霧下に破蕾



 水仕事に荒れた痩せた手でノブを捻れば、古びたドアが「きい」と軋んだ音を立てる。その間隙を狙って、街路にけぶるように立ち籠める闇が、不快な湿度を外から部屋へと連れ込んだ。
 室内は暗い。
 窓が閉めきられているぶん、外よりもよっぽど鬱屈とした暗黒が横たわっている。
 それでも彼女には真っ暗闇の家の中を見通すことなどわけはない。瓦斯ガス燈がぼんやりと薄く照らすだけの道を歩いてきた目には、まだ闇夜の名残が宿っている。
 ゆえに、彼女―ナマエの双眸はくっきりと捉えることができた。
 闇の中に佇むダイニングテーブル。テーブルを挟み込む形で向かい合わせに置かれた二脚の椅子。そこにひと際濃く落とされる、影。
 息苦しさを増した空気に身動ぎするでもなく、埃を被った置物のように座り込んだままでいる、部屋の住人の姿を。

「……ただいま、兄さん」

 椅子に重たく腰かけながら、包帯の巻かれた利き腕を空虚に見つめ続ける兄へ向かって、彼女は誰に憚る必要もないのに密やかに声をかけた。
 声をかけたが、兄は振り向きもしない。

 ―今日は、ちょっと寝つきが悪かったみたいだね。

 そう言おうとして、ナマエは口を噤んだ。こんな問いはあんまり白々しすぎて、かえって兄を追い詰めてしまうかもしれないと思ったからだ。

「ねえ? まだ眠くないならさ、ちょっとその辺りを一緒に散歩しようよ」

 ナマエの兄は、とあることが切っ掛けでまともに眠れない身体になってしまった。
 それが、もうひと月も続いている。

「……外がいつもより明るくて、いい気分だよ。今日は霧が少し薄いみたいだから、月の光が下界ここまで届いてるのかもね」

 どうにか「うん」と頷いてほしくて、言い訳がましく付け足した言葉は真っ赤な嘘だった。今日もいつもと変わらず空は霧天井に重苦しく閉ざされていて、下界はうんざりするほどに暗い。
 だとしても、こんな部屋の中に閉じ籠ったきりでいるよりは、いくらもましに違いない。だからどうにかして彼を外へ連れ出したいのに。ナマエがどんなに言葉を連ねても兄からの返事はない。
 だがなにが契機となったのか、兄は前触れなく首をゆっくり捻ると、ようやくナマエのほうを見た。
 青褪めて蝋のように白い顔が、瞬きもせずにナマエをじいっと見返す。ナマエは思わず固唾を飲んで、所在なく下げていた両手の指をもじりと擦り合わせた。
 ナマエを虚ろに見つめる真白い顔は、まるでお面だ。人間らしい複雑な感情の色はそこにはない。べったりと塗りつけた絵具を洗い落とそうとしたあとみたいに、ただ静かな絶望だけが浚われきらずに沈殿している。

「……今は、気分が乗らない?」

 やはり兄は応えない。
 ナマエはなんだか無性に泣き出してしまいそうになって、慌てて背中を向けた。そうして元からそのつもりだったというようなふりで、自身の頭を覆っていたスカーフを取り去った。
 拍子に、スカーフにたっぷり沁み込んだ鋭いアルコールの残り香が、彼女の顔を満遍なく無遠慮に刺激する。もうとっくに慣れっこのはずの刺々しさが、今日に限ってはやけに堪らない。目と鼻がつんとして、彼女は鼻を啜った。

 ―ナマエの兄は、こんな・・・人ではなかった。
 温良で、朗らかで。いつも優しかった。にこにことしていた。ナマエにとっての兄は、絵本の中でだけ目にすることができた、雲ひとつなく麗らかな蒼穹のような人だった。
 少なくともこんなふうに、世の中の全てに対して申し訳が立たないような顔をして生きる人では、決してなかったのに。

「そういう気分じゃないっていうなら、いいんだ。散歩なんていつだってできるもんね。気が向いたら、またそのときにね」

 涙が零れないように目を見張って、声が震えないように喉と腹に必死に力を入れる。深く呼吸を繰り返して、感情の昂りを努めて宥める。

――――……ごめん、ナマエ」

 ふと、繕った平静が今にも崩れ落ちてしまいそうなのをぐっと堪える彼女の背中に、兄の掠れた声が刺さった。

「花、また枯れて……」

 その言葉にナマエははっとして振り向いた。いつの間にかこちらを見るのをやめて俯いていた兄の頭越し、小さな窓を見遣ってから速歩はやあし気味にそこへ駆け寄って、曇った硝子の嵌め込まれた窓を押し開けた。
 窓辺には廃材を組み合わせて拵えたウィンドウボックスが備えつけてある。兄がこんなふうになってしまってから、「少しでも気分転換になれば」と馴染みの木工職人が気を利かせて作ってくれたものだ。
 その木箱の中。つい昨日まで固く青く身を強張らせていたはずの花の蕾が、すっかり腐り落ちてしまっている。
 よくよく見れば兄の手には如雨露代わりの木彫りの洋杯コップが握られていて、彼がこの可哀想な花の世話を夜通し見ていたのだろうことを、ナマエは今になってようやく気がついた。

「ごめん、また……。せっかく、買ってきてくれたのに……」
「気にしないで!」

 反射的に言った。つい声が大きくなってしまって、閉鎖的な暗闇に反響した声に自分自身驚いて彼女は小さく肩を震わせる。

「……気に、しないで」

 もう一度、今度はゆっくり言い直した。
 兄の手から洋杯コップをそっと取り上げて、ナマエは心がけて柔らかに微笑みかけながら言う。

「枯らしちゃったって別にいいの。いつか花が咲いたらいいな≠チて、そのぐらいの気持ちでいいんだよ。気晴らしなんだから。ね?」

 打ちひしがれて下向く兄からの返事はない。

「……そろそろ休もうか。ほら、立って。朝まで椅子の上にいたら、お尻が潰れちゃう」

 伸びて垂れ下がる前髪の隙間から、弱々しい視線を感じる。やがて兄はごく小さくこくりと頷いて、自らベッドへと立ってくれた。
 その背を見送りながら、ナマエはどうしようもない歯痒さに唇を噛む。

 せめて泣いてくれさえすればよかった。遣る瀬なさをぶつけてくれるなら、まだよかった。赤ん坊が駄々をこねるように怒って、泣いて、理不尽に当たり散らされたとしても、きっとナマエは兄の全てを受け入れることができただろう。こうやって日々を死んだように生きられるぐらいなら、どんな苦しみだって生温く感じられたはずだ。

「……おやすみ、兄さん。明日はきっと、今日よりも良い日になるよ」

 挨拶に添えたひと言を誰より薄っぺらく感じていたのは、きっとナマエ自身に違いない。
 それでも彼女は願わずにはおれなかった。
 押しつけられた罪悪感に苛まれ息を殺しながらに日々を生きる兄の心が、明日こそ少しでも救われることを。


***



 ―そしてまた、ひと月。
 あれから兄の怪我は少しずつ快方に向かっていたが、心の具合はというと未だ芳しくない。

 事のおこりは、彼がとある男に仕事を寄越されたことだった。
 ナマエの兄は、元々荷運びの仕事に就いていた。仕事終わりにはナマエの働く酒場へ訪れるのが習慣になっていた彼は、その日もお決まりの席について、いつものメニューを注文していた。
 そんな兄に、声をかけた男がいたのだ。男は常連とまでは言わないがこれまでもしばしば酒場を訪れていた者で、金払いのよさからそれなりに顔が知れていた。なんでも仕事の斡旋をして回っているらしいと、ナマエ自身も小耳に挟んだことがある。
 彼女が目にしていたのはそこまでのことで、兄から「酒場で会った人から仕事をもらった。今の仕事の手透きにできる程度の内容で、上手くこなせればこれからも定期的に任せてくれるそうだ」と聞かされたのは、ひと晩明けた朝のことだった。
 そして数日後、例の仕事に出かけていった兄は大怪我を負って這う這うの体で帰宅した。その手にひよこの餌程度の手間賃だけを握って。
 兄が任されたという仕事の内容をナマエは後にも先にも知らないままだが、きっとろくなものではなかったのだろう。騙されたのだ。
 結局、兄は今までの仕事さえ辞めざるを得なくなってしまった。
 信用した人間に食いものにされたこと、そのために負った大怪我のせいでこれからの生活に影が差したこと。それら全てがナマエの兄を追い詰めて、彼はとうとう心を病んだ。そのまま転げ落ちるように日常生活さえ儘ならなくなった。
 酒場の店主マスターが「花を育ててみるのはどうか」と提案してくれたのは、そんなときだった。
 近頃街では富裕層から貧困層までを問わずガーデニングが流行しており、それを受けてのことだったのだろう。早々出回らないめずらかな草花は信じられないほど価値が跳ね上がったそうだが、反面ありふれた花の種や苗は以前と比べて随分と値下がりしていたこともあって、彼女はその提案に飛びついた。
 日がな一日ただ呆然と過ごすよりも、なにか趣味のひとつでもあれば兄の気も紛れるのではないかと思った。花を育てて緑に目を和ませて、少しでも兄の心が癒されてくれるなら、と。
 だが―。

 長屋の窓辺。切れかけの瓦斯ガス燈の下に浮かび上がる闇の塊のような土と、花弁なんてちっとも見えない固く閉じた蕾。傲慢な植物の植わる土を指で柔く押すと伝わってくる、じっとりと濡れた感触。吐きかけたため息を飲み込んで、ナマエはウィンドウボックスに背を向けて歩き出す。

 ―この試みは失敗だったのかもしれない。
 ナマエは、後悔し始めていた。

 買ってきた花は、水さえ与えていればほとんど枯れることのない、初心者にも育てやすい植物だと聞いていた。それが蓋を開けてみればとんだ大嘘だった。
 どんなに熱心に水をやっても蕾が開いた試しがない。果てには葉や根が溶けたように腐ってしまう。酷いときには芽さえまともに出ない。最近では種から育てるのではなく苗を買ってきているが、それでも育ちきらずに枯れてしまう。その度に兄は酷く気落ちした。
 そして、それはナマエもまた同様に。

 兄の気持ちも考えずに安易に飛びつくのではなかった。こんなことは、かえって彼の心をいたずらに痛めつけているだけだ。

 後ろめたさに引っ張られて、彼女はすでに遠ざかりつつある長屋群のほうを一度だけちらりと振り返った。
 いくつも軒を連ねているはずの建物たちは、その全ての輪郭が混ざり合い闇に溶け込んでいる。まるでひとつの巨大な山のようにナマエを見返す黒い塊は、どこか全く知らない場所のようだった。



 重いドアを開くと、ベルが澄み透った音でからころと鳴く。と、同時に瓦斯ガス洋燈ランプ以上に明るい人の活気が、靄がかったような夜道をぱあっと照らした。その溌溂とした光の中に飛び込めば、そこはナマエの働く酒場だ。
 いくら掃除してもべたべたな床に足を取られながらも、ナマエはスカーフを揺らしてホールを駆け抜けカウンターへと向かう。カウンターではマスターが酒の用意をしており、ナマエがやってきたことに気付くと赤ら顔をにっかりとさせた。

「おう! 来たか、ナマエ!」
「マスター! ごめんなさい、遅くなって」
「いい、いい。気にすんな。事情はわかってんだから」

 気のいいマスターは昔から親のないナマエたち兄妹に親切で、今もなお格別の心遣いをしてくれるのだ。相変わらず甘いマスターに彼女は小さく笑みを返す。そのまま手早く身支度を済ませると、カウンターに置かれたトレイを手に取った。

「それにしても、今日は随分な大盛況だね」
「ああ、おかげさんでな」

 そう答えるマスターに促されるままに酒場の中を見回して、彼女はぎくりとした。全身の血液が一気に氷水に置き換わってしまったようだった。
 店内で一番の盛り上がりを見せる席。兄がいつも座っていた席に、あの男がいる。脳裏に焼きついて忘れもしない。兄を騙して大怪我を負わせた、―あの忌々しい詐欺師が。
 驚愕と激情が綯交ないまぜになる。怒りが満身を支配する。少しでも気を抜いたなら、彼女の両の瞳からは敵意が迸ったに違いない。
 今にも掴みかかって張り倒してやろうか。兄の前へ引っ張り出していって、エルベの女神さまのご慈悲で空が晴れない限り何遍でも謝らせ続けてやろうか。
 だが衝動のままに飛びかかっていくほどには彼女は正気を失ってはいなかった。あの男がために陥った生活苦と兄の病が、彼女にひと匙の冷徹な視線を与えていた。
 酒場で働く給仕の女に大の男を圧倒するような腕力はない。地位も、それと立て替えられるほどの金もない。自棄になってむちゃくちゃに胸座を掴み上げたところで、ナマエの恨みはなにひとつ満たされない。
 それでもなにかせずにはいられなかった。ナマエはひと呼吸置くと、感じよく唇をつり上げてからホールへ向かって歩き出した。他の客の注文を取るふりで、さりげなく詐欺師の一団が占領するテーブルのほうへと近寄っていく。
 一団の会話に耳をそばだてる限り、詐欺師は名をダリムと言うようだ。
 ダリムは外面がいい。上背があって顔立ちも強面だが振舞いは至って感じがよく、金持ち特有の豪快さもいっそ気持ちがいい。
 しかし、よく目を凝らしてみれば豊かな笑顔の奥に宿る眼光は底冷えしている。隙がまるでない。
 きっと、最初からこうして疑ってかかるつもりでいなければ誰も気がつかないことだ。ナマエだって、こんなことがありさえしなければダリムの真意を疑うことはなかった。

―酒が進んでねえようだな。そら、もっと飲め! 今日はお前のおかげで大儲けできたんだからな、オルフェ!」

 喧騒の中にあってもよく通るダリムの声が呼ばわるその名の持ち主は、濡れたように黒い髪を持つ青年だ。オルフェ青年は情報屋を営んでいるという。
 ダリムやその取り巻きの男女らが騒いでいるのを聞くに奴らは大きなひと仕事を終えたところで、今夜はその祝杯を挙げているのだそうだ。オルフェは件の仕事における要役を見事果たしたことで、同席を許されたというのが経緯らしかった。
 しかし当のオルフェはといえば、やや気乗りがしないような様子でいる。ダリムや取り巻きらの攻勢とも呼ぶべきちょっかいを愛想よくいなしてこそいるものの、目つきがどことなく白けている感じがした。
 片手間に横目でちらちらと見ているだけのナマエでもそう思うのだから、ダリムも気づかぬわけはない。だが、ダリムはそれにも構わず、オルフェをいかにも可愛がっているような口振りで一層わざとらしく騒ぎ立ててみせた。まるで自慢の子飼いだとでも言わんばかりだ。

―ところで、旦那。もしかして俺のこと、こんなふうにどこでも言って回ってくれてるんです?」

 オルフェが思い出したようにそう訊ねると、ダリムは機嫌がよさそうに首肯した。

「そりゃあ、もちろん。お前は利口な上に愛嬌があって、なにより腕が良い。こんなに有能な奴を秘密にしておいたら俺が恨まれちまわあ。―なにか不都合が?」

 愛想のいい素振りに誤魔化されない凄みのある眼差しと声。それを盗み見ているナマエのほうがどきりとしたのに、対するオルフェは口元に軽薄な笑みを刻んだままでさらりと受け流す。

「いやあ、まさか。旦那御自ら宣伝してもらえるなんて、鼻が高いと思って」

 オルフェの、笑みの形に細まった目とは裏腹に、視線が退屈そうに逸れる。その様子に、ナマエは反射的に声を上げてしまった。

―あの、もし。ちょっとよろしい? そこの、黒髪のお客さん」

 一帯の視線が全て彼女に集まる。怖じ気づいたが後戻りはできない。滲んだ手汗をトレイで隠し、ナマエはできる限り平然と言った。

「お外に使いの人が来てるよ。急ぎの用みたいだけど」

 オルフェは頷いて、ダリムに愛想よくひと言ふた言ばかり言うと席を立った。
 カウンターに戻るふりで、ナマエもその後をこっそりと追う。

―嘘だろ?」

 酒場の外に出るなり、オルフェは当然のようにナマエを振り返って訊いた。

「……嘘って?」
「さっきの。『使いの人が来てる』っていうのは」
「ああ。そうね、うん」

 情報屋の青年は間近で見てみれば思っていたよりもいくらか幼い顔をしている。彼女は内心驚いておざなりに返事をした。

「マ、でも。お姉さんのその嘘のおかげで助かったよ。どうもありがとう」
「どういたしまして。
 ……ねえ、君さ……、あの詐欺師の仲間―ってわけじゃ、なさそうだよね。情報屋だっていうのは、本当?」
「……だとしたら? それがお姉さんになにか関係があるのかい?」

 ナマエは意を決して言った。

「お願いがあるんだ。私に情報を売ってほしい。あの男―ダリムを陥れるための!」

 ナマエの急な申し出に、灯りのない路地裏の闇を押し込めたように黒々とした目が彼女を見つめる。立ち去る様子がないことから少なくとも話だけは聞いてくれるつもりなのだろうと信じて、心変わりされないうちにと矢継ぎ早にナマエは続けた。

「ねえ、わかってる。そういう情報って、きっと高いんでしょ? でも、私の兄さんに酷い仕打ちをしたあの男をやっつけられるなら、なんだってするよ。どれだけ時間がかかっても、必ず望むだけの金は作るから!」
「どうやって?」
「……女の身体だもの。やりようなんて、いくらでもあるでしょ!」

 威勢よく言いきるも震える自身の手に気付いて、ナマエは慌てて両手を下げて拳を握り込んだ。「震えよ止まれ」と言い聞かせながら。

「そうは言ってもな。立ちんぼの娼婦にも、矜持プライドや縄張りってもんがあるんだぜ。俺の見たところ、お姉さんはそういう知識に疎そうだけど、どうかな」

 対して、オルフェの反応は極めて現実的で冷ややかだ。

「それにな、お姉さん。復讐なんて、無謀も無謀ってもんさ。こんなこと、蛮勇とも呼べないよ」

 オルフェは肩を竦めて笑う。

「ダリムの旦那はあれで抜け目ない男だ。到底、あんたに太刀打ちできるような男じゃない」
「わ、わかってる」
「いいや、わかってないね。わかってるなら、こんなこと言いやしないんだ。
 それになにより、あんたが下手を打ったときに俺にまで皺寄せがきかねない。俺には、あんたと一緒に運河の底に沈むまでの義理はないぜ」
「わかってるったら!」

 堪えかねて、ナマエは絞り出すように叫んだ。勢い余ってまなじりに涙まで溢れ出す。

「わかってるんだよ。君に私を助ける理由がないってことも、こんな頼みが迷惑だってことも! だけど、お願い……。他に、当てがないんだ」

 泣きたくもないのに壊れてしまったみたいに涙が止まらず、頬がべたべたに濡れていく。オルフェは少しだけぎょっとして、居心地が悪そうに視線を逸らした。

「たったふたりっきりの兄妹なんだもの。こんなときこそどんな手を使ってでも私が兄さんを助けてあげなきゃ、兄妹なんてそんなの、嘘じゃない」

 優しい兄なのだ。ナマエをなにより大事にしてくれて、なにより大切に思ってくれた、たったひとりだけの家族。両親が死んだとき、彼自身もまだほんの小さな子供だったのに、より幼い妹のためにと生きてくれた、優しく脆く高潔な兄。
 今こそ、兄の愛の献身に報いたい。

「あんな奴なんてけちょんけちょんにしてやってさ、『もう兄さんをいじめる奴なんかどこにもいやしないよ』って、そう言ってあげたいんだよ」
―あのさ、そうやって情に訴えるんじゃなくて、もっとうまいことやってくれなきゃ」
「え?」
「純朴な人だな。恩に着せればいいのに」

 唐突に投げかけられた言葉は、どこか呆れ返っているようにも困り果てているようにも響く。ナマエは自分が泣いていることさえ一瞬忘れて、目の前の青年をまじまじと見た。

「あんなふうに、まるで俺があの人の専属だってわざと誤解させるようなこと言い触らされちゃ、困るんだよな。あんなの、まるっきり営業妨害だぜ。
 ―だから、俺はさっき本当に助かったんだ。お姉さん、あんたに助けてもらったんだよ」

 唇の端をつり上げて、オルフェは実に挑発的に笑う。

「あんたからの依頼は受けない。だけど縁切りついで、あんたへのちょっとした恩返しついでに、少しばかり砂かけてくぐらいの仕返しは構わないと思わないか?」
「それって、」
「暫くの間、新聞をよく読んでみるといい。面白いものが見られるかもしれないぜ」

 ナマエは込み上げる情動のまま、オルフェの手を両手で取った。自分よりも少しだけ大きな男の子の手の中に、手持ちのコインをほんの少しだけだが握らせる。驚いたオルフェは指先をびくつかせて手を離そうとしたようだが、彼女があんまりしっかり握り込んでいるのですぐに諦めたようだった。

「……あ、ありがとう」

 ナマエの重々しい謝意にオルフェはため息を吐くように笑った。大人とも子供ともつかない若々しい容姿に反して、大人びた表情だった。

「俺の仕事のためってのがほとんどさ。なにも、あんたのためじゃない」

 言いながらナマエの手を柔く払って、オルフェはコインを指で摘み上げる。心ばかりでしかない対価を空に透かすように見る白い横顔こそ、霧の夜空にほどけて透けていきそうだった。

「それにしても……、仕事もしてないのにこんな大金・・、ただじゃもらえないな。他になにか知りたいことはないのかい? ある程度の情報ものなら今ここで出せるんだけどな」

 横目にこちらを窺う黒い瞳に、ナマエは少しだけ考えて言う。

「それなら、ひとつだけ聞きたいんだけど。……植物の育てかたって知ってる?」

 オルフェは目を丸くして、それでも頼もしく頷いてみせた。



 兄は今日も寝つけず起きているのだろうか。
 オルフェは思いの外親切に、そして詳しく植物の育て方を教えてくれた。オルフェと別れて給仕に戻ってからも、新たに得た知識を早く兄と共有したいという気持ちは逸るばかりだった。
 息急ききらしながら暗がりの道を駆け抜けたナマエは、兄と住む部屋に帰り着くとひと息吐いてからそっとドアを開けた。
 部屋の中を覗き込めば、兄はいつものようにやはり起きていた。
 いつもと違ったのは、彼が大きく開け放たれた窓際で呆然と立ち尽くしていたことだ。兄になにかよくない変化でも起きたのかと、ナマエは慌てて駆け寄った。

「どうしたの、兄さん」
「なあ、ナマエ」
「な、なに?」
「蕾が、」

 ―また、枯れてしまったのだろうか。今さら新鮮な落胆など覚えはしないが、気分は塞ぐ。兄の隣に並んで、しおしおとウィンドウボックスの中を覗き込む。
 そして、彼女は息を飲んだ。
 兄妹の見つめる先には、淡く産毛の生えた花の蕾が瓦斯ガス燈に照らされてある。
 萎れた様子はない。どころか、少し綻んでさえいる。先からは鮮やかな赤色が覗いていて、開花のときを今か今かと待ち構えているようだ。

「朝と比べて、蕾がさ、少しずつ膨らんでるんだ。葉は青くて、ぴんぴんしてて……」

 ただでさえ霧天井に塞がれて暗い下界のより暗い夜においても、兄の瞳は仄かに耀いていた。白い頬が喜びと興奮に赤らんでいるのがわかる。

「花が咲くのかな。なあ、ナマエ。僕でも、本当に咲かせられるかな」

 この蕾が花弁をいっぱいに広げることはないのかもしれない。また明日にも腐ってしまう蕾なのかもしれない。
 だけど今このときだけは、いずれ美しい花が咲き出ることを信じたい。
 土にしっかと根を張る花のように伸びた兄の背中を撫でながら、ナマエは涙ぐんだ。

「できるよ、きっと」

 できるはずだ。そう信じたい。
 今なら、心から信じられると思うから。


―――
23/08/29


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