君に祝福は宿っているか



【リクエスト内容(一部抜粋)】
 主人公はクラスメートで、優しくて親切な彼女に片想いをしている設定。ヴァ二ッシュにはすでに好きな人(特別な人)がいるため実は眼中にもない……というような感じ





『恋を結ぶ天使たち』




 人はね、だれかを目の前にすると胸が鐘を鳴らすようにどきどきして、頬がバラのように赤くなることがあるんだ。
 その理由を、きみはなぜだか知っているかい?

 ……知らない?
 それならおしえてあげよう。
 ないしょ、ないしょのお話だ。
 きみにだけ、そう、きみにだけにそっとおしえてあげるんだよ。

 胸が鐘を鳴らすようにどきどきして、頬がバラのように赤くなる、その理由。

 それはね、人々に恋の祝福をさずけるふたりの天使が、その人の心臓と頬にそれぞれキスを贈ったからなんだ。

 天使の祝福を受けた心臓と頬は、その人の運命の相手をひと目でそうと見わける力を持つのさ。

 ウソだって思うかい?
 そんなこと、あるはずないって?
 でもね、いつかぼくの言うことが本当だって、きみにもわかるはずだよ。

 すぐ明日かもしれない。
 とってもとおい未来かもしれない。
 その日がいつおとずれるかは、だれにもわからない。

 だけど、きみのもとへも必ず天使様が舞い降りて、キスをしてくれる。

 そうして天使様の祝福を宿したその小さな心とかわいいほっぺは、きみにそっとささやきかけて、おしえてくれるのさ。

 きみの、運命の人をね。





君に祝福は宿っているか




 ―憧れの始まりがどこからだったかは、よく覚えていない。
 パパが描いてくれた絵本を読み聞かせてもらっていたときかもしれないし、ママが遺してくれた衣装箪笥をこっそり開けて中を覗いて見たときかもしれない。
 ……ううん、もしかしたら、本当は切っ掛けなんてなにもなかったのかも。

 フリルをたっぷりあしらったボンネットに、たくさんのレースがついたワンピースドレス。
 雪よりも白い肌に天使の口づけを受けた赤い頬、それに金色の巻き毛をしたお人形。
 ピンク、オレンジ、水色、ふわふわ柔らかい花びらをいっぱいに広げて日溜りの中で煌めく色とりどりのお花たち。

 ほんの小さな頃から、そんな綺麗なものや可愛いものが大好きだった。

 自分の思う素敵なものに囲まれて、自分自身もまたそんな素敵なものたちのようになれたなら。いつしかそんな思いが募り出すのは、お日様が昇ると朝が来て、お月様が眠りから目覚めると夜が来るのだと言うくらいに当然の帰結だった。

「パパ、『我が儘を言って』って、怒らないでくれる? あのね……、本当はこういうお洋服じゃなくて、あの子たちが着ていたみたいな、ふわふわのお洋服がほしいの」

 たったふたりで住むお家への帰り道。道中の花畑で見たお姫様みたいなドレスを着た女の子たちの姿が忘れられずにそっと切り出すと、パパは少しだけ驚いた顔をして、それから頭を撫でてくれた。

「ナマエは、ああいうお洋服が好きだったんだね」
「い……いつものお洋服がいやなんじゃないよ……」
「大丈夫、わかっているとも」

 いつも着ているお洋服は、パパが買ってきてくれていた。男の子たちとの駆けっこにも負けないような、動きやすいお洋服。絵本を描くのに忙しい中で一生懸命悩んで選んできてくれているのを知っていたのに、こんな意地悪を言ったお口をパパは叱らずに、かえって「ごめんよ」と謝ってくれた。

「パパが気付いてあげられなくて、ずっと我慢をさせていたんだね」

 「ようし、それじゃあ、今日はナマエの我が儘記念日だ!」なんてパパはおかしなことを言いながら笑う。そうして優しく抱っこをしてくれて、その足でお洋服屋さんへと向かってくれた。
 お店の中で色々なお洋服を見て回る時間は本当に楽しくて、パパと一緒にたくさんたくさん悩んで選び抜いて一着のワンピースドレスを買った。
 くるりと回ってみせると、まるでお花が咲くみたいに裾がふんわり広がるワンピースは、まるで自分が童話に描かれるお姫様のように綺麗で可愛くなったような気持ちにさせてくれる。嬉しくてにこにこ笑うと、パパも店員さんもにこにこ笑って「可愛いよ」って言ってくれるのが嬉しくも、ほんのちょっぴり照れ臭い。
 店員さんにすすめられるのに甘えてここへ着てきた服は手提げの紙袋に入れてもらって、ぴかぴか新品のワンピースを着たままでお店の外へ出る。
 すると、ちょうどそこへ同じクラスの男の子たちが通りかかった。
 あんまりお話をしたことのない子たちだったけれど、この可愛いお洋服を早く他の人にも見てほしくって、お会計をしているパパがお店の外に出てくるのも待たずに彼らの元へ駆け寄って話しかけた。

―こんにちは! 君たちも、お買いものに来たの?」
「えっ。……えっと……?」

 いつもとは全然雰囲気の違うお洋服だから、初めまして≠フ人だと思ったのかもしれない。声をかけても、彼らは呆気に取られたようにぽかんとするばかりだった。
 暫く噛み合わない会話を続けるうちにようやく追いついてきたパパを見て、とうとう目の前のワンピース姿の誰かさん≠ェ自身のクラスメイトと知った彼らは、顔を真っ赤にして突然怒ったように声を荒げた。

―なんだよ、お前! 男のくせに女のカッコなんかして、気持ちわりい!」



 人間はただの人間でしかないのだと思い込んでいた。人類という大きな種族の中では分類も区分も、なにもないのだと。

―お前、なんでまた学校来てるんだよ。もう二度と来るなって言っただろ!」
「そうだよ! お前みたいな、片親の上に気持ち悪い奴がいると、王立学校の格が下がるんだっつーの!」
「あっ……!」

 広い校庭の隅、校舎と校舎が立ち並び薄く影の落ちる花壇脇。そこで意地悪な子たちに思いきり突き飛ばされて、ぼくはろくろく受け身も取れずに雨上がりの泥んこの地面に背中を打った。それが運悪くちょうど水溜りのあるところだったから、泥水がびしゃびしゃに跳ねて顔に飛沫しぶきがびちゃっと落ちる。
 慌てて身体を起こして自分の姿を見下ろすと、ぼくはもうすっかり頭から爪先まで全身びしょ濡れになってしまっていた。
 グリーンのラインが入った白地のセーラーに空色のスカート、王立学校初等部の所属であることを示す、自分で綺麗にアイロンをかけた可愛い制服も、お花を模したお気に入りの髪飾りも。なにがなんだかわからないくらい泥塗れの茶色一色になってしまったことがただただ悲しくて、だけど涙は溢さないように唇を噛んだ。起こした背中にあたる陽射しが変に温かくて余計に惨めになる。
 それを見て、自分たちがそうやってぼくを押し退けたくせして束の間怯んだように口を噤んだ彼らは、だけどもすぐさまに勢いを取り戻してなにごとか叫んだ。

「な、なんだよ! これぐらいで倒れるなんて大袈裟な奴だな! 怪我してないか!?」
「お前なんか泥塗れのきったねえ制服がお似合いだよ! ところで全然関係ないけど保健室に洗剤とかあったっけ!?」

 そのどれもが痛みや胸の息苦しさに掻き消されて、まともに聞こえはしなかったのだけれど。

 ―人間は、ただの人間≠ニいうだけではいられない。産まれたその瞬間からぼくたちには性別とか身分とか、どうあっても剥がせないそんなさまざまな紙札レッテルが与えられていて、その区分に従った社会通念に倣えない者は異物と見做される。
 あの日、初めて身に着けた可愛いワンピースドレスに舞い上がっていたぼくに、彼らはいっそ丁寧なまでに教えてくれた。

 男の子が可愛いものを好きになるのはいけないこと。
 男の子がドレスを着るのはおかしいこと。
 男の子のくせに、女の子を羨ましがって――――気持ち悪い。

 彼らから投げつけられた無数の嘲罵ちょうば飛礫つぶてはたっぷりのフリルやレースをすり抜けて、全てが例外なくぼくの心を滅多打ちにした。慌てたパパに抱きかかえられてその場を立ち去っても、みんなの「気持ち悪い」の合唱は耳にこびりついて消えなくて。

 だけど、かえってその罵声がぼくに一種の諦めと開き直りを与えたのだった。
 どんなに取り繕ったとしてもみんなと同じ男の子の格好をしたとしても、ぼくは可愛いものが好きだしスカートも穿きたい。
 それなら、少しでも誰かに嫌な思いをさせないようにしようと思った。
 髪もお肌も、思いつくところ全部をちゃんとお手入れして、誰から見ても「可愛いお洋服がとってもよく似合っているね」「素敵だね」って、そう言ってもらえるように。
 だけど、どんなに手を尽くしてもぼくはまだ気持ち悪いから、素敵なお洋服の似合うぼくじゃないから、こんなに可愛い制服がぼくのせいで泥塗れにされてしまう。
 それが悲しくて、切なくて―本当に、申し訳なくて。
 地べたにへたり込んだままで俯くことしかできないでいるぼくの視界に学校指定の深靴ブーツに包まれた誰かの足が現れたのは、そんなときだった。

―なにしてるんですか」

 恐ろしいほど凛とした声だった。なんというのか、耳慣れない迫力があった。
 あれほど騒ぎ立てていたはずの男の子たちの喚声ももう聞こえない。辺りは水を打ったように静かになる。
 泥が目に入らないように慎重に顔を仰向けたぼくの前には、ひとりの女の子が立っていた。黄色いリボンでひとつに結わえられた豊かな青い髪が、風に靡いてゆらりと流れる。

「なにを、してるんですか」

 もう一度彼女は問う。正しいことは正しいと、間違っていることは間違っていると言わねば我慢がならないような、後先見ずなまでの真っ直ぐさで。
 彼女の問いか、それとも彼女の持つ独特の空気感がなせる業か、どちらにせよ男の子たちは気圧されたように押し黙り、そのままどちらともなく足早に立ち去っていった。
 彼らが去って一層静かになった場で、彼女の深靴ブーツが泥をにじる音が響く。ぼくへ向き直って腰を屈めた彼女は、男の子たちに対していたのとは一変、向日葵のような笑顔でぼくを覗いて手を差し伸べてくれた。

「大丈夫ですか?」

 同じクラスではないし、お話したこともないけれど、ぼくは彼女を知っていた。青空や大海原を差し置いてなお鮮やかに青い髪は、人の輪の中にいてより目立つ。

「あ、ありがとう……ヴァニッシュちゃん」

 ありがたく手を取って彼女の名前を呼ぶと、ヴァニッシュちゃんはまあるい目をぱちぱちさせてからまたにっこりとした。

―どういたしまして、ナマエくん!」

 元気で明るくて目立つ彼女をぼくが知っているのは不思議なことではないと思うけれど、反対に彼女がぼくをどうして知っているのかはわからなくて、一瞬面食らう。
 ぼくの戸惑いには気付かずにこにこしていた彼女は、けれどすぐに憂うように眉根を寄せた。

「どうしてこんなことされてたですか? こんなにどろどろになって……ひどい。あの子たちに、いじめられてますか」

 そうやって真摯に心を砕くように訊ねられて、ぼくは少しだけどう答えればいいのかわからなくなる。

「ち、ちがうの」
「ちがう=H じゃあ、ナマエくんが先にあの子たちになにか悪いことしたですか?」

 どうにか絞り出せたひとことに、彼女は妙な顔をして小首を傾ぐ。続けて問いを重ねた彼女の真っ直ぐな視線から少しでも逃れたくて、ぼくはまた俯いた。彼女のしみひとつない空色のスカートが眩しい。

「ぼくが可愛くないのに……気持ち悪いのに、こんな格好してるから。だからみんな、怒ってるんだと思う」

 自分で口にする事実にますます叩きのめされて、ぼくは茶色いスカートをぎゅっと握った。泥水をたっぷり吸った裾からもったりとした水滴がぼたぼた垂れる。

「この制服が似合うように、もっと可愛くならなくっちゃ、だめだね」

 誰かを嫌な気持ちにさせてまで我を通すことに、時折なんの意味があるのかと思う。ぼくが相応・・の格好さえしていれば、あの子たちだってわざわざ構ってこないに決まっているのに。
 だけどそうまで思うのに、可愛くない今、このスカートを脱げずにいるのはただの我が儘だった。

―あ……ごめんね。ヴァニッシュちゃんのお手々、汚しちゃったね」

 ふと俯く目に、ぼくを助け起こしてくれた彼女の白かった手に泥汚れがついているのに気付いて心がぎゅっとする。
 恐る恐る探り当てたポケットの中のハンカチは無事だったから、ぼくのどろどろの手で汚してしまわないようにお行儀は悪いけど指先で摘んで差し出した。隅にお花のモチーフがあしらわれた、お気に入りのハンカチだ。

「ぼくみたいな子のハンカチなんて嫌かもしれないけど……、これ、よかったら使って」
「…………」
「本当に、さっきはありがとう」

 いつまでも下を向いたままでもじもじ喋っているのは気が引けたから、顔を上げてまたお礼を言う。そこでようやく初めて、眉を吊り上げて唇をひん曲げて―なんだかとても怒ったような顔をしているヴァニッシュちゃんが目に入って、ぼくは固まった。
 喉がひくっと震えて、しゃっくりみたいな音が出る。ぼくなんかを助けてくれるこんなに優しい子にそんな顔をさせてしまうほど嫌な思いをさせてしまったということに、息も詰まるほどのショックがあった。
 もうこれ以上不快な思いをさせないためにも、早くお別れをしたほうがいいのかもしれない。
 ハンカチを持つ手を引っ込めかけたその瞬間、ヴァニッシュちゃんが大きく息を吸い込む音がして、これから放たれるであろう言葉の前兆を感じ取る。泥だらけの手では耳も塞げず、ぼくはただただ身を竦ませるしかなかった。

―大きくてきらきらなおめめ!」
「…………えっ?」

 ―そしていよいよ張り上げられたその声の思いも寄らない内容に、ぼくはぽかんと口を開けた。背の高いふた棟の校舎の間で反射する彼女の声のうわんという残響が、ぼくの身体をびりびり震わす。
 きっとぼくに対してなにかとても訴えたいことがあるのだろうけれど、その真意が掴めない。なにも言えずにいるぼくに構わず、彼女は再び大きく息を吸い込んだ。

「ふわふわ髪の毛! すべすべお肌!」
「えっ、え……っ? あのっ……!」

 ヴァニッシュちゃんは高らかに続ける。勢い余ってなにか言うごとにずんずんずんずんこちらへ迫ってくるから空足からあしを踏むように後退るけど、ぼくの踵は数歩もいかないうちに花壇の縁に到達してしまってそれ以上後ろへ下がることはできなくなってしまった。
 焦りと困惑とでわたわたするぼくの泥のついた手を、ヴァニッシュちゃんは一切の躊躇なく両手で握って大きく口を開く。

―きもちわるくなんかない!」

 つい、弾かれたみたいに顔を上げる。ぱちっとかち合った葡萄色をした瞳の中に、びっくり顔のぼくがいる。

「ナマエくんは! 可愛いです!」

 まるで意味の通らない言葉を急に投げかけられたような心地がした。信じられなくて何度も何度も瞬きを繰り返すうちに彼女の言葉がじわじわと全身に染み渡って、まなじりからぽろっと涙が落ちる。

 どんなに気持ち悪いなんて言われても、ずっと頑張ってお手入れをしていた。髪を引っ張られてぐちゃぐちゃにされても丁寧に櫛を通した。悪口を言われながら頬を叩かれてもクリームを塗ってお肌をきちんと整えた。
 「身の程を弁えていない」と謗られても文句は言えない願いかもしれないけれど。

 それでもいつかパパ以外の誰かにも、心からかわいい≠チて言ってほしくて。

―ほんとに? ぼく……かわいい?」

 登校してきたばかりの汚れひとつない綺麗な格好ならいざ知らず、こんな泥塗れのぼくをまじまじと見て、彼女はやっぱりなんの偽りもなく満面の笑みを咲かせた。

「すっごく可愛い!」

 ……昔から綺麗なものや可愛いものが大好きだった。飾り窓の中で姿勢よく並ぶお人形や、風とお喋りするように首を揺らすお花が、男の子らしくないと言われても好きだった。

 傾き始めた、紅を帯びた陽が彼女を目掛けてすうっと垂れ落ちる。青い髪が太陽の光で燃えるように煌めいている。
 その光景が、今までに見たなによりも綺麗だと思った。これまでなにか美しいものを見て心動かされることはあっても、こんなにも感情が揺れ動いて尊く思ったのは初めてだった。
 目に見える全てに光がちりばめられているようで、映る世界のなにもかもがちかちかと目映い。

「そういえば、そんな泥塗れじゃ帰れないでしょう。私の制服、貸してあげます」

 目をしぱしぱさせるぼくの手を引いて、ヴァニッシュちゃんはそのまま日向へと連れ出してくれる。

「え……。う、嬉しいけど、ぼくが制服を借りちゃったら、ヴァニッシュちゃんはどうするの?」
「私、すぐに破ったりしちゃうから替えの制服いっぱいあるです。今日も学校に持ってきてて。だから、気にしないでください」

 押し切られるまま空き教室へと押し込まれて、先生に用意してもらった濡れタオルで身体の汚れを隈なく拭ってからヴァニッシュちゃんが貸してくれた制服を身に着けていく。
 ぼくのよりもちょっとだけサイズが大きい制服は馴染みのない香りがする。柔軟剤だろうか。甘いお花みたいな香りだ。

「もう着替え終わりましたか?」
「あ、う、うん!」

 袖に鼻先を寄せたところで見計らったようにかかる声に、慌てて顔を上げて返事をした。教室のスライド式のドアをからから開けてぴょこんと顔を覗かせたヴァニッシュちゃんは手に一輪の花を持っている。
 紫を溶かし混ぜた深みのある青色をした花矢車菊ヤグルマギクだ。その名の通り、放射状の広がる花びらがまるで軸の周囲に矢羽根を取り付けた矢車のように見えることからそう呼ばれる。

 ぼくの視線の先に気付くとヴァニッシュちゃんはにこっと目を細めた。

「校舎に戻ってくるときに、花壇でお花が綺麗に咲いてたのを思い出して。先生に訊いたら『いいよ』って言うから、摘んできたんです!」

 言いながら彼女はぼくに近付いて腕を伸ばした。彼女の服のものからする香りとは違う、瑞々しい仄かな花の香りが鼻腔を掠める。
 それから少しもしないうちに身体を離した彼女の手にもう矢車菊ヤグルマギクはない。違和に思わず頭へ触れさせた指にあたる感触に、髪に挿してもらったのだと遅れて理解する。

―……うん。やっぱりナマエくん、可愛いです」

 自分で自分がどんな顔をしてその言葉を受け止めているのかわからなかった。
 胸が鐘を鳴らすようにどきどきする。熱い頬はきっと薔薇色をしている。
 夕日はもうカーテンで遮られているはずなのに、目の前の彼女が本当に眩しくて。

 きっと天使は三人いた。そうしてそれぞれがぼくの心臓と頬と、それから目蓋にまでキスをしたのだ。



「……パパ」
「うん? どうしたんだい、ナマエ」
「ぼ、ぼく、キスされちゃった」
「……そ、そんな!? 誰に!? 知らない人かい!?」
「天使様に……」
「……それはそれでショック!」



 ―深緑の地に空色のラインが入ったセーラー服に土色の深靴ブーツ。中等部の三学年。
 十五歳にもなると、みんな分別がついてくる。ぼくの格好は異様ながらもそういう・・・・もの・・だとして段々見逃されるようになった。昔みたいにところ構わず突き飛ばされたり叩かれたりということは、もうほとんどない。

 それでもまだ、彼らの冷やかしは健在で。

「おい、オカマ男! お前まだあの怪力女に庇ってもらってんのかよ! 恥ずかしくねーの?」

 昼下がり。春先のからっとした陽気に満たされる教室に、似つかわしくない揶揄からかい文句が飛ぶ。
 普段こそ可愛くお上品に≠心がけているぼくも、今ばかりは眉と目にぎゅっと力を入れてでき得る限りの怖い顔を作って声のほうを見る。
 そこにはやはり、初めて着たワンピースをお披露目してからなにかと突っかかってくるふたりの男の子たちがいた。三学年に上がってからクラスも離れたのに、こうして暇を見つけてはぼくを揶揄からかうのが習慣になっているようだった。

「情けねー奴だよな、ほんと! こいつ、本当に男か?」
「本当は女なんじゃねーの?」
「むしろなんで女じゃないんだよ!」
「そうだよ! お前、やたらいい匂いしてどきどきすんだよ!」
「顔もめちゃくちゃ可愛いしよお! 女だろ!? ほんとは女なんだろ!?」
「やめてよ! ぼく、女の子じゃない!  可愛いものが好きなだけ!」
「ふざけんな! 『実は女の子でした』って言え!」
「そうだそうだ! 俺の初恋の責任取れ!」
「う、うう〜っ……! いつもそうだけど、なんなの、この勢い……!」

 昔よりは随分と言い返せるようにはなったものの、ふたりがかりで矢継ぎ早に畳みかけられるとさすがに分が悪い。早々に返す言葉も失って歯噛みしていると、ふと彼らの背後に見慣れた青い髪と黒い髪の女の子たちを見つけて、ぼくは自然と笑顔になった。
 手前のお邪魔なふたりがなぜかきらきらした瞳でぼくを見つめる。

―ちょっと、まぁたナマエくんにちょっかい出してるのさ?」
「ギョエ〜ッ! ヴァ、ヴァニッシュ!」
「で、出たな、怪力女!」
「ちょっとあなたたち、別のクラスでしょ。さっさと自分の教室に戻りなさいよ」
「こっちは鬼のクラス委員ミユキ!」
「人に妙なあだ名をつけるんじゃないわよ」

 背後の人物―ヴァニちゃんにぽんと肩を叩かれ、ミユキちゃんに注意をされたふたりは、ゴムでできたボールみたいにびょいんと飛び上がる。ぼくはその隙に彼らの隣をすり抜けて彼女たちの手をきゅっと握った。

「えへへ、ヴァニちゃん、ミユキちゃん、おかえりなさいっ」

 ぼくが笑いかけると、青いポニーテールに黄色いリボンがトレードマークのヴァニちゃんは目映くにこっと笑い、艶のある黒髪を顎の辺りで清潔にきちっと切り揃えたミユキちゃんは唇をほんのりと綻ばせる。
 ミユキちゃんは元々ヴァニちゃんと仲のいい子で、ヴァニちゃんとお友達になってからは自然と彼女とも仲良くなった。ミユキちゃんもヴァニちゃんと同じくぼくの格好に変な顔をしない、大切なお友達のひとりだ。

「ただいまなのさ、ナマエくん!」
「お待たせ、ナマエ」

 ぼくたちのクラスでは、お昼前に選択科目の授業を設けられている日がある。学年始めに自分たちで受けたい科目を予め決めておいて、それぞれ割り当てられた教室へ向かって違う授業を受けるのだ。ぼくはたまたま自分のクラスの教室がその授業を受ける場だったから、こういう日は彼女たちの帰りを待って一緒にお昼を食べに行くのがお決まりだった。

 旗色が悪いと見てか、すたこらと走り去っていく彼らの背中を見送ってミユキちゃんが浅いため息を吐く。

「本当に懲りないわね、あいつらも」
「それよりも、早くお昼ご飯にしよ! お昼休み、なくなっちゃうのさ」

 ぼくの真似っこをするようにヴァニちゃんもミユキちゃんと手を繋いで、三人で不格好な三角の輪を作る。そうしてぼくたちを急かすようにくいっと腕を引いたヴァニちゃんに、ミユキちゃんはさらっと言った。

―あ、悪いけど、私はちょっと先生に用事があるから、お昼はふたりで行ってきてくれる?」
「そうなのさ? じゃあ、行こっか、ナマエくん」
「う、うん」

 ミユキちゃんがぼくたちの手をそっと放して、ぼくにだけ目配せをする。去り際に優しく背を叩いてくれたのが彼女の精いっぱいのエールなのだとわかって胸が詰まる思いがした。

 ……本当は、ミユキちゃんに用事なんてなにもない。
 昨日の放課後、ぼくはヴァニちゃんへの恋心を打ち明けた。それは本人にじゃなくて―誰あろう、ぼくたちの共有のお友達であるミユキちゃんに。
 途中途中で言葉をつっかえさせながらもぼくが思いの丈を語り終えると、ミユキちゃんは頭を抱えて机に突っ伏した。普段姿勢よく授業を受ける彼女からはかけ離れた姿にぼくは惑う。

「み、ミユキちゃん、どうしたの? 大丈夫? 具合、悪い?」
「……家の使命を取るか友情を取るかで悩んでるのよ」
「そう、なの? ごめんね、急にこんなこと言って。……迷惑だったよね」
「勝手に決めつけないで、迷惑なんかじゃないわ。……友達でしょう」

 ぼくが俯くとミユキちゃんは顔を上げて拗ねたように言った。むくれた顔が年相応で、こんなときだけれどちょっぴり可愛い。いつもはクールでなにごとにも動じない姿が素敵な彼女だけど、時折こんな愛らしい表情も見せてくれることがあって、それがぼくは気を許してもらっているようで嬉しかった。

 ミユキちゃんは何度か言い淀むように口を開いたり閉じたりしていたけど、ついにぼくの顔をしっかりと覗いて真剣に切り出した。

「……あのね、私はヴァニが大事よ。家の使命云々は抜きに、私個人としても守るべき相手だと思ってる」
「……うん」
「でも、あなたも私の大事な友達だわ、ナマエ」
「えっ。……えへへ、ほんとう?」
「ちょっと、変なところに引っかかって照れないでちょうだい。こんなこと、私だって改まって言うのは照れ臭いんだから」

 つい頬をゆるゆる緩ませるぼくに、ミユキちゃんはほんのり赤くなった顔をぱたぱたと手団扇で仰いで睨む。

―それにね、ナマエ」

 一瞬だけ和んだ空気は、だけどすぐにいつもの調子を取り戻した彼女によって引き締められる。

「あなたには酷なようだけど、ヴァニには好きな人がいるの。あの子は絶対に余所見なんてしてくれないわよ。それをわかってる?」
―うん」

 そう、ヴァニちゃんには好きな人がいる。少しでも彼女と親しい人間ならすぐに思い知ることだ。彼女はいつも、彼女のお師匠様だという人のことを楽しそうに話して聞かせてくれるから。

「告白した後のこともきちんと考えてる? あの子に振られて、あなた、今まで通りに過ごせるの?」

 ぼくはこくんと頷いた。

「……言っておくけど、私はあなたと友達をやめるつもりはないわよ、ナマエ。失恋後は素知らぬ顔で他人に逆戻りなんて、許さないからね」
「……ヴァニちゃんにきっと嫌な思いさせちゃうぼくのこと、まだお友達って言ってくれるんだね」
「……振って振られてなんてそれくらい、良い女の定めでしょ。過保護に囲い過ぎるよりは、あの子にだって少しくらい苦い経験をさせておいても損はないわよ。私個人の考えとしてはね。
 それより―、」
「うん、ありがと。ぼくとミユキちゃんは、ずっとお友達だよ」

 「ヴァニちゃんとも」とはとてもじゃないけれど言えなかった。
 頭ではこの恋心が報われることはないとわかっているつもりでも、いざそうなってみたら自分がどうなってしまうかはよくわからなかったし、なによりヴァニちゃん自身がこれまで通りぼくとお友達でいてくれるかもわからなかったから。優しいヴァニちゃんはきっと内心がどうあれ表面上は今後もお友達として接してくれるだろうとは思うけれども、彼女を必要以上に苦しませるのは嫌だった。

 多分、ぼくのそんな逡巡を全て見越した上で、ミユキちゃんは静かに嘆息した。

「そう……。じゃあ、なにも言わない。あなたがきちんとヴァニに振って・・・もらえる・・・・まで・・、黙って見過ごしてあげる」
「えへへ、ありがとう、ミユキちゃん」
「……お礼を言うのはおかしいでしょう。告白する前から、あなたは振られるなんて意地の悪いことを言ってるのに」

 複雑そうにそっぽを向いたミユキちゃんは、それでも「頑張りなさいね」とぼくの手を一度だけ強くぎゅっと握ってくれた。そしてぼくが「明日にもヴァニちゃんにお出かけの約束を取り付けて告白をしたい」と言うと、ささやかな協力を申し出てくれたのだった―。

 ―背中に、ミユキちゃんから小さな応援を受け取ったぼくはひとつ大きな深呼吸をして、今日の学食に思いを馳せるヴァニちゃんの手をそっと引く。すぐにくるりと振り向いてくれる彼女は、にこにことぼくの言葉を待っている。

「……あ、あのね、ヴァニちゃん。もしヴァニちゃんさえよければなんだけど……、明日、ふたりで町にお買いものに行かない?」

 ヴァニちゃんはぱちぱちと目を瞬かせて、それから嬉しそうににっこり笑って頷いてくれた。



 大規模な王立学校を擁することで学生街としても広く知られるこの地区は、いつ訪れてもフレッシュな活気に満ち溢れている。
 お買いものを終えたぼくたちは休憩がてら、テラス席のあるカフェにいた。可愛い外装にリーズナブルなお値段のケーキセットが魅力のお店だ。
 ケーキも平らげて、お茶を飲みながらひと息ついていたところに急にヴァニちゃんの口数が減ったことに気付いて、ぼくは彼女の目線の先を追った。

 カフェの反対側、通りの向こうには古い石造りの門が見える。町中にたくさんあるああいった古い門は、この町がまだ小さかった頃の名残なのだという。町が大きくなるごとに門を新たに作っては、その門の内側を市内として厳重に守ってきたのだ。だから、門には侵入者を捕らえておくための牢も併設されている。今となっては、ほとんど飾りのようなものだけれど。
 まさかあの牢屋を熱心に見ているわけでもないだろうと不思議に思いながら目を凝らしていると、ふと彼女はぽつりと呟いた。

―たにゃししょー……」

 多分、ほとんど無意識だったのだと思う。口にしてから、彼女ははっと指先で唇を押さえてぼくのほうを見た。ぼくとのお出かけなのについ気がそぞろになっていたことを申し訳なく思ってくれているのかもしれない。
 ヴァニちゃんの蜜を煮込んだような甘い囁きに、彼女の葡萄色の瞳を奪った人物をようやくぼくも同じように見つけることができた。

「……ヴァニちゃんのお師匠様がいるね」
「う、うん」
「お買いものも終わったし、行っておいでよ」
「い、いいのさ? 今日はナマエくんと約束してたのに……」
「いいんだ。ぼくもこのあと用事があるから。今日は付き合ってくれてありがとう、ヴァニちゃん」
「あ……ありがとうなのさ、ナマエくん! 私のぶんのお代、ここに置いといて大丈夫?」
「うん、大丈夫。それじゃあね、ばいばい」

 笑って手を振るとヴァニちゃんも手を振り返してくれる。だけどすぐに彼女はお師匠様だという彼の元まで辿り着いて、もうぼくのことは見えなくなってしまったようだった。後ろ姿、根元に黄色いリボンを結わえた仔犬の尻尾みたいにぶんぶん振れるポニーテールが可愛い。
 遠ざかるふたりの姿を見ていられなくなって俯いたところに、今日のためにおろしてきたフリルのスカートが目に入る。その腰元、お花の形をしたボタンのついたポーチの中には、映画のチケットが二枚入っていた。

「パパにせっかくもらったけど……、どうしようかな」

 向かい合わせの空っぽの席に、もうぼくのひとりごとを聞いてくれる人は誰もいない。
 『恋を結ぶ天使たち』という、パパが描いた絵本をモチーフにした恋愛映画。関係者の方から「お子さんとご一緒にどうぞ」といただいたようだけど、ぼくが好きな女の子とお出かけをすると知るとパパはそれを快く譲り渡してくれた。ヴァニちゃんに恋を題材にした映画を観ようというのがなんだか気恥ずかしくて、結局誘うどころか映画の話すら切り出せなかったけれども。

 持ち帰ったらパパを気遣わせてしまうかもしれない。だけどパパの心遣いのこもったチケットを捨てることなんてとてもできない。
 ティーカップを傾けながら悩んでいると、不意に誰かがすぐ傍まで近付いてきたことに気付いてカップをソーサーに置いた。

―おい、オカマ男! こんなとこでなにしてんだ?」
「ひとりで町まで来て、サミシー奴! ま、まあ、どうしてもって言うなら俺たちの仲間に入れてやってもいいけどな!」

 正直「なんだ、この子たちか……」と思ったことは否めなくて、テーブルの下でこっそり自分の手の甲を抓る。いくら仲良しじゃない子たちだったとしても、そんなことを思うのは失礼だ。それに彼らは、とてもありがたいタイミングで現れてくれた。

「ちょうどよかった。映画のチケット、余っちゃったからあげるね」
「……エ!? 逆ナン!?」
「……俺たちもちょうど暇してたし!? お前がそんなに頼むなら一緒に行ってやってもいいけど!」
「ちょうど二枚、ちゃんと人数分あるから、ふたりで行っておいでよ。じゃあね」

 よく一緒にいるのを見かけるからとっても仲がいい友達同士なのだろうし、もし恋愛映画に興味がなかったとしても作品自体の出来はよいと評判だそうだから楽しめると思う。
 すっかり安心して帰りかけたぼくは、つと足を留めて自分の足元を見下ろした。
 とろみのある生地が何層にも折り重なったフリルスカートは、あるとき行きつけのお店でひと目惚れをして購入したものだった。

「…………、スカート……」

 少しだけ悩んで、すぐさま町中へと取って返す。
 白いシャツ、スーツベストにスラックスを着こなしたヴァニちゃんのお師匠様の姿が脳裏にこびりついて離れなかった。

 ―町から帰ると、ぼくはすぐにミユキちゃんに電話をかけた。結局告白はできなかったと伝えると、彼女はどこかほっとしたような声音で「そう」とだけ言った。すぐにばつが悪そうに黙り込んでしまったけれど、きっと心配してくれていたのだろう。

「失敗しちゃったけど、今度は放課後に時間を取ってもらって、また頑張ってくるね」
「……ナマエってなよなよして見えて、案外思いきりのいいところがあるわよね。私、ナマエのそういうところ、結構好きよ」

 ぼくが改めて決意を告げるとミユキちゃんは小さく笑った。
 それから少しだけ取り留めのない話をして電話を切った後で、ぼくは持ち帰ってきたいくつかの紙袋の中から、そのうちひとつを手繰り寄せる。行きつけのお洋服屋さんやちょっとだけ高いお洒落着が売っているお店のロゴが入った袋たちの中に紛れたそれは、学校指定の制服を販売しているお店のものだ。

 中には制服が一式入っている。
 パパのお使いやちょっとしたお仕事のお手伝いをしてもらったお小遣いを全部使い果たして購入した、男子生徒用の制服が。

 可愛いワンピースを手に取るときは心が浮き立つだけでなんとも思わないのに、制服のズボンを一本試しに合わせて見ただけでぼくは恥ずかしくて堪らなかった。お店の中で他に人もいたのに、「わっ!」と大声を上げて逃げ出したくて仕方がなかった。
 ぼくがあんまり挙動不審になっていたからだろう、お店の人がわざわざカウンターから出てきてくれて「女の子用の制服はあっちよ、お嬢ちゃん」と教えてくれたのも、なんだかつらくて堪らなかった。
 しどろもどろになりながらも自分は男の子なのだということを伝えて、どうにか制服は無事に買えたのだけれど。

「ヴァニちゃんのお師匠様、格好いい男の人だったな……」

 たまに見かけるくらいでひとことも言葉を交わしたこともないけれど、優しいヴァニちゃんが好きな人だから、きっととっても優しくてとっても格好いい、王子様みたいな人なのだと思う。
 ぼくとは違って、男らしくて素敵な。

「ズボン……どうしよう」

 その日は、中々寝付けなかった。今度こそ告白をしようと意気込んで緊張していたのもあるけれど、なにより目を閉じるたびに目蓋の裏側にズボンを穿いた自分の姿が浮かび上がって、落ち着かなかったから。



 ―誰にも内緒でしたい、大事な話があるんだ。
 ―放課後に、学校の裏庭の花壇の傍でぼくは先に待ってるから、……ヴァニちゃんは後からひとりでそこまで来てくれる?

 翌日、登校してすぐにそう訊ねればヴァニちゃんはよくわかっていなさそうな顔で、それでもしっかりと頷いてくれた。

 彼女を待つ間、ぼくは手慰みにポケットの中に入れているハンカチを指で擦った。
 隅にお花のモチーフがあしらわれた、お気に入りのハンカチ。ヴァニちゃんと初めて出会った頃に持っていたものだったから、勇気の出るお守りにと思って持ってきたのだった。
 日がどんどん傾いてきて、太陽の光が強い赤色を帯びてくる。あの日に見た夕日も確かにこんな色をしていた。

―待たせてごめんなのさ、ナマエくん!」
「……ううん、大丈夫だよ。そんなに待ってないから。来てくれてありがとう、ヴァニちゃん」

 やがて校舎の影からヴァニちゃんが顔を覗かせて、ぼくは笑って彼女を出迎えた。
 ―いつもの学校指定の、女子生徒用のスカート姿で。

「それで、話っていうのはなんなのさ?」
「……うん、あのね―」

 変だって笑われても、指をさされて気持ち悪がられても、お人形とか、お花とか、スカートとか―可愛いものが大好きなぼくが本当のぼくだから。
 元々そう思って周囲の目も顧みずに女の子の格好をしてきたはずだった。
 いつでも可愛い、自分が思う一番素敵な自分でありたい。
 それを好きな女の子の好きな人を見て怖気づいて、急に男の子の格好をしようとするなんて不誠実だと思った。「女の子の服が着たい」と打ち明けてもぼくを一度も否定しなかったパパや、「制服は学校の所属を示すものであって、思想を縛るものではないから」と受け入れてくれた学校の先生たちに失礼だと思った。

「ヴァニちゃん。ぼく、ヴァニちゃんのことが好き」

 ―そしてなにより、ヴァニちゃんにはいつでも誤魔化しなんてひとつもない、取り繕わないぼくでいたかった。
 胸の中にある鐘が割れそうなくらい、心臓がばくばくしている。熱い頬は今にも爆発してしまうのじゃないかと、そんなわけもないのに冷や冷やした。

「女の子みたいなぼくだけど、男の子として女の子の君が好きだよ」
「……あ、ありがとう」

 ヴァニちゃんはおどおどわたわたとして、思っても見ないことを言われたような顔をしていた。事実、そうだったのだろう。ぼくは彼女にとって、ただのお友達だった。
 びっくり顔で頬をほんのり桃色に赤らめていたヴァニちゃんは、それでもすぐに真剣な眼差しになってぼくを真っ直ぐに見た。

―でも、ごめんなさい。私、好きな人がいるのさ」

 わかっていた。
 わかっていたけれど、胸がつきりと痛む。
 早鐘のように鳴っていた心臓は今や静まり返って死んだように動かなくなる。だけどこうしてわかりきっていた答えをいざ差し出されても、ヴァニちゃんや彼女の好きな人を恨まないでいられたことに力が抜けるくらい安心した。

「……大丈夫、わかってるから。タナトスさん、だっけ」

 微笑んで、訊く。ヴァニちゃんは今度こそ心底驚いたように、零れ落ちそうなくらい目を見開いた。「言ったこともないのにどうして」と言わんばかりだ。

 わかるよ、君ったらわかりやすいから。
 それに、好きな女の子のことだもの。

「いつもお話してくれるもんね。お師匠様のことを聞かせてくれるときのヴァニちゃん、すっごく可愛いから……そうなんじゃないかなって思ってたんだ」
「うん……。私、ししょーのことが……―たにゃのことが好きなのさ」
「うん」
「だから、ナマエくんの気持ちには応えられない。ごめんなさい」

 ヴァニちゃんはそう言い切って、ぱっと頭を下げた。いつも仔犬の尻尾みたいに元気いっぱいに振れている青いポニーテールが力なく垂れ下がるさまが見ていられなくて、ぼくは彼女の肩をそっと掴んで身体を起こしてあげる。

「いいんだ。ちゃんと断ってくれてありがとう。ぼくのほうこそ、ごめんね。君を困らせるだけだってわかってたのに、自己満足に巻き込んじゃった」

 はく、とヴァニちゃんの唇が動く。でも、少し待っても彼女の喉が震えることはなかった。ぼくたちふたりのちょうど真ん中に重苦しい沈黙が横たわって、耳が痛いほどの静寂が訪れる。

 それからどれほど経ったか、段々と夕日に深みのある蒼が混じり始めてきて、校舎の落とす影が濃く暗くなってきた。昼間のぽかぽかとした陽気とは一転、この辺りは日が落ちると急に冷え込んでくる。

「……時間、取らせちゃったね。お話はもう終わり。……帰ろっか」
「あ、……じゃ、じゃあ、途中まで一緒に、」
―ありがと、でも、ごめんね。寄りたいところがあるから、また今度誘って?」

 風に冷えた頬がなんだか突っ張って痛い。あまり人に見られたくない顔をしている自覚があったから、御座なりに別れを告げて足早に立ち去ろうとするぼくの背後で、大きく息を吸い込む音がした。

―明日も会えるよね!?」

 声が、うわんと反響する。ほとんど誰もいない校舎は空箱のようで、音が痛いほどよく跳ね返る。

「明日もまた、いつもみたいに一緒にお話して、お昼ご飯食べて、友達でいられるよね!?」
「……わかってないの、ヴァニちゃん」

 もう心がめちゃくちゃになりそうだった。悲しい気持ちと嬉しい気持ちが同じくらいの大きさでぼくの中で喧嘩をしていて、なにがなんだかわからなくて泣きたかった。

「ぼく、『お友達だよ』って言いながら、ずっとヴァニちゃんのこと好きだったんだよ。ずっと君に、嘘ついてたの」

 だけど今、彼女の前では泣きたくなくて、一生懸命に目蓋を押し上げたままで言う。

「……それなのに、ぼく、まだヴァニちゃんのお友達でいてもいいの?」

 努力も虚しく言葉尻は形も成さないほどよろめいていたから、彼女にはぼくがほとんど泣いていることなんてお見通しだったかもしれない。

―だって! 友達でしょ!」

 ぱっと手を掴まれて、少し強引に振り向かされる。ヴァニちゃんの葡萄色の瞳は涙で潤んでいる。その目尻から零れ落ちたひと粒の涙が紫色をしていないのが少し不思議になるくらいの鮮やかな虹彩に、ぐちゃぐちゃの顔をしたぼくが映っている。

「酷いこと、言ってるかもしれないけど……でも私、ナマエくんとずっと友達でいたいのさ……」

 掴まれたままの手を恐る恐る持ち上げる。ちょっぴり残酷な優しさでそのまま振り解かれないでいるから、ぼくは少し欲張ってその手を自分の頬にあててみた。
 ちょっとだけ指の皮が硬くて、でも綺麗な形をしたヴァニちゃんの手。
 ぼくが大好きな、女の子の手。

「ごめんね、ごめんね……っ。ぼく、ちゃんと諦めるから。明日から、今度こそちゃんとヴァニちゃんのお友達になるから」

 喉に石が詰められたみたいにうまく喋れない。我慢しきれなかった涙が伝って、彼女の指先をしとしと濡らす。

「明日また……『おはよう』って、言ってほしいな」



 ―朝の紅茶にティースプーン一杯ぶんの蜂蜜を添えてみたけれど、あまり効果は見られなかったようだ。少し枯れた喉を空咳で整える。
 泣き腫らして赤くなってしまった目元は部屋から出る前にお化粧をして隠してみたけれど、パパにはお見通しだったみたいで「今日は休んでもいいよ」なんて言われてしまった。
 その言葉に甘えたくなってしまったけれど、ぼくはそれを断っていつもより少しだけ遅い時間に家を出た。

 たったの数年ぽっち。だけど、ぼくにとってはとても長い時間、温め続けてきた初恋。
 それがすっかり破れ去ってしまったところで世界が顔色を変えるはずもなく、今日も青空は澄み渡り、ぽかぽかと気持ちのいい陽光が射している。
 日光浴でもするような気持ちでのんびり歩いていたら学校に着く頃にはすっかり遅刻寸前みたいな時間になってしまって、小走りで校門を潜り抜けるぼくの足を、空から降ってきた一声が地に縫い付ける。

―ナマエくん!」

 上階の教室の窓。そこから顔を出しているのはヴァニちゃんだ。その隣には、どこか物憂げな面持ちをしたミユキちゃんもいる。

「お、おはよう! ナマエくん!」

 少しだけ緊張したヴァニちゃんの顔。風が靡いて掬い上げるように浚われる青い髪が太陽に透けてきらきら輝いて、どんな宝石よりも煌めいて見える。

 強くて優しい女の子。
 ぼくの大事な―お友達。

―おはよう、ヴァニちゃん!」


―――
22/11/07


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