その七秒がハートに至るには



相田アイダ ケイ
 視点主。弁当屋の息子。26歳。攻め。

笹山ササヤマ アキラ
 高校の国語教師。25歳。受け。





 店の玄関、引違ひきちがいの格子戸越しに、夜の風の音がくぐもって聞こえてくる。
 「夜の風≠ニはなんぞや?」とは、自分でも思う。でもこれは確かに朝の風≠ナも昼の風≠ナもなく、間違えようもなく夜が醸す風の音だ。
 僕の頭の中で夜の風≠ニいうワードが暴れ回っている間にも、その上からは小さく囁くような空調の音がしんしんと降り注いで、背中側からは踵を伝って這い上がってくるように低く重たい唸り声染みた怪音が聞こえてくる。
 「これはなんだろう?」と少しだけ考えて、「背後にある戸口から繋がる厨房に置かれた、業務用冷蔵庫の音だ」と思い当たる。

 特にこれといった前触れや理由という理由もなかった。ただ、渾然一体となって平べったく「みんな揃ってひとつの環境音です」という顔をしていた塊が、突如として僕の耳の中でばらばらに解体され始めた。それぞれが一個の音としてかれて、立体的になって、孤立して……、手を繋ぎ合いながらに周囲を取り巻いていた音の全てが、一斉にその手を突き放してぐちゃぐちゃになった気がして。
 だから、僕は自分の手元からやおら顔を上げた。耳慣れない音だというわけでもなかったのに、なんだかやたらと新鮮な気持ちになって耳をそばだてて、そのまま辺りに視線を巡らせた。
 わざわざ確かめるまでもなくわかりきっていたことだが、店内はがらんとしている。今こうして視界に映る限りでは、自分以外には誰の気配もない。この狭い空間が広々として感じられるぐらいに、いっそ死んだように静まり返っている。では店外のほうはというと、そこには申し訳程度に点々と立つ古びた街灯ごときでは打ち払えないほどの質量を持った暗闇が重く立ち籠めていて、店の中同様にしんとしているのが窺える。
 ありとあらゆる場所から、自分以外の生命の気配を感じ取れない。
 まるで、ここだけが綺麗そっくり世界から切り離されているかのように―。
 漫画や小説のキャラクターみたいな感傷を覚えた、その瞬間だった。

 ――――ぶうん!
 ズンドコズンドコ!

―おわあ」

 店の前の道路へ、一台の車が盛大な爆音を立てて走り込んできて、ヘッドライトから放つ末広がりの光線をほんの一瞬だけ店内に潜らせた。僕のため息とも叫び声ともつかない間抜けた一声の合間になにかの音楽の残骸をズンドコズンドコと挟み込んで、そのまま車は来たときと同じようにやはりぶんぶんズンドコと急速に遠ざかっていく。うちの店に防音性がないということは否定できないが、それにしたって運転手の聴覚が心配になる音量設定だ。
 勘違いと幻想を情緒のないハイビームとズンドコ・ミュージックにすっかり打ち壊された僕は、誰に胸中を覗かれているわけでもないのにひとりへらへらと照れ笑う。
 だいたい人の気配がないなどと言うが、背後の厨房では姉たちが明日分のおかずの仕込み作業に忙しくしているのを僕は最初から知っているはずだった。

 笑みを収めて、首を大きく仰け反らせてレジの真上、木製の壁掛時計を確認する。すぐには時間が読み取れずに、つい眉根を寄せて目を凝らす。合わせて連動するように唇までもが鳥の嘴みたいに突き出てしまう。とてもじゃないが、今の自分は他人様に見せられるような顔はしていないのだろう。が、やはり誰に見られているというわけでもなかったから、気にしないことにした。
 両親の何度めかの結婚記念日旅行のお土産であるこの時計は、文字盤がない。根株をそのまま切り出したと見える木目を晒した歪な丸に、本来数字が刻まれるべきであろう場所へ機械的な正円が浅く掘り込まれているだけだ。変に気取ったデザインは、逆さまの視界では正確な時間を読み取るのに苦慮する。真正面から見ても一瞬考え込むのだから、なおさらだ。
 この時計が置かれるようになった当初こそ、「視認性のない時計は時計じゃない」と気に入らない気持ちでいっぱいだった。だけど今は、時間が読みにくすぎる時計を脳トレよろしく覗くのを案外楽しんでいる自分がいる。
 こういうとき、好き嫌いは心持ちひとつでまるっと様変わりするものだとつくづく実感させられる。

 幾度めかの瞬きののちでようやく読み取れた現在の時刻は、ちょうど二十一時。
 ピタリ賞だ。
 なにがどうというわけでもないが、少しだけ得意になってにまっとする。にまっとしたあとで、すぐになにをひとりでにまにましているのかと正気になってまた照れ照れ笑った。
 結局、ずっとひとりでにまにまとしている。

 反り上げた首を元に戻して、レジに視線を落とす。業者さんにオーダーメイドで作ってもらったキャッシュトレイに刻まれた、平仮名らしからぬ厳めしさを纏う四文字が、僕を威圧感たっぷりに見返しているのが目に入る。
 ―あいだや=B
 筆文字を思わせる筆致を、なんとはなしに目線でぐりぐりなぞる。これこそ両親が立ち上げた、そして今まさに僕がいる、この弁当専門店の名前である。

 弁当専門店あいだや≠フ昼時はまさしく戦場さながらといったところだが、これが夜間となるとご覧の通り一変して信じられないほど静かになる。客足がまともにあるのなんてせいぜい十八時から二十時ぐらいまでなもので、今頃の時間にもさしかかるとお客さんはもうほとんど来ない。極少数の、いつも決まって夜に来店する常連さんたちが時折ちょろちょろと顔を覗かせるだけだ。
 夜間のお客さんたちは、限りある昼休みに追われて忙しい昼間のお客さんたちとは違ってある程度時間の余裕があるためか、比較的気質が穏やかでいる。
 中でも常連さん其の一≠アと、草臥れたスーツに身を包むサラリーマンらしき風体のおじさんは、滅法温厚なお人柄でおいでだ。僕が多少もたもたしていても急かすような口を利かないどころか、身動みじろぎさえせずにじっと待っていてくれるのである。日中散々社会の波に揉まれてきたせいでそもそも無駄に突っ張る元気がないだけなのかもしれないが、あのお互いに「お疲れ様です」と言い合っているような奇妙な長閑のどかさのある沈黙の時間が、僕は結構好きだったりする。
 まあ、そう思っているのは恐らく僕だけであって、おじさんのほうはというとあの時間にまともに意識があるのかどうかさえも怪しいものだが。たまに白目剥きながら横揺れしてるときあるもんな、あの人。
 しかし今日ばかりはそんなおじさんもその他の常連さんたちもうちの弁当を手に取る気分ではなかったのか、まるで示し合わせたかのように揃いも揃って顔を見せない。ただでさえ暇をすることが多い時間帯なのに、おかげで店の内外の清掃や細々とした商品の陳列などの雑務が捗りすぎて、閉店まで残り一時間を切ったところでとうとう僕は自分のするべきことをすっかり見失ってしまった。
 仕事中に暇をしているときの時間経過の遅さと言ったら、他に類を見るものはないだろう。自分が表でぽやぽや暇を持て余している一方で、裏方の厨房では明日分の仕込み作業にせかせか忙しくしている姉たちがいることを了解しているぶん、そこへなんとも言いようのない気まずさまでもが余計に圧し掛かってくるのだから、暢気≠セなんだと評されることの多い僕であってもさすがに居た堪れない。
 かと言って、その気まずさを振り払うがためだけに安易に厨房に顔を出して「仕事を手伝うよ」だのとは言えない。なんせ、以前に同じようなことをして「開店中に店頭を空にする奴があるか」と叱られたことがあるので。
 ならばせめてレジ先に立ちながらでもある程度はこなせるような事務仕事でも任せてもらえればと思うのに、その手の業務はいつも僕たちと入れ替わりに退勤していく両親と兄夫婦が一緒に持ち帰ってしまうので手出しができない。

「……ううむ……」

 ひとつ唸って腕を組んで、ポーズだけでも悩んでみる。もちろん、それで秒針が僕を気遣っていつも以上に駆け足になってくれるということがあるはずもない。空虚な時間は一向に解消されない。
 仕方がないから今日も手持無沙汰を紛らわせるべく、僕はレジ横に設置された忘れものボックス≠ネる箱から一冊の本を手繰り寄せた。
 もちろん、忘れものボックスなんてものに入っているからには、この本はここへ来たお客さんの忘れものである。ただ随分長いこと誰も取り戻しに来ないものだから、ここ数日はすっかり僕の恰好の暇潰しの道具と化していた。いい加減タダ読みしすぎて著者にちょっと悪い気もしてきたから、いよいよ読み終わってしまったら僕はこの本を正式に書店で買い求めるべきなのかもしれない。

 ―でもな、半分以上読み進めてきておいてなんだけど、あんまり興味のある分野じゃないんだよな。

 読者にも著者にも失礼なことを考えながら、白地にパステルカラーの花々が散らされたフェミニンなデザインの表紙をまじまじ見る。
 どこぞの誰が、いつどうしてこんなものをよりにもよって弁当屋に落としていったのか、それは迷信染みた恋愛テクニックの数々がこれ見よがしに記された本だった。この手のやつを自己啓発本とか呼ぶのかもしれない。―いや、違うかもしれない。よくわかってもいないのに適当なことを言ってしまう悪癖がある。我ながら考えものだ。自己啓発≠チてそもそもなんなの? ニュアンス程度でしか理解してない。
 僕にとってはよくわからない分野の著作物でしかなくとも、どうやら持ち主はこの本を散々読み込んでいるらしく、ページは全体的にれてやや開き気味だ。指をかけてしならせれば、だいたいいつも同じページが開くまでになっている。
 開いたページにはいかにも自信ありげな小見出しがいくつか踊っていて、『第一印象は三秒で決まる!?』だの『恋心を錯覚させる魔法!』だのと書いてあるのが見て取れる。

 ―こういうの、ほんとかなあ。

 つい訝しんで、開いたページを上から横から斜めからとさまざまな方向から見る。もちろん、見る方向を変えたからといってページに記された文面は変化しない。
 心理学的な分野に造詣が深いというわけではなく、また記載のテクニックを実践したこともない以上効果のほどはまったく以てわからない。正直なところ、ちょっぴり胡散臭く思ってすらいるので検証する気も起きなかった。
 ただそんな半信半疑の僕とは違って、この本の持ち主はここに記されたことを信じ切って、熱心に読み込んでいたのだろうことは想像に難くない。でもそのわりにはいつまで経っても全然持ち主が現れないので、「落とし主の方、まだいらっしゃらないのかしらね」と家族間でもたびたびこの本が話題に出る。落としたことにすら気付いていないということはこの読み込み具合からしてないだろうと思うから、もしかしたら本人も「まさか弁当屋には落とすまい」と思って見当違いのところを探しまくっている可能性がなきにしもあらずだ。
 落とし主のプライバシーの侵害になるかと思って控えていたけど、そろそろ大々的に「落としものです」と店頭に掲示することも考えるべきかもしれない。明日にも兄に相談してみよう。
 こういうときの相談役は専ら兄になりがちだ。両親は僕に対していくらか甘すぎるところがあって、言うことなすことなんでもかんでも快諾されてしまうのでかえって意見を仰ぎにくい。

 半ば放心しつつ本を読み進めていたところで、ふと首と肩の強張りを自覚する。暫く俯きがちになっていたせいだろう。軽く肩を持ち上げたり脱力させたりしてから、腕を大きく上げて伸びをした。
 筋肉が緩むと緊張も解れるのか、つい大きな欠伸が漏れ出る。
 僕の欠伸の声が悪目立ちするほど、相も変わらず店内には硬くひんやりとした静けさが居座っている。絶え間なく続く大きな冷蔵庫が小さく低くヴィンヴィン言うあの音が、ただ無音であるというよりも余計に静寂を感じさせた。
 またひとつ欠伸が出てまなじりに涙が滲む。涙で歪んだ視界のままで、時計を見上げる。
 ―二十一時十六分、多分、それぐらい。さっき時間を確認したときから、まだ三十分も経っていない。依然として時間の進みは遅々としている。いっそレジ締めでもしてしまおうかとも考えたが、金額に狂いが出るといけないから、まだお客さんが来店する可能性がある以上勝手はできない。
 結局退屈の潰しどころが見つからずに、また本へ手が伸びる。
 店の外の暗闇が格子に阻まれた硝子を覆い尽くすようにめり込んできたのは、そんなときだった。

「あ―、」

 慌てて姿勢を正す。漏らしかけていた三度めの欠伸を強引に飲み込んだせいで、喉が「むぐり」と妙な音を立てる。と、同時に軋むような音を立てて、古びているせいで少し滑りの悪い引違戸ひきちがいどががりがりと開かれた。
 夜の闇からにゅうっと引き伸ばされてきたように、戸口にひとりの男が立つ。こんな時間になってもまだ乱れのひとつもなくきっちり整えられたままでいる黒髪。糊がぴしっと効いた黒いスーツ。艶のある黒の革靴。頭から爪先まで全身黒尽くめのその男は、誰あろう常連さん其の二≠ナある。

 ―来たな、ササヤマ先生。

 内心げんなりしたのを悟られないように、咥内に知らず知らず溜まったため息を鼻の穴からこっそり逃がす。
 誰にも言ったことはないが、僕は彼が苦手だ。たかだかいち店員ごときが、自分の勤める店を気に入って通ってくれているお客さんに対してこんなに失礼なことはないと思う。それでも苦手だった。

「……いらっしゃいませ〜。お疲れ様でえす」

 夜勤時は誰に対してもひとまずこの文句がお決まりだ。律義にしっかり後ろを向いて戸を元通りに閉じていた彼は、僕の常套句にこちらへ顔を向ける。そうしてそのまま、視線を逸らさずにじいっと僕の顔を見つめた。
 ……一秒。
 …………二秒。
 時間が粘ついたようにもったりと過ぎていく。その間、僕はもちろんのことササヤマ先生のほうも口を開かない。引き攣ったお仕事スマイルと感情を読み取れない無表情とが見つめ合うだけの、よくわからない時間が訪れる。無意識に握り込んでいた拳の中に手汗がじわっと滲むのを感じる。

 僕が彼を苦手に思うのは、この奇行のせいだ。理由はよくわからないがこの男、なにかと僕をじっと見つめてくるのである。
 最初こそ僕の顔にごみでもついているのかと変にそわそわしてしまっていたが、幾度もこんなことを繰り返されればどうもそういうわけではないらしいとさすがに気付く。だが「なにかしら思うところがあるのだろう」ということが察せるだけで、その理由にはやはり思い至らない。
 言いたいことがあるというのならひと思いに言ってくれさえすればいいのに、ただただ無言で目を覗き込まれるのは精神的に痛い。言うなればなにか罪を犯したところを見咎められて、厳しく問い詰められているような気持ちに近かった。別に過去にこれといって悪事をはたらいたような覚えはないけども。
 いくらか僕を眺めたあとでどうにか満足してくれたらしいササヤマ先生はようやくひとつ瞬きをすると、僕へ小さく会釈をしてから店内をぐるりと見回す。やがて商品棚のほうへと消えていった黒い後頭部に、僕はほっと息をついた。
 ああやって掛け声みたいな挨拶にわざわざお辞儀を返してくれるようなところを見るに悪い人ではなさそうなのだが、彼に対して覚えてしまう不気味さはやはりどうしても拭いきれない。

 常連其の二≠アとササヤマ先生は、この店のすぐ近くにある高校で教鞭を執っている男である。
 僕がこの事実を知っているのは、なにも彼から「実はワタクシこういう者でして」などと自己紹介をされたからというわけではない。ササヤマ先生と部活帰りの腹ペコ生徒たちが偶然この店内で鉢合わせになったときに、彼らの会話が耳に入ってきたからだった。
 やり取りを耳にしたときは「こんな無愛想な人が教師なのか」と失礼にも驚いたものだが、他の教師らと比べて生徒らと年齢が近いこともあってか、見た目から受ける印象よりかは案外親しまれているようだった。

 ぼんやりしているうち、商品棚からインスタントの味噌汁をひとつ手に取ったササヤマ先生は、そのまま真っ直ぐ僕の立つレジまでやってきた。今度ばかりは彼の視線は僕ではなくその下、弁当の食品サンプルを展示したショーウィンドウに注がれている。

「ごゆっくりお選びくださあい」

 ほとんど反射でお決まりの言葉を吐き出す。ササヤマ先生が僕をちらりと見て、またぺこりと頭を下げて食品サンプルへ視線を移す。
 散々見られた仕返しというわけでもないが、こちらを向いていないのをいいことに僕はササヤマ先生をじいっと見た。
 顔のあたりには視線をやらずに、焦点をぼかし気味に全体をなんとなく眺めるのが人間観察のコツだ。人間は案外自分に向けられる視線に鋭いから、不用意に顔面へ向かって視線をぐさぐさやるとすぐに気付かれる―と、小耳に挟んだことがある。真偽のほどは定かでない。
 伏し目がちにショーウィンドウを覗くササヤマ先生には色という色がない。髪や瞳は真っ黒、肌は血管が透けて見えるほど真っ白いし、身に着けているものもスーツの黒とシャツの白だけしかなく、ほとんどモノクロの世界の人間だ。僕は彼を見るといつも幽霊画だとか白黒テレビだとかを連想してしまう。これは彼に妙な雰囲気があるせいでもあった。
 しかし、この雰囲気≠焉A彼に苦手意識を持つ僕が勝手にいだいているに過ぎないのだろうとは思う。
 ササヤマ先生は清潔感のある恰好をしているし、学校の先生らしく姿勢がびしっとしていて綺麗だ。世間一般的には好感をいだく人のほうが多いだろう。僕みたいに腰が引ける人間のほうがむしろ珍しいに違いない。

 サンプルにじっくり目を通していた彼がふっと顔を上げた。それに合わせて、僕も彼に焦点を合わせる。黒々とした双眸が真っ直ぐに僕を貫いているのが見えて、咄嗟に目を逸らす。
 この、蜥蜴とかげのような真っ黒い目で瞬きもなくじっと覗かれるのが、どうしようもなく居心地が悪い。

―『あいだや特製弁当』をひとつ、お願いいたします」

 彼を苦手に思うことには変わりないが、はきはきとした口調でちゃんと品名を伝えてくれるところだけは好きだ。端くれながらも客商売に従事していると、商品をわかりやすく指し示してくれるお客さんは意外と稀有な存在だと思い知らされることが多い。

「かしこまりました〜。少々お時間いただきまあす」

 弁当の注文を受けてまず真っ先にすることは、レジに金額を手打ちすることである。日々のレジ打ちの賜物で、うちで取り扱っている品くらいは全て税込みの料金を把握しているからほとんど迷わずに数字を押せる。
 念のため金額の打ち込み間違いがないかだけを確認してから、僕は背後の戸口に首を突っ込んだ。後ろに控えている姉たちに注文を通すためだ。中では、あの引違戸ひきちがいどの耳障りな音ですでに来客の気配を悟っていたらしい長女が手を止めて、僕が承った注文を待っている。

「姉ちゃん、『特製』ひとつ」
「はい。すぐ出すから、先にお会計済ませちゃって」
「はあい」

 言いながらも勤勉な姉の手はすでに動き始めていて、わっぱ風の使い捨て弁当箱に手早く米や作り置きの総菜やらが詰め込まれていく。隣では次女が紙製のおしぼりと割り箸、それからあいだや≠フ文字が印刷されたレジ袋の準備を流れるように進めている。
 と、そこで長女が首をもたげて、呆れ顔で僕を軽く睨んだ。

―こらっ。ぼうっとしてないで、さっさと会計済ませる!」
「はいっ」

 ついのんびりと眺めてしまっていた。僕が気を抜いているのを僕よりも察知するのが上手い姉の優しい叱咤に慌てて頭を引っ込めて、レジへと向き直る。
 レジ前には依然折り目正しく佇むササヤマ先生がいて、キャッシュトレイにはすでに端数まで金額ぴったりの現金が置かれている。彼は基本的にいつも出せる限りの細かい金額で支払って、こちらが出すお釣りを最低限にしようとしてくれる。

「お会計、ちょうどですね〜」

 言い終わるとまるで図ったようなタイミングで僕の背後、作業台の前に構えられた厨房と繋がる小さな引戸が開いて、レジ袋に入った弁当がずずいと進み出た。それを受け取って、インスタント味噌汁も同じ袋に入れてから両手でササヤマ先生へ受け渡す。これぞ姉弟の絆で培われた鮮やかなるチームプレイ。僕はほとんどなにもしていないに等しいけれども。

「こちら、ご注文のお弁当でえす」
「はい。どうも、お世話様です」

 「ぴと」と思いがけず指先と指先が触れ合って、そのあまりの冷たさに内心竦んでしまう。
 金銭や商品のやり取りで手が触れてしまうたびに思うが、ササヤマ先生の手はやたらに冷たい。もう春先だというにも拘わらず、氷のような冷たさだ。多分、冷え性なのだろう。僕が彼を「蜥蜴とかげっぽい」と感じるのは、思うにこういった身体的特徴も影響している。
 こちらの体温まで奪い取られそうなほど冷えた肌に、思わずレジ下の収納に目をやりかけて―すぐさま正面を向く。
 ここの収納に使い捨ての懐炉かいろを入れっぱなしにしていたような気がしたが、時季も時季だし購入時期も随分前のことだしで、つい先日まとめて処分してしまったのだった。残っていれば常連さんサービスということでわけてあげようかとも思ったのだが、ないものは仕方がない。彼には凍えながら帰っていただくより外ない。

「ありがとうございました〜。お気をつけてお帰りくださあい」

 素知らぬふりで一礼、またお決まりの文句を口にして顔を上げる。
 ―異変に気付いたのは、それから少しもしないうちだ。いつもなら商品を手渡したあとはすぐさま店をあとにして帰路につくはずの彼は、なぜだかいつまでも立ち尽くしたままでレジの上を凝視している。
 不思議に思って目線を追っていくと、レジの上には彼が店にやってくる少し前まで読み込んでいたあの本が。

 ―しまった。

 背中に汗がじんわりと浮いたのが確かめないでもわかった。これはいけない、どうやらすっかり片付け忘れていたらしい。さすがに、お客さん相手にあからさまな暇潰しの痕跡を目の当たりにされてしまうのは大変によろしくない。

「あ、ああ、すみません。落としものなんです、これ。お預かりしてて……」
「私のものですね」
「はい?」

 慌てて本を隠しながら連ねた言葉に宛てられた返答の意図が読み取れずに、ほとんど反射的に訊ね返す。
 ササヤマ先生は僕の間抜けな相槌や二度手間に怒ることはなく、しかし愛想よくにこりとしてくれるということもなく、しめやかにもう一度繰り返した。

「その本、私のものです」
「……エッ……」
「ここに落としてしまっていたんですね。気付きませんでした」
「エエッ……」

 衝撃の事実に思いがけず消え入りそうな声がまろび出る。その上、半ば私物化していたところをこともあろうに本人に見られてしまったという動揺が余計に僕の頭を掻き回して思考がどんどん取っ散らかっていく。

「あ、あ、ええと……、す、すみません。勝手に読んじゃって。全然誰も取りに来ないんで、つい読み込んじゃって……すみません」
「…………」

 ち、沈黙が重くて怖いよ〜っ!
 下を向きたいわけでもないのに、とにかくこの場から逃れたくて頭がどんどん俯いていくのがわかる。家族からさんざっぱら甘やかされてすくすく育った打たれ弱い末っ子なので、明らかに自らに非があるとわかっているようなこの手の場面にはとことん弱い自覚が大いにある。

「こ、こういうの、ご興味あるんですねえ。意外でした」

 気まずさに堪えかねてつい口走るも、失言に失言を重ねただけだった。慌てて口元に手をやるも、一度吐いてしまった言葉を捕まえて元通り口の中へ収められるはずもない。
 言い訳のしようもない純然たる失態だ。こんなにも失礼をはたらいて、もしもこの場に長男がいたならばあとでこってり絞られていたに違いない。

「……興味、と言いますか、」

 だが、対するササヤマ先生の返しは僕の焦燥の裏をいった。僕の散々な物言いを気にした様子はこれっぽっちもない。なかったが、なにか少し言いにくそうに唇を引き結んだ。いつも聞き取りやすい声ではきはきと弁当を注文するササヤマ先生の姿しか知らない僕は、一時自らが演じた失態も忘れてぽかんと彼に見入ってしまう。
 ササヤマ先生の、いかにも温度のなさそうな白い指が彼自身の細い顎を「すり」と淡くなぞった。

「……ええ、そう……そうですね。ここ暫く、少し思うところがあって。私自身、こういったものにはあまり関心のある人間だとは思っていなかったのですが」
「へ、へえ……、新たな自分を発見ですねえ」
「ええ、そうですね。新発見でした」
「わあ、おめでとうございます〜」

 ―あれ? 意外と会話、弾んでない?

 へらへら口を利きながらも、自身の過ちに萎んでいた心が仄かな驚きで染め上げられていくのを感じる。
 ササヤマ先生は取っつきにくそうに見えて、意外にも話しかければ話しかけるだけ口を利いてくれるタイプだったらしい。二度も失礼をはたらいたなら三度もそれ以上も同じだろうと調子づいた僕は、さらに話題を深掘りしていく。

「ちなみに、その心境の変化っていうのは……好きな人ができたとか、そういうのですか?」
「……ええ、まあ、……はい」

 普段は血の気の失せた青褪めた頬が、今ばかりは血色よく仄赤い。
 なんだ、こうして話してみればきちんと人間らしい。それどころか恋に悩んでこんな本まで読み込むだなんて、中々どうして可愛げのある男じゃないか。すっかり彼に対する悪印象が消え去った僕は思いがけずにこにことした。

「……『恋の七秒ルール』についての項目は、もう目を通されましたか?」
「ああ、この本に書いてあったやつ」

 この鉄面皮からこんなファンシーな語句が飛び出してくるのが、今や面白くて仕方がない。

「読みましたよ〜。あれですよねえ、『恋心を錯覚させる魔法!』っていうやつ」

 記憶を手繰り寄せて、ついさっきまで読み込んでいた文面をそっくり頭の中へ呼び起こす。
 『恋心を錯覚させる魔法!』という小見出しの中に記されていた『恋の七秒ルール』などという法則。
 これはまず前提として、人間の脳は感情が先か、それとも行動が先かを上手く認識できないというのがあるそうだ。つまりどういうことかと言うと、人間は特定の人物が好き・・だから・・・その人・・・見つめて・・・・しまう・・・のか、それとも特定の人物を見つめた・・・・から・・その人・・・好き・・なった・・・のかが判断できないというのである。
 この脳と心理の結びつきを利用した法則が先述の『恋の七秒ルール』で、「七秒間見つめ合う時間を作ることで、意中の相手に恋心を錯覚させよう」ということらしい。
 正直、数々記載されていた中でもこれが一番眉唾ものだと感じたが、まさか実践していたのだろうか。

「試してみたんですか?」
「みました」

 試してみたんだ。

「へえ〜。効果、ありました?」

 続けて訊ねると、ササヤマ先生はあの黒々とした瞳で僕をじいっと見つめた。いつもはただ不気味で温度の感じられない目が、こんな話をしたあとだからかなんだか抒情的に思える。

「……では、いかがでしたか」
「はい?」
―私の七秒は、少しでもあなたに響きましたか?」

 彼のそのたったひと言で、これまで散々不気味がってきた熱烈な視線の全てが脳裏を過ってはひとつの閃きに結びついていく。

 まさか、あれは―。

「……ええと、つまりあなたは……僕に恋心を錯覚させたいと思ってる?」
「ええ、そうです」

 盛大に戸惑いながらも確信を得るために訊けば、ササヤマ先生は実にあっさりと首を縦に振って事もなげに続けた。

「いかがでしょう。恋心は錯覚できそうですか?」

 ―「できそうですか?」と訊かれても。

 あの不可解な注目に今まで少しだけ悩んできた気持ちや、それはそれとして他者から好かれること自体は悪くないような気がしている気持ち。そういう相反するようなしないような複雑な感情で、つい口元がもにょもにょとしてしまう。
 落ち着かなく、きょどきょどと足踏みを踏んでは無意味に身体の重心を変えてみる。それがなにかの逃避になるのかと言われれば、もちろんまったく以てそんなことはない。
 諦めにも似た決意をいだいて、僕は彼の目を真っ直ぐに覗いて口を開いた。

「さ、さすがに、これじゃ錯覚はできなさそうです」
「……それは残念」

 僕のやや消極的な拒絶の答えを受けてもササヤマ先生の表情はほとんど変わらなかった。変わりはしなかったものの、声の調子はワントーンばかり落ちたような気もする。
 対する僕は、先の言葉の続きを言うか言うまいか、この期に及んでまだ迷っていた。
 今はまだ口の中に含んで転がし続けている言葉は、ただの店員とお客さんというだけの僕たちの関係に恐らくなにかしらの変化を与えてしまうものだ。一度吐いてしまった言葉を捕まえて、また元通り口の中へ収めることなんて絶対にできやしないのだから。

「……で、でも、」
「……でも?」

 ササヤマ先生が鸚鵡返しに繰り返す。
 これまでの言葉を翻すような一節がまろび出たのは、決心がついたからではなかった。未だ揺らぎ続ける僕の心が、ただ一時的に言う≠フほうへ傾いたというだけだった。胸中を雲のような後悔に苛まれながらも、一度口にしてしまったからにはもう全て吐き出してしまう以外に道はない。

「そのう……、それとは関係なしに、ちょっとだけぐらつきはしました。僕は、僕のことが好きな人のことが好きなので……、あなたのことも、今かなり好きです」
「……それは……、良い情報をお聞かせいただけましたね」

 僕がおどおど告げた言葉に、ササヤマ先生は硬く強張ったような鉄面皮を一変させた。僅かにまなじりを下げて唇を綻ばせて、ぎゅっと閉じた蕾が陽光に少しだけ解されるかのように微笑んだ。

 ―ああ、変容だ。

 そう思った。
 瞬間、前触れなく背後の戸ががらりと開く。僕たちはふたり揃って肩をびくつかせながら思わず音のほうを向いた。

―申し訳ございません、お客様。うちの従業員が、なにか失礼をはたらいてしまいましたか」
「あ……、姉ちゃん」

 どうやら、いい加減長すぎるレジ対応になにかトラブルが起きていると思われたらしい。振り向いた先では、エプロンを脱いだ長女がいかにも申し訳なさげな表情を作って僕の背後に立っていた。




***



―あ、」

 少し耳障りな音を立てて開かれた、古びた引違戸ひきちがいどの奥から顔を覗かせた男に思いがけず声を上げてしまってから、僕は慌ててお決まりの文句を繰り出した。

「いらっしゃいませ。お仕事お疲れ様でえす」
「ありがとうございます。アイダさんも、お仕事お疲れ様です」
「いえいえ〜」

 あれからというもの、ササヤマ先生は変わらずうちの店に足を運んできてくれている。以前と比べて来店のペースに変化が起きたということもなく、これまでとほとんど変わりなくインスタントの味噌汁と弁当を買って立ち去っていく。
 ただ、僕たちの間での最低限以上の会話は少しだけ増えた。

「ちょっとした疑問なんですけど、」
「なんでしょう」

 僕が味噌汁と注文の弁当の金額を打ち込みながら業務外の言葉を切り出すと、ササヤマ先生も少しだけ砕けた感じで首を傾げる。

「ササヤマ先生って、なんで僕のこと好きになったんですか? なにか、そういうふうになる大事件とかありましたっけ? 正直なところ、僕は全然覚えてないんですけどお……」

 人が人を好きになるということは、中々一大事なのではないかと思う。生憎と僕はそういった経験に乏しいのでこれらの印象は全てフィクションから形成されたものだが、実際なんの切っ掛けもなしに恋に落ちるようなことは早々ないはずだ。

 僕の問いに、ササヤマ先生は長財布を開きながらけろっと答えた。

「あなたが私の落としものを拾ってくれて、それから私に懐炉かいろをくださったので」
「えっ、それだけで?
 ―いや、すみません。そんなふうに言っちゃうのも、ちょっと失礼ですよねえ」

 言われてみてもほとんど記憶にない。落としものの対応はたまにあることだし、懐炉かいろも手元にあってそのとき寒そうなお客さんがいればほいほいあげてきたから、これといって特別なやり取りとして記憶に刻まれていないのだろう。
 さすがに些か申し訳なくて縮こまる僕に、ササヤマ先生は不思議そうに両目を瞬かせた。

「……いいんです。私への親切など他愛のないことだと、そんなふうに当たり前に優しさを与えてくれるあなただから、好きになったんです」
「ええ? えへへ……、僕ってそんなに良い人間ですかねえ。まあ、そんなこともあるかも〜」
「そういう無邪気な素直さもアイダさんの美徳ですよね」

 長くて細い神経質そうな指が、手繰った小銭をキャッシュトレイに置いていく。金額の数え間違いがないようにだろう、小銭を重ねず広げて置いてくれるところに彼の為人ひととなりが反映されている。

「……初めこそ悩んだんです、これでも」

 ササヤマ先生が少し物憂げに目を伏せる。

「男同士ですし、変態だのアブノーマルだのと拒絶されてもおかしくないと思いました」
「そりゃびっくりはしましたけど、さすがにそこまでは」
「それに、私のような陰気な人間から好かれてもご迷惑だろうとも思ったのですが、」
「ですが?」
「あなたも私を好きになってくだされば、なにも問題はないことに気付きまして」
「ウーン、前向きだア」

 話しているうちに背後からレジ袋に入った弁当が出てくる。姉に小さくお礼を言ってから僕は袋を受け取って中にインスタントの味噌汁を入れた。

「それにしたって、なにも言わずにまじまじ人を見つめるのは言っちゃ悪いけどちょっと不気味だから、控えたほうがいいですよ〜。僕、こうやって話すようになるまでササヤマ先生のこと、ちょっと怖かったもんな」
「ああ、やはりそうだったんですね。私が見つめるたびにアイダさんの顔が心なしかどんどん曇っていくので、私も内心これはあまりいい方法ではないのかもしれないとは思っていたんです」

 気付いてたんかい。

「……ウーン。なんというか、僕も恋愛や対人関係のテクニックがあるわけじゃないけど、そういうことするならもっと自然な感じでやらなくちゃ、と思いますよ」
「なるほど……。言葉ではよくわからないので、試しに私に対して実演お願いできますか?」
「やらないけど……」
「残念です」


―――
23/04/19


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