砂に根差すは悪辣の華_後編



【リクエスト内容(要約)】
 共有した創作設定をもとにした夢小説。

これの続き





 ナマエが連ねる退屈な雑音を適当に聞き流しながら、グリードは思考を巡らせる。

 かねてよりグリードが追い続けてきた男―アシュレイは、自らも異形の出自でありながらなにをとち狂ったか世に存在する全てのフィアスの殲滅・・をのみ目的として各地を渡り歩いている狂獣だ。かつてグリードとアシュレイが拳と剣を交えたのも、アシュレイのそのイカれた自傷趣味のためだった。
 がこんな辺鄙な村をわざわざ訪れたということは、この村にはフィアスがいたのだろう。そうであるなら、ナマエにマーキングのごとくべったりと染みついたにおいにも得心がいく。
 実際、人里を縄張りとして住み着くフィアスの噂をグリードはひとつふたつと耳にしたことがあった。それだけに留まらず自分自身で村をおこして人間共と暮らしているようなフィアスとも彼は面識がある。
 自らも含め、界獣イネインと呼ばれる者共に人間に害を成して罪悪感を覚えるような奇特な輩は、グリードの知る限りアシュレイ以外にはいない。むしろ喜んで弱者を甚振るような奴らのほうが多い。
 グリードはナマエの傷つきつつも整った形をした顔をじいと見る。
 ナマエは一切口にもしないが、彼女の目元に深く刻まれた傷はフィアスによって受けたものなのだろう。知能なき獣の類いに負わされたにしては傷口に理性ある悪意と害意が感じ取れる。
 不思議なのは、ここまでの傷を負わされるような事態に陥りながらも、この女がほとんど五体満足のまま生き永らえさせられていたということだ。それも、未だ身から離れぬにおいを纏わせるほどフィアスの傍に置かれながらにして。
 傷の具合からして、これは昨日今日でこさえたようなものではないはずだ。見積もって十数年は固いだろう。
 グリードは顔馴染みの御嬢気取りのフィアスの顔をふと思い出す。
 奴のように、人間が苦しみ藻掻き続ける姿を見ることこそが喜びで生き甲斐のような趣味の悪い奴もいることにはいる。
 この手の奴は獲物をひと思いに仕留めない。どんな手段を用いれば哀れな被食者が恐怖し生にしがみつくかを熟知しており、悲嘆と苦痛をいかに長く楽しみ続けるかを第一に考える。
 だがナマエは至って呑気だ。長きに渡って陰湿かつ執拗に虐め抜かれたような様子は少しも窺えない。

 ―また不自然が顔を出しやがる。

 グリードは浅く息を吐くと、豊かな赤髪の中に大きな手を差し入れてがしがしと掻き毟った。
 ナマエについてそれらしく辻褄を合わせて考えようとすると、どうしても最後には巨大な不自然が立ちはだかってグリードの思考をばらばらに突き崩す。戦闘という場以外で頭を回すのを好まない彼にとって、ナマエという女は不毛かつ徒労の象徴のような存在であった。
 ―そう。つまらなく退屈で、七面倒な女だ。それが、どうしてこうも気にかかるのだろう。
 グリードのため息を気にしてか、ナマエが白っぽい目でちらりと彼を見上げる。
 ナマエはいつからか包帯を外してグリードを待つようになった。グリードが家にいる限りはそうして包帯を手に持っていて、立ち去っていく頃になるとまた目元へ巻きつける。
 彼女がなにを考えてそんな無駄な行為を繰り返すのかは、グリードにはわからない。目が潰れているのなら、包帯を取ろうが取るまいがなにも変わりなくただ暗闇が見えるだけだというのに。
 それをどこか悪く思わない自分がいるわけさえ、彼にはなにもわからないのだ。

 ―さく、と。
 そんなときだった。家の外で、砂が踏み潰される音がしたのは。

 ナマエの家に人が訪ねてくることはそうない。せいぜいが数日置きに、村の男が水と食糧を持って訪ねてくるだけ。
 視線を転がして、グリードは壁の脇にくったりと置かれた袋を見る。その男もつい昨日訪ねてきたばかりだ。

―人が来る」

 珍しい、と思ってつい察知した感覚そのままの事実が口をついて出た。
 ナマエがぱっと顔を上げる。肌がどこか青黒く表情は些か険しい。冴えない顔色のままで彼女はグリードに言う。

「奥へ行って」
「あァ?」

 切り捨てるような声音だった。ナマエが短く言うのを聞き取れなかったわけではないが、あまりに突然のことで訊き返してしまう。
 するとナマエは、恐らく彼女なりの精いっぱいの力でグリードの硬く変質して鱗の生えた巨大な手を「ぎゅっ!」と掴んだ。ナマエに触れられるのはこれが初めてのことだった。

「奥へ行って、隠れてったら! ご飯なんていくらでもあげるし、私の寝室に入ってもいいから! いいこと? 顔を見せたりしたら、絶対に許さないわよ!」

 グリードはこれに幾許いくばくかの驚きを覚えた。ナマエの手はあからさまに彼の人ならざる部位に触れているにも関わらず、さして驚いたような様子もない。どうやらすでに彼が人外の者であると悟っていたようだ。
 ―それでいて、あんな口を利くのか。
 なにかが頭の内側で渦巻いているのを感じる。大いなる渦に揉みくちゃにされて呆けるばかりのグリードは、せっかく「好きにしてもよい」と言質を取った食糧が詰まった麻袋も拾えずに、ナマエが指差す寝室の戸を開けることしかできなかった。
 グリードが寝室の戸を閉じると同時に、家のドアが力強く叩かれる。あの、握り拳を叩きつける音だ。薄く戸を開けて、グリードは寝室から戸口のほうを覗き込む。ナマエが手早く目元へ包帯を巻き直す。間を置かずにもう一度、二度とノックがあって、その後にナマエの返事も待たずにドアが開かれた。
 薄暗い屋内とは一転、煌々と明るい外から不釣り合いな影を伸ばすように、男がぬうっと中へ入ってくる。

「……誰かと話してなかったか?」

 つい昨日も見たばかりの顔をぶら下げて、入りざまに男が訪ねる。いつもナマエの家に水だの食糧だのを運んでくる男だ。今日ばかりは、手荷物はなにもない。戦う術を持たない人間に対しての興味が薄いグリードは、いつもこの男しかナマエの元に食糧を運んでくる者がないということに今になって気が付いた。

「そんなわけないでしょ。ここへはほとんど誰も来やしないのに」

 ナマエは椅子から立ち上がりもしないで冷たく言う。

「ただひとり訪ねてくるあなただって、必要なとき以外には来ないじゃない? そんな状態でいったい誰と話をするっていうのよ」
「それは、」
「なにを言いたいのかはわからないけど、結構よ。私は現状に不満なんてないもの。あなたたちとは必要最低限以上の口は利きたくないし、顔を合わせたくもないの。これからも、そうやって必要以上に訪ねてこないでおいてもらえるとありがたいわね」

 重苦しい沈黙が降りて、一寸なんの音もしなくなる。男の日焼けた浅黒い肌を砂混じりの濁った汗が滑り落ちる。

―それで?」

 つまらなさそうに緩く首を横に振ったナマエは続けて問う。

「必要もないのにわざわざこんなところまで訪ねてきたあなたは、いったいなんの用だっていうの? ……面倒ばかりの私を、口減らしに殺しにでも来た?」
「そんなわけないだろ!」

 ぎこちなく黙り込むばかりだった男が、こればかりは激しく狼狽して否定する。ナマエはうんざりしているようだった。

「じゃあ、なんなのよ」
「君の家で、話し声を聞いた奴がいたって……。その、もし妙な奴に入り浸られているようなら心配だなって」
「余計なお世話よ」

 ぴしゃりと切って捨てる言葉に男は怖気づいたらしい。息を飲むように、また口を噤んだ。

「この家には私以外いないし、仮にいたところであなたにはなんの関係もない。だいたいあなたたちが腫れもの扱いで私をここへ押し込めたくせに、今さら誰が私なんかに会いに来るっていうのよ。
 ……ねえ、もう用も気も済んだ? それなら、とっとと出ていってちょうだい。きちんとドアは閉めてよね」

 仮にも日々施しを受けている立場にありながらナマエはなんの手心もない。背に照り付ける陽射しを浴びて、力なく項垂れる男の俯けた顔は黒い。
 ナマエの筋の通った理屈とも感情的な罵倒ともつかぬ言葉を受けて萎れていたと思いきや、男は唐突に顔を上げて光のない真っ黒い双眸で椅子に座すちっぽけな彼女をじいと見つめる。その視線をナマエが見ることは不可能だったはずだが、彼女は確かにたじろいで細い首筋を緊張に波立たせた。

「……そう。そうだよな。今さら俺以外の奴らが君に会いに来るはずもないんだ。こんな、―傷だらけの汚い君なんかに」

 妙に甘ったるい声色だった。ナマエの肘掛けに凭れさせた細腕が痙攣するようにほんの一瞬だけ震える。
 男が床へ膝をついてなにかを拾い上げる。ナマエには当然見えなかっただろうが、グリードにはよく見えた。男の指が嫌そうに、赤く長い毛をつまみ上げたのが。

「……私は、話を続けろ≠チて言ったんじゃなくて、出ていけ≠チて言ったのよ。聞こえなかった?」

 ナマエの強気な言葉尻がささやかに震える。男は構わず話し続けて一歩、また一歩とナマエへ歩み寄る。

「小さい頃、男はみんな綺麗な君のことが好きだったんだ。気付いてたよな?」

 徐々に近付きつつある気配を暗闇の中においても察知したナマエは椅子を蹴倒す勢いで立ち上がって距離を取ろうとする。だがそれよりも素早く男はナマエの腕を鷲掴みにして彼女を制した。

「君は相手にもしてくれなかったけど……。でも今は、汚い君をみんなが目に入れたくないって顔を背けてる、―俺以外は」
「ちょっと―!」

 男が、ナマエを力任せに引き倒す。けたたましい音を立ててナマエは床に転がった。
 非力な女の必死の抵抗は男の無体に対してなんの影響も及ぼさない。男はナマエの身体の上に乗り上げると、スカートをわしりと乱暴に掴んでたくし上げる。
 そうして露わになったのは無数の傷、傷、傷―。むっちりとした脚に幾重にも刻まれた、惨たらしい暴虐の痕であった。
 それを男はさも愛おしげに細めた目でじっとり見つめてから、手のひらでまあるく撫でた。うっとりと表情を綻ばせて、歪んだ頬を柔らかな腿へ擦り寄せる。
 ナマエが激しい嫌悪感に柳眉を顰めて歯を食い縛る。彼女の生成きなり色をした綿の下着の上から男の親指が秘められた場所へきゅうと食い込む。蒸れて汗ばんだ女の柔肌がつやつやとしている。

「……ああ、よかった」

 男の、熱っぽいため息混じりの声。

「君は今日も汚いままだね。もう俺以外には誰も愛さない、傷だらけで可哀想な君のままだ」

 それで、グリードはもう堪えかねた。
 なにが我慢ならなかったのかは、彼にはよくわからない。
 ただ衝動のままに喉に力を込めると、口をぱかりと開けて鋭く研ぎ澄まされた咆哮≠
 すると男は全身を大袈裟なほどに震わせて身を起こし、恐怖に青褪めた顔で辺りを忙しなく見渡す。深い混乱を極めた表情で、そのまま走り去っていった。突如として慌てふためき逃げ去った男に、ナマエはただただきょとんとしている。
 ―これこそが、グリードの異能たる咆哮ハイパー・ヴォイスである。用途に応じて特殊な周波数を使いわけ、さまざまな効能を齎す声を対象者へ正確無比に飛ばす力を彼は有している。だが、これはグリードにとっては卑怯な手に当たる力だ。自らの腕力によるものでない力など小賢しく、己がこのような異能を持つことさえ堪え難い。
 だというのに。

 普段の闘いにおいては頭にすらないこの力を、いったいどうして今ばかりは使ってしまったのだろうか。

 ちらりと過る疑問はそのままに、グリードは寝室から這い出てナマエの傍へ寄る。
 ナマエは、未だ身体を起こすことさえできずにくたりと床に転がっている。
 決して助けてやろうなどと思ったわけではないが、ひとつの気紛れがグリードの中ではたらいた。自分の四つあるうちの腕一本ぐらいは、意味もなくナマエのほうへ伸ばしてやるのもわけはないと思った。
 誰に向けているのか言い訳を繰り返しながらナマエに歩み寄るグリードの視界に、彼女の肌蹴させたままの素肌の脚が飛び込んでくる。
 長い裾の中に閉じ込められていた女の甘い匂いと熱が、グリードのほうへまで漂い来るようだった。着痩せする質らしく、むっちりと肉付きのよい腿にはやはりおびただしい数の傷がある。目元のものと同様、この傷をくれてやった者の含みを感じる傷だ。
 咬まれたか引っ掻かれたか。傷は股の付け根へ向かうほど執拗に刻まれており、その様子がグリードに悪趣味な性行為のさまを想起させた。

 華奢な女の肉を組み敷いて、我が物顔でここ・・に傷を与えた雄≠ェいる。

 なにか、胸糞が悪くて仕方がなかった。
 なにかが、許し難かった。
 愛着などこれまでに懐いた覚えもない。なにかを愛でる気持ちも自らの手元へ置きたいと固執する気持ちも、未だかつて持ったことはない。
 ただグリードはそのとき、自分に懐く野良猫の首に後生大事に嵌め込まれた古びた首輪を目の当たりにしてしまったような気になった。

「……グリード……?」

 さすがに少し手を伸ばせば触れ合えそうな距離にまで寄ってグリードの気配に気付いたナマエが、グリードから少しずれた虚空のほうへ顔を上げる。

「もしかして、あなたが助けてくれたの? ……ねえ? ちょっと、聞いてる?」

 グリードはナマエの問いかけに答えなかった。
 なにも答えず大きな背を丸めると、彼女の股座またぐらの傷に顔を寄せて青い舌でべろりと舐め上げた。

「グリード!?」

 いたく驚いた様子のナマエの、悲鳴染みた声が上がる。
 それでもグリードは彼女に構わない。深々とある内腿の傷を舌でなぞり、普段の彼の振る舞いからしてみれば驚くべきほどの慎重さでもって肉を柔く唇で食む。
 するとナマエはぴくんと内腿を震わせて、グリードの膝のあたりを爪先でくうっと押した。「妙な真似をするな」という意思表示だろう。だがこんな女の言うことを聞いてやる謂れはなかったから、グリードはなおも彼女の股座またぐらに好き勝手に吸い付いた。
 ナマエもまた譲らず、スカート越しに手のひらでグリードの鼻っ面を押しやろうとしたり、柔らかい太股で顔をきゅうと締め付けたりと懸命に抵抗を繰り返すものの、そのどれもが彼の行動を押し留めるには至らない。
 ぺちゃり、ぴちゃりと唾液と舌が素肌の上で湿った音を奏でる。グリードの頭上から、色と熱の宿った吐息が差し迫るように断続的に上がる。
 獣が己や他者の傷を舐めるのは、実に本能的な反応だ。
 今では広く知られた話だが、唾液には極少量ではあるものの殺菌作用のある微生物や酵素が存在しており、また舐める≠ニいう行為自体そのものには鎮静作用がある。獣は誰に教わらずとも自己や他者の身をたすく術を知っているのだ。
 ―だがしかし、今はそんな野生の知恵は無関係である。すでに塞がって久しい傷に対して唾液の殺菌作用もなにもない。
 ひたひたと舌を這わせるグリード自身にさえ、この行動の意図はわからなかった。ただわけのわからぬ激しい情動がゆえに衝き動かされて、この行為によって己の内で攻撃的に渦を巻く感情が徐々に鎮まっていくのを感じていた。
 グリードが舌を差し伸べていたのはナマエの肌などではなく、その実、己の胸の内であったのかもしれない。
 絶えず抵抗を繰り返すナマエの脚が、たたたん、とやけにリズミカルにグリードの肩や胸、腹を蹴る。そんな軽い蹴りではグリードの鍛えに鍛え上げられた鋼のごとし肉体は微動だにしないが、散々傷の上から唾液をまぶして些かの満足を覚えた彼はようやくナマエを解放してやることにした。
 頬を染め、息を荒らげたナマエがグリードをじろりと睨む。

「私に変な期待・・をされたくないんだったら、こんなこと、二度とするんじゃないわよ」

 ナマエがのたのたとグリードの身体の下から這い出す。拍子に捲れ上がっていたスカートの裾が降りて、腿が覆い隠される。

「もう、相変わらず礼儀もなければ恩情を感じるような心もないのね。せっかくあなたを匿ってあげた私に、こんな真似をして」
「オレサマがいつテメェに助けろ≠チて言ったよ」
「言われてもないのに親切心をはたらかせてあげたのよ。百ぺんお礼を言われたって足りないわ」
「テメェが助けたがってたのは、本当にオレだったのかよ?」

 グリードの切り返しに、ナマエはぴたりと口を閉ざした。
 ナマエはグリードが人でないと気付いていた。恐らくはフィアスであることさえ察していたのだ。そんなグリードに対して「守る」も「匿う」もおかしな話だ。フィアスであるグリードが人知を超越した力を持つことを彼女は知っていたはずだし、その気になれば人に害を成すことなどわけはないということも身を以て理解していたはずだ。
 ナマエがあれだけ懸命にグリードを秘匿したのには、なにか別の意図がある。そしてそれは、恐らく彼女自身のためだった。

「……そうね。別に、あなたのためにあれこれしてあげたんじゃないわ」

 軽く問い詰めると、ナマエはあっさり白状した。元々隠し立てするつもりもなかったのかもしれない。
 床へ座り込んだままでいるナマエの彫の深い鼻梁が作り出す影が、一層深みを増す。

「それから……悪かったわね。を見せて。さすがのあなたも、多少は驚いたでしょ。それとも、化物のあなたにとっては、慣れっこだったりするの?」

 ナマエは取り繕った笑みを浮かべようとして失敗したらしい。引き攣ったように口元を裂けさせてから、諦めたのか、すとんと表情をなくす。
 少しだけ惑うように首を振ってから、彼女はぺたんとへたり込んだ膝元の裾を抓んで、ゆっくりとスカートを持ち上げて見せた。もちろんスカートの中身が先ほど目の当たりにした光景と途端様変わりするはずもなく、唾液で光る艶のあるチョコレート色の腿には依然として惨たらしい傷が無数に刻まれている。

「……こういう、傷は」

 彼は、一瞬だけ本当にこの女を食らってやろうかと思った。
 思ったが、なんとなく食指が動かないような心地もしていた。
 あのむちりとして深みのある色をしたはだに爪や牙を突き立てて深々と傷を与えてやりたいという激しい衝動に偽りはなかった。なかったが―それ以上のこと、柔肉を咀嚼し飲み下してやりたいとまではちらとも思わなかった。
 経験のない妙な食欲が、彼の中に沸々と沸き上がっていた。

「フィアスって、みんなこんなふうに気軽に人里に寄りつくものなの? あのレイっていう男―あなたは、アシュレイって呼んだかしら? ともかく彼も、人間じゃなかった気がするの。人らしくない音がしたから」

 グリードの胸中に起こった感情の波など露知らず、ナマエは努めて普段通りに世間話に興じようとする。

「この村にずっといたフィアスも、レイやあなたみたいにある日突然やってきたのよ。すぐそこの近所にふらりと立ち寄るみたいに、本当に気軽にね」
「やっぱりここには、」
「なんだ、気付いてたの? フィアス同士、なにか通ずるものでもあるのかしら。不思議ね」

 グリードがこの地を縄張りとしていたフィアスがいたであろうことを確信したのは、ナマエに今もなお染みついているあのにおいのせいだ。
 だが、グリードがそれを口に出すことはなかった。無意識に噛み締めた奥歯からなにか苦い味が広がるような気がして、彼は顔を顰める。

「もう十二、三年前にもなるかしらね。それからほんの数週間前までは、ずっとここにいたのよ。どこから聞きつけてきたのか、 アシュレイあの男がやってきてあいつを殺しちゃうまでは、ずうっとね。
 ―この話、興味ある?」
「ねェよ」

 なににつけても生返事しか寄越さなかったグリードの密やかな関心に気付いたらしい。反射的に否定したものの、どんな答えがあろうとも―もしかすると答えがなくとも―「この話をしてやろう」と決めていたらしい。ナマエはグリードの返答をして意に介した様子もなく滔々とうとうと語り始めた。

「あなたよりも愛想のあるヒトではあったけど、名前は教えてくれなかった。もしかしたら、元々名前なんて持ってなかったのかもね。私たちには『これから自分を御館様と呼ぶように』なんて言ってたわ。笑っちゃうわよね。―」

 始まりは十数年前。まだオアシスが枯れずにあり、ナマエが年端もいかぬ少女であった頃。界獣イネイン跋扈ばっこする世で平和など所詮仮初に過ぎぬと嘲笑うかのように、そのフィアスは突如として現れたのだという。
 のフィアスは当時村長の住まいであった、村で一番大きな家に我が物顔で住み着いた。もちろん、そこに住んでいた人々を残らず殺し尽くしてから。己を御館様≠ニ呼べなどと言い出したのはそれからのことだったらしい。
 御館様≠ヘ大層な女好きであったという。女を犯して、その肉を食らうことをなにより好んでいたのだ。
 女とくれば見境なしで、この村で初めて味わう女としてまず初めにナマエを呼びつけた。これに反発したのは彼女の父親だ。「尊厳を踏み躙られながら殺されるとわかって、愛する娘を差し出すことはできない」と彼は村人らに協力を募った。
 しかし―。

「言ってしまえば簡単な話よね。逆らってみんな殺されちゃうか、余所よその娘ひとり差し出して束の間の平和を得るか、どちらを選ぶかって話よ」

 彼の呼びかけに、臆病な村人たちが決起することはなかった。結局ナマエの父は無謀にもただひとりフィアスに挑み、そして彼女の目の前で殺された。

「恨んでない≠ネんて言ったら、そりゃあ嘘になるわよ。でもね、仕方ないじゃない?」

 本当に大したことがないような口ぶりで、ナマエは肉親の死を語る。

「『生きるので精いっぱい』だったんですってよ。だから私なんかのために父さんに加勢してくれる人なんて、誰もいなかった。自分たちが生きる以上のことなんて、する余裕がないからね」

 ふっと言葉が切られる。静寂の中で、ナマエが彼女自身の脳内にある記憶の戸をひとつひとつ押し開けていくような気配がする。

「だからねえ、私も

 ナマエが美々しく薄ら笑う。紅唇は至って艶やかで、まるで毒を孕んでいるように鮮やかだ。

「御館様はね、あんなことまでしておいて私のこと、好きになっちゃったんですって。私をずっと生かして傍に置いて、私のためならなんでもしてやりたいなんて言ってらした。私、そのとき思ったわ。『ああ、フィアスって頭のおかしい奴なんだ』って。
 でも、あの方もあれで中々お優しいもんでね、最初に思っていたよりもずっと私を大事にしてくれたわ」
「おヤサシイ? 御目出度ェ女だな。そうまでされておいて、よくもそんな戯言がほざけたもんだ。イカレ頭同士、お似合いじゃねェか」

 ナマエは反論もせずにただ笑う。彼女が例のフィアスを少しも恨んだ様子がないのが、妙に気に障った。

「それまで知らなかったんだけど、感情って有限なのよね。限りがあるのよ。私の恨みは、私と私の父さんに寄り添ってくれなかった村人あいつらのぶんだけで使い切ってしまって、もう余所よそへ向けるぶんなんて残ってなかったの。我ながら理不尽よね。
 だから、そうね。きっと私も頭がおかしくなってたんだわ」

 ナマエを館≠ヨ呼びつけてからもフィアスの欲は留まることを知らず、必ずふた月にひとり、村の女を連れ去っては犯し食らったという。ナマエの「それでは村の女はすぐにみな死んでしまう」との進言≠ナふた月にひとり≠ェすぐに半年にひとり≠ニ変わったようだったが、フィアスは村の女を犯して食うこと自体はやめなかった。

「私ね、それ・・を横で見てるよう言われたこともあるわ。自分が優しくするのは他の誰でもない私だけだってところを見せたかったみたい。その頃には私の目は潰されてて、もうなにも見えなかったって言うのにね」

 事もなげに言うナマエの言葉からどんどん露呈していくフィアスの趣味の悪さ。そしてそれは同時にグリードの目の前にいる女の悪辣さをもつまびらかにしていく。

「御館様はね、みんな殺しちゃうの。マ、界獣イネインってそういうもんよね。でもね、それでもあの方、『どうしてもお前のことだけは可愛くって殺したくない』って、『お前に愛されたい』なんて言うんで、あの方以外と口を利いたり、館≠フ外に出たりする以外なら思いつく限りなんでも我儘をきいてもらったわ。
 ねえ、わかる? あの方、私が『村の奴らを殺して食べるのをやめて』ってお願いすれば、きっと言うことをきいてくれたのよ」

 だが、ナマエはそうはしなかったのだろう。

「でもねえ、そんなのは仮定の話で、実際のところはどうなのかって、わからないじゃない? 私が気に入られているのは事実だったけど、あんまり度を過ぎれば『生意気な娘だ』って殺されてしまっても不思議はないし。
 結局のところ、私はあの方のご機嫌を取って、そうやって自分が生きるのだけで精いっぱい≠セったのよね。他の女の子たちのことなんて、知ったこっちゃなかったの。だから―」

 必死に己に助けを求める女たちを、ひとり残らず見殺しにした。
 ナマエは静かに、しかしやけにきっぱりとした口調でそう言った。

「村の奴らは……、」
「知らないんでしょうね、なにも」

 くすくすと笑うナマエは媚びるように小首を傾いでグリードを見上げてみせた。彼は包帯越しにも彼女の白い星の両目が見開かれていることを感じ取っていた。

「むしろ私が慰み者になりながらも身を挺して御館様に交渉を持ち掛けて、村の人間たちを庇い続けてきたんだと思ってるみたい。マ、そうね。ある意味では、そういう見方も間違ってはないかもしれないわね」

 ナマエの目元と下肢には数多もの傷が刻まれている。だがそのどれもが遠い過去に刻まれた古びた傷で、真新しいものはひとつもないことをグリードは図らずもこの目で確かめてしまった。
 だからこそわかる。フィアスが己を決して傷付けないという絶対の確信が、ナマエには確実にあった。ナマエは自らに寄せられるフィアスの関心を利用して、できるだけ長く村人たちに苦しみを与えたいという意図があった。
 全ては、過去の裏切り≠ノ対する復讐がために。
 ―それはなんと。
 なんと純粋で、邪悪なることか。

「……ねえ、さっきは内緒にしてたけど、お肉は今日渡したぶんが最後でもうないの」

 スカートを正して、ナマエがすっくと立ち上がる。萎えた脚は急激な運動にやはり蹌踉よろめいたが、彼女の中には自ら地に足をつけて立つという確固たる意志が窺えた。
 ナマエはすたすたと歩くと壁際にある麻袋を引っ掴んで、その口を躊躇いもなく逆さまにした。床へは豆だのなんだのがばらばらころころと転がるばかりで、ここ暫くグリードが散々噛み千切ってきた干し肉はもうひとつもない。

「またそのうち獣を仕留めることがあれば、あの男がうちまで持ってきてくれるかもしれないけど……案外律義なあなたでも、さすがにそれまで待ってくれたりはしないでしょ?」

 グリードの気を多少惹いた肉はもうない。懐いた疑問もすでに晴れた。もうナマエの元へ足繁く通う理由などなにひとつとしてない。
 そうと知りながら、いったいなにがこうまで己の後ろ髪を引くのだろう。

 彼女の目元を覆い隠す包帯がなぜだか煩わしく、手を伸ばす。ナマエは身動ぎもしなかった。ただ少しだけ細い顎を上向けて、くびを差し出すようにグリードへ顔を寄せた。
 取り払った包帯の下から現れた瞬く星のごとき白い瞳は、見えもしないくせにグリードを真っ直ぐに見つめている。

「ねえ、グリード。あなた、私のことを食べたいって思う?」

 言ってナマエがグリードの変質に変質を重ねた異形の手へ頬を擦り寄せ唇を落とす。

「そう思う気持ちが少しでもあるなら私のこと、食べてもいいわ。あなたがあの男を酷く脅かしたせいで、もしかしたらもう誰も私の家に食糧や水を届けになんて来ないかもしれないし、きっと今が一番美味しいわよ」

 彼女の媚びる態度には慣れがあった。たった数週間前までは、グリードの見も知らぬフィアスの手にもこうしてじゃれついていたのだろう。

―でもね、」

 がり、と。
 白い歯が力いっぱいにグリードの手の甲に突き立てられる。痛みという痛みはなかったが、小さな歯は彼の皮膚を僅か突き破り、どろりと血が溢れ出す。
 口中に流れ込む鉄錆の味に眉を小さくひそめる彼女は、のフィアスに歯向かったことは恐らく一度としてなかったのだ。

「私みたいな女の肉を食べたくないって言うなら、殺すか連れていくか、どちらかでもして。ここでじめじめと暮らしていくだけの生活は、いい加減うんざりなの」

 グリードは少しだけ考えた。なにを考えようとしたかもわからないが、とにかく思考はぐるりと一回転して―。

「オレサマを匿おうとしやがった、ちゃんとした理由を聞かせろ」

 そして、気付けばそんなことを口走っていた。

「なんだ、そんなこと」

 ナマエはあっけらかんとして言う。

「だってせっかく仕返ししてやったのに、あなたを見られてまた『生きるので精いっぱいだったんだ』なんて言われて背を向けられちゃ、腹が立つじゃないのよ」

 そう微笑む女を、グリードは今でこそ強かだと強く感じる。彼女を構成する肉体こそ弱いが、確かになにかが強い女だった。
 彼女の花のようなほっそりとした指が、まるで砂の中にあってもその幹が立ち枯れてもしっかと根付き続ける老老獪ろうかいな大樹のように見えた。

「でも勘違いしないでちょうだいね。あなたのことを好きだと思わなきゃ、そもそもこんなふうに何度も引き留めたりしなかったわ。
 言ったでしょ。『こんなに話をしたのは久しぶり』って。御館様は私以上の話したがりだったし、外に出られるようになってからも村の奴らとは話したくもないしで、ずっとむずむずしてたのよ」

 先ほどナマエが噛みついた傷は疾うに跡形もなく塞がっている。同種から受けた傷でもなければ多少の傷はたちどころに治るのだ。もうグリードのはだには少量の血液しか彼の負った傷を証明するものはない。
 その血を、労わるようにナマエは舐め取った。自らが血を流させたくせに。

「私ね、父さんみたいに私の話をたくさん聞いてくれて、御館様みたいに殺しても死なないような男が好きなの。御館様は結局死んじゃったけれど……。
 だから、私の目の前でこうして生きているあなたが今一番好きよ、グリード」

 目映く耀く目を細め、頬を淡く染めて笑うナマエへ向けて、グリードは異形の手を伸ばす。彼女を今この場で食らい尽くすか、手にかけるか、―それとも攫っていくか。
 グリードの心は、すでに決まっていた。


―――
23/03/09


(管理人:瀬々里様)
 今回お邪魔させていただきました創作世界はこちらのサイト様にて閲覧可能です。ご厚意に甘えてリンクを貼らせていただいております。迷惑行為はおやめください。


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