の点滅が留まることはない。間隔は徐々に詰まっていき、もう彼が黒い毛の玉なのか白い光の玉なのかも判別がつかない。
 嫌な予感がした。
 わけがわからなかったが、もう彼に会えなくなってしまうかもしれないという途轍とてつもない恐怖が確信めいて私に覆い被さる。

 止めなければ、と思った。

「っい、いや、やだ! いやだ! もふもふちゃ―えッ……!?」

 もう自分の身を顧みることもできなかった。なりふり構わず駆け寄ろうとした私を、しかし見えない壁のようなものが阻んで止める。

「なにっ……なんだよ、これ! ううっ、壊れろっ、壊れろったら!」

 はだが赤らんで痛むほど拳を叩きつけても手応えはまるでなく、壁は少しも崩れる様子がない。
 よもや、今まで地道に私を追い詰め続けてきた地上げ屋に、こんな特殊な能力が備わっていようはずもない。となれば、犯人は明白だった。
 どう考えても普通のどうぶつではないと思っていたが、まさかこんな芸当までできたのか。
 だが驚きに身を染め続けている暇などなかった。瞳が灼かれそうなほどの光の洪水に、とうとう私は目を開けていることもできなくなる。

「いやだあっ! 待って―!」

 ―私の叫びに呼応するようにして鳴り響いたのは、凄まじい轟音だった。
 きい―ん。鋭い耳鳴りが私の頭を横一直線に突き抜く。
 目蓋の上からでもわかるほど赤々と眼球を突き刺した光は、私を一時的に盲目にしていた。爆発したのか、激しく噴き上がった濃い煙幕も相俟ってなにも見えない。瞬きのたびに涙がぼろぼろと零れる。明らかでない視界の端で、赤黒い塊が不自然に私を避けてぽとぽとと落ちていくのだけがただわかる。

「な、なに……。なにが……」

 惑いながらほとんど意味を成さない言葉を紡ぐことしかできないでいる。
 現状の理解ができない。頭が真っ白で、考えがなにひとつ纏まらない。
 もう地上げ屋なんてどうでもよかった。ただ、私の小さな友達のことだけが心配で心配で堪らなかった。
 やがて、立ち籠める煙幕を少しずつ引き裂いて、場違いに温かい陽射しが幾重にも細く私を照らす。
 視界が少しずつ晴れてゆく。そしてとうとう目の当たりになった、ばらばらに崩れた軒先を背景にして浮かぶものに、私は激しく動揺した。
 深い谷間を備えたそれは肌色をしていた。傷ひとつないそれが人の膚だということは一瞬でそうと見て取れる。私が戸惑いを覚えたのは、それがどこからどう見ても人のお尻にしか見えなかったからだ。
 風通りのよくなりすぎた店内からすぐに煙は連れ去られる。視界を遮るものがひとつとしてなくなった今、やはりそこに立ち尽くしていたものは紛うことなきお尻で、私はもうわけがわからない。
 つやつやのお尻の持ち主は、見たところ青年だ。長い黒髪を背に垂らして立つ彼は、無論、地上げ屋などではない。後ろ姿だけでも、あの野卑な男とは似ても似つかない。

「え、え……。……も、もふもふちゃん……?」

 自分自身なぜそう思ったのかはわからないが、それ以外には考えられないような気もしていた。からからに乾いた喉で掠れ声ながらに名を呼べば、彼は朱混じりの長い黒髪を翻して振り向いた。赤い目が瞬きもなくじっと私を見下ろす。

「き、君……もふもふちゃん、君は、いったい……」
「もふもふちゃん≠セ」
「……え?」

 問う私に、彼は張りのある声で滑らかに応える。

「俺は俺だが、もふもふちゃん≠ナもある。お前にとっての俺は、それでいい」
「…………」

 彼はそう言って少しの間だけ私を見つめると、そのままきびすを返した。
 なにも答えられずに彼を見つめることしかできないでいる私に失望したのだろうか。―いや、彼が私の知るもふもふちゃんだというならば、彼はきっとそんなことを考えてはいなかったはずだ。
 立ち去ろうとする彼に、私は慌てて大叔母さんが愛用していたエプロンを引っ掴んで駆け寄った。下肢に目をやらないように努めつつ彼の手にエプロンを押しつけながら、遺品の整理が終わりきっていなくてよかったと初めて思った。

「こ、これ着て。貸してあげるから」
「なんだ、この布切れは。食べられないものはいらないぞ」
「真っ裸で帰るつもりか、君は!? いいから黙ってそれを着るんだ!」
「いらないのに……」

 私の剣幕に圧されて、彼は渋々腰元にエプロンを雑に巻きつける。ただ本当に巻きつけただけといった具合だから、なにをしないでもエプロンはずるずるとずれ落ちる。
 私は仕方なく彼の背中側からエプロンを着つけてやった。お尻は見えてしまうけど、さっき散々見せつけられたからもう今さらどうとも思わない。感性が麻痺していた。

「そ、それで、絶対に返しに来るんだよ。大事なエプロンなんだからね! 絶対に返しに来てよ! 唐揚げを作って、待ってるからね! 約束だからね!」
「……お前はいいやつだし、お前のくれるごはんはうまいからな。わかった。俺は、約束はきちんとまもる」

 きょとんとした彼はそれでもこくりと頷いて約束してくれた。
 感情の薄いその面立ちが、柔らかな微笑みを浮かべているように見えた。

***

 あのあとは本当に大変な騒ぎになった。
 突然平凡な食堂の軒先が爆発したのだから、それも当然の話だろう。
 近隣に住む住民のみならず、「地上げ屋にとうとうなりふり構わぬ嫌がらせをされたのか」と、自警団の人たちまでもが駆けつけてくれた。
 もちろん私は事情を根掘り葉掘り聞かれて「地上げ屋がひとりでに爆散した」とつい嘘を吐いてしまったのだが、これは誰にも信じてもらえなかった。むしろ「黙っているように脅されているのか」とかえって心配もされた。
 もふもふちゃんを庇うための嘘を吐いた私があんまりにも挙動不審だったのと、あれほど千々に飛び散った地上げ屋がなぜか探しても探してもそのひと欠片さえ見つからなかったためだ。
 ただ、それを契機にたくさんの人がお客さんとして訪れてくれるようになった。今では中々の繁盛っぷりだ。爆発で消し飛んだ扉の修理費も問題なく賄えるほどの儲けが出た。

 ―昼のピークも過ぎた頃、静かな店内に小さなカウンタードアを揺らす微かな音が鳴る。
 とてとてとてっ。
 弾むように軽い足音が近付いてきて、小さな黒い塊が調理台にひょいと飛び乗ってくる。

―やあ、いらっしゃい、もふもふちゃん。ご飯、準備できてるよ」

 私の小さな友達が、今日も今日とて唐揚げを貪りにやってきた。


―――
24/01/05


(管理人:瀬々里様)
 今回お邪魔させていただきました創作世界はこちらのサイト様にて閲覧可能です。ご厚意に甘えてリンクを貼らせていただいております。迷惑行為はおやめください。


prev | next
TOP > story > deliverables

×
「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -