幕間_1
耳障りなくらいによく響く階段を駆け上がって、その勢いのままに塗装の剥がれかけた古い金属製の玄関ドアを開け放つ。
「兄ちゃーん、たっだいま〜」
部屋はしんと静まり返っている。電気さえ点いていなければ誰もいないのかと思うほどだ。
ほとんど投げ捨てるように靴を脱ぐ。浅い上がり框を踏んで短い廊下を突き進むとようやく希薄ながらも人の気配が感じられるようになってくる。
リビングに繋がるドアを開ければ、そこにはもちろん兄ちゃんがいた。複数人掛のソファの上、置物みたいにぼんやり座っていた。
俺は背負っていた通学用のリュックをそのままどさどさと落とすと、ソファに座る兄ちゃんの懐に思いっきり飛び込んだ。
「ただーいま、兄ちゃん」
「……ああ、お帰り」
兄ちゃんが浅く頷いて俺を抱き締め返してくれる。薄い応えに反して、俺を閉じ込める腕はいつも通り力強い。
「ねね、トーク、ちゃんと見たよ」
今時みんなスマホに入れてる便利な連絡用アプリの話だ。俺はポケットからスマホを取り出して、兄ちゃんに見えるようにふりふり振った。
兄ちゃんからの連絡が来ていたのは今日の最後の授業が終わる前後頃。多分、ちょうどそのあたりを見計らって送ってくれたんだろう。「今日は早く家に帰る」というトークだった。
「前から約束してたからね、友達の家に遊びに行ってたんだけど、俺も早く切り上げてきちゃった。へへ、うれしい?」
兄ちゃんからの連絡を見逃す俺じゃないからそれ自体はきちんと了解していたけど、さすがに友達との先約は裏切れない。既読表示がついたのは兄ちゃんのほうだってわかってただろうから、別に俺がそれを無視したわけじゃないよって教えてあげて、安心させたげたかった。
にこにこ笑って兄ちゃんの顔を覗き込むと、途端世界がぐるんっと激しく回った。
「おわっ」
背中にソファの柔らかい座面が押しつけられる。天井にくっついた丸っこいライトが、きょとんとして不思議そうに俺を見返している。
首を一生懸命に持ち上げて重い胸元を見下ろすと、兄ちゃんの頭が見えた。顔は見えない。押しつけられた顔で、シャツの釦が布地越しに肌に食い込んでちょっとだけ痛い。
「どーしたの、兄ちゃん。なんかあった?」
「……今日、」
「うん」
「今日……彼女と別れたよ」
「えっ、そーなんだ? 兄ちゃん、彼女さんとあんなに仲良かったのにね」
「彼女が、お前の話しかしなくなったから」
なんだか随分と非難がましい言い分だった。俺はびっくりして、思わず訊き返していた。
「それって、俺のせい?」
俺の身体をソファに縫い留める腕がびくりと震える。
「俺のせいじゃなくてさ。彼女さんに好きになってもらえなかった、兄ちゃんのせいなんじゃないの?」
また続けても兄ちゃんは微動だにせず、俺にしがみついたままでいる。
責めてるわけじゃなかったんだけど、もしかしたら兄ちゃんは俺に怒られてるぐらいの気持ちでいたのかもしれない。「怖くないよ」のつもりで、兄ちゃんの腕をそっと撫でてあげた。
「安心していいよ、兄ちゃん。俺は俺が世界で一番好きだけど、世界で二番目に好きなのは兄ちゃんだから。
兄ちゃんもそうでしょ? 兄ちゃんが世界で一番好きなのは俺、二番目が兄ちゃん」
でも、彼女さんは違ったんだね。兄ちゃんてば可哀想。彼女さんが世界で一番好きなのは俺で、二番目は彼女さん自身だったんだ。
そーいうの、駄目だよね。性格は違ったほうが凸凹ぴったりハマるけど、好き嫌いはある程度似通ってないとやってけない。
俺は可哀想な兄ちゃんの頭を抱え込むように抱き締めてあげた。胸に食い込む釦の痛みは、もう気にならなくなっていた。
「ねえ、だからさ、俺ら、ずうっと喧嘩しないで一生一緒にいられるよ。ね、喜んでくれる?」
兄ちゃんは顔を上げることもなければ、もうなにを言うこともなかった。だけど、いつまで経っても腕は俺の身体に巻きついて離れない。
俺は、その力強さが兄ちゃんの返事だと思った。
――――
24/05/13
「兄ちゃーん、たっだいま〜」
部屋はしんと静まり返っている。電気さえ点いていなければ誰もいないのかと思うほどだ。
ほとんど投げ捨てるように靴を脱ぐ。浅い上がり框を踏んで短い廊下を突き進むとようやく希薄ながらも人の気配が感じられるようになってくる。
リビングに繋がるドアを開ければ、そこにはもちろん兄ちゃんがいた。複数人掛のソファの上、置物みたいにぼんやり座っていた。
俺は背負っていた通学用のリュックをそのままどさどさと落とすと、ソファに座る兄ちゃんの懐に思いっきり飛び込んだ。
「ただーいま、兄ちゃん」
「……ああ、お帰り」
兄ちゃんが浅く頷いて俺を抱き締め返してくれる。薄い応えに反して、俺を閉じ込める腕はいつも通り力強い。
「ねね、トーク、ちゃんと見たよ」
今時みんなスマホに入れてる便利な連絡用アプリの話だ。俺はポケットからスマホを取り出して、兄ちゃんに見えるようにふりふり振った。
兄ちゃんからの連絡が来ていたのは今日の最後の授業が終わる前後頃。多分、ちょうどそのあたりを見計らって送ってくれたんだろう。「今日は早く家に帰る」というトークだった。
「前から約束してたからね、友達の家に遊びに行ってたんだけど、俺も早く切り上げてきちゃった。へへ、うれしい?」
兄ちゃんからの連絡を見逃す俺じゃないからそれ自体はきちんと了解していたけど、さすがに友達との先約は裏切れない。既読表示がついたのは兄ちゃんのほうだってわかってただろうから、別に俺がそれを無視したわけじゃないよって教えてあげて、安心させたげたかった。
にこにこ笑って兄ちゃんの顔を覗き込むと、途端世界がぐるんっと激しく回った。
「おわっ」
背中にソファの柔らかい座面が押しつけられる。天井にくっついた丸っこいライトが、きょとんとして不思議そうに俺を見返している。
首を一生懸命に持ち上げて重い胸元を見下ろすと、兄ちゃんの頭が見えた。顔は見えない。押しつけられた顔で、シャツの釦が布地越しに肌に食い込んでちょっとだけ痛い。
「どーしたの、兄ちゃん。なんかあった?」
「……今日、」
「うん」
「今日……彼女と別れたよ」
「えっ、そーなんだ? 兄ちゃん、彼女さんとあんなに仲良かったのにね」
「彼女が、お前の話しかしなくなったから」
なんだか随分と非難がましい言い分だった。俺はびっくりして、思わず訊き返していた。
「それって、俺のせい?」
俺の身体をソファに縫い留める腕がびくりと震える。
「俺のせいじゃなくてさ。彼女さんに好きになってもらえなかった、兄ちゃんのせいなんじゃないの?」
また続けても兄ちゃんは微動だにせず、俺にしがみついたままでいる。
責めてるわけじゃなかったんだけど、もしかしたら兄ちゃんは俺に怒られてるぐらいの気持ちでいたのかもしれない。「怖くないよ」のつもりで、兄ちゃんの腕をそっと撫でてあげた。
「安心していいよ、兄ちゃん。俺は俺が世界で一番好きだけど、世界で二番目に好きなのは兄ちゃんだから。
兄ちゃんもそうでしょ? 兄ちゃんが世界で一番好きなのは俺、二番目が兄ちゃん」
でも、彼女さんは違ったんだね。兄ちゃんてば可哀想。彼女さんが世界で一番好きなのは俺で、二番目は彼女さん自身だったんだ。
そーいうの、駄目だよね。性格は違ったほうが凸凹ぴったりハマるけど、好き嫌いはある程度似通ってないとやってけない。
俺は可哀想な兄ちゃんの頭を抱え込むように抱き締めてあげた。胸に食い込む釦の痛みは、もう気にならなくなっていた。
「ねえ、だからさ、俺ら、ずうっと喧嘩しないで一生一緒にいられるよ。ね、喜んでくれる?」
兄ちゃんは顔を上げることもなければ、もうなにを言うこともなかった。だけど、いつまで経っても腕は俺の身体に巻きついて離れない。
俺は、その力強さが兄ちゃんの返事だと思った。
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24/05/13
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