百合の乙女
ゆりねが所属するお花クラブの仲間内では、メンバーのうち六年生だけを花の名前で呼ぶという仕来りがここ数年来からある。クラブのみんなで回し読みにしていた、聖書とも呼ぶべき少女漫画の影響だ。
かつての六年生たちがきゃらきゃらと戯れては花の名前で呼び合うのを、ゆりねは心底羨ましく眺めていた。自分といくつも違わない平凡な女の子たちが花の名前を冠した、ただそれだけで、彼女たちがまるで異国からお忍びでやってきたお姫様のように思えたのだ。
さて、ゆりねよりひとつ上の花姫たちが学舎から旅立ってから迎えた桜の頃。いざ六年生に進級したゆりねに与えられたのはデイジーの称号だった。
――彼女は、これが堪らなく嫌だった。その場で喚いて嫌だと地団駄を踏まなかったのは偏にちっぽけな自尊心のためだったが、本音を言うならどんなにみっともなく思われたとしてもこの名前を返上したくて仕方がなかった。
だって、雛菊なんて可愛らしく言ってみせたって、所詮は菊だ。
菊なんて嫌だ。おばあちゃんの花だし、お墓参りの花だ。薔薇みたいに洗練されて素敵じゃないし、向日葵みたいにぱっと目を惹く可愛さもない。なにより、余りものの花を押しつけられたという点が一層彼女の不満と惨めさを募らせた。
他のメンバーが賜った称号はみんな彼女たちが好きな花か、それか自分自身の名前に因んでいた。例えば薔薇が好きな紅子さんならローズ、可愛い名前をしたひまりさんなら向日葵というように。
ゆりねだって、本当ならそうなるはずだったのだ。五年生最後のクラブ活動では、紅子さんもひまりさんも「六年生になったら、ゆりねさんは百合の花だね」と言ってくれていたのに。
だけど、ゆりねよりも小百合さんのほうがより百合らしい≠ゥら、その称号は彼女に献ぜられた。
小百合さんは、進級と同時にゆりねのクラスに転入してきた女の子だ。市松人形みたいに艶々の黒髪に真っ白い肌をしていて、夜の湖に月を浮かべたようにぱっちりとした黒目がちの大きな目が印象的な、実に美しい少女だった。
小百合さんがやってきてからというもの、男の子も女の子も揃って彼女に夢中になった。ゆりねも最初は彼女の横顔を盗み見るだけでどきどきしていたし、学校で一番の仲良しになりたいとさえ思っていた。それも、彼女がお花クラブに入ってくるまでの話だったが。
ゆりねが一番好きな花は百合だ。淑やかで清廉、けれど地味なわけではない。白らかな花弁はそれこそが女の子の象徴であるかのように清らで美しい。
だから、そんな百合の花を奪い取った小百合さんをゆりねは嫌った。
当の小百合さんといえば、ゆりねの態度に見え隠れするそこはかとない刺々しさには当然気付いていたらしかった。意外にも、小百合さんは弁舌が立った。滔々と放たれる言の葉に自らの心をびっしりと覆っていた花弁を残らず毟り取られたゆりねは、気付けば誰あろう小百合さん本人に彼女への嫌悪感を一から十まですっかり打ち明けてしまっていた。
「――うふ。あはは」
あまりにも赤裸に心情を曝け出してしまったことにはっとしたのも束の間、小百合さんは小馬鹿にした目でゆりねを笑った。箱に入った新品のチョークみたいな白くすらっとした指を細く華奢な顎に当てて、小百合さんは黒色の瞳に冷ややかな月を浮かべる。
「いやだあ。そんなことであなた、私に怒ってたの」
「そんなことって」
ゆりねはむっとして、つっけんどんに言う。
「小百合さんにとってはそんなことかもしれないけど、」
「そうよ、よくおわかりじゃないの。私にとってはそんなことなの」
ゆりねの精いっぱいの拙い切り返しを、小百合さんは容赦なく切って捨てた。はきはきとした物言いは、いっそ鮮やかですらある。
「お花クラブなんて、馬鹿馬鹿しい。入りたくて入ったわけじゃないのよ。絶対になにかのクラブに所属しないといけないというから仕方がなしに選んだだけ」
「そんな……そんな言い方って、酷すぎる。小百合さん、そうやってずっと、私たちのこと馬鹿にしてたの」
どこか無機質ささえ纏う小百合さんの白い手がぴくりと戦慄く。
「馬鹿を馬鹿にして、なにが悪いって言うの」
――無機が、一瞬で有機に切り替わる。滑らかに割り開かれた指は、満開の百合がごとく。
小百合さんの華奢な手がパーの形に開いて目の前に迫ってきたかと思えば、まるで引っ手繰るかのように素早く泥臭い動きでゆりねの胸座をむんずと掴み上げる。
「馬鹿みたいな少女漫画に、馬鹿女たちの馬鹿げたルール。本当に馬鹿馬鹿しいったらありゃしない。いい歳して恥ずかしくないの? あなたたちのくだらないごっこ遊びに、勝手に巻き込まないでよね」
そう忌々しげに言って双眸から激しい敵意を迸らせる麗しの少女は、ゆりねたちが思っていたような百合の化身などではなかった。
生々しく鮮烈な、ひとりの人間であった。
――――
23/11/22
かつての六年生たちがきゃらきゃらと戯れては花の名前で呼び合うのを、ゆりねは心底羨ましく眺めていた。自分といくつも違わない平凡な女の子たちが花の名前を冠した、ただそれだけで、彼女たちがまるで異国からお忍びでやってきたお姫様のように思えたのだ。
さて、ゆりねよりひとつ上の花姫たちが学舎から旅立ってから迎えた桜の頃。いざ六年生に進級したゆりねに与えられたのはデイジーの称号だった。
――彼女は、これが堪らなく嫌だった。その場で喚いて嫌だと地団駄を踏まなかったのは偏にちっぽけな自尊心のためだったが、本音を言うならどんなにみっともなく思われたとしてもこの名前を返上したくて仕方がなかった。
だって、雛菊なんて可愛らしく言ってみせたって、所詮は菊だ。
菊なんて嫌だ。おばあちゃんの花だし、お墓参りの花だ。薔薇みたいに洗練されて素敵じゃないし、向日葵みたいにぱっと目を惹く可愛さもない。なにより、余りものの花を押しつけられたという点が一層彼女の不満と惨めさを募らせた。
他のメンバーが賜った称号はみんな彼女たちが好きな花か、それか自分自身の名前に因んでいた。例えば薔薇が好きな紅子さんならローズ、可愛い名前をしたひまりさんなら向日葵というように。
ゆりねだって、本当ならそうなるはずだったのだ。五年生最後のクラブ活動では、紅子さんもひまりさんも「六年生になったら、ゆりねさんは百合の花だね」と言ってくれていたのに。
だけど、ゆりねよりも小百合さんのほうがより百合らしい≠ゥら、その称号は彼女に献ぜられた。
小百合さんは、進級と同時にゆりねのクラスに転入してきた女の子だ。市松人形みたいに艶々の黒髪に真っ白い肌をしていて、夜の湖に月を浮かべたようにぱっちりとした黒目がちの大きな目が印象的な、実に美しい少女だった。
小百合さんがやってきてからというもの、男の子も女の子も揃って彼女に夢中になった。ゆりねも最初は彼女の横顔を盗み見るだけでどきどきしていたし、学校で一番の仲良しになりたいとさえ思っていた。それも、彼女がお花クラブに入ってくるまでの話だったが。
ゆりねが一番好きな花は百合だ。淑やかで清廉、けれど地味なわけではない。白らかな花弁はそれこそが女の子の象徴であるかのように清らで美しい。
だから、そんな百合の花を奪い取った小百合さんをゆりねは嫌った。
当の小百合さんといえば、ゆりねの態度に見え隠れするそこはかとない刺々しさには当然気付いていたらしかった。意外にも、小百合さんは弁舌が立った。滔々と放たれる言の葉に自らの心をびっしりと覆っていた花弁を残らず毟り取られたゆりねは、気付けば誰あろう小百合さん本人に彼女への嫌悪感を一から十まですっかり打ち明けてしまっていた。
「――うふ。あはは」
あまりにも赤裸に心情を曝け出してしまったことにはっとしたのも束の間、小百合さんは小馬鹿にした目でゆりねを笑った。箱に入った新品のチョークみたいな白くすらっとした指を細く華奢な顎に当てて、小百合さんは黒色の瞳に冷ややかな月を浮かべる。
「いやだあ。そんなことであなた、私に怒ってたの」
「そんなことって」
ゆりねはむっとして、つっけんどんに言う。
「小百合さんにとってはそんなことかもしれないけど、」
「そうよ、よくおわかりじゃないの。私にとってはそんなことなの」
ゆりねの精いっぱいの拙い切り返しを、小百合さんは容赦なく切って捨てた。はきはきとした物言いは、いっそ鮮やかですらある。
「お花クラブなんて、馬鹿馬鹿しい。入りたくて入ったわけじゃないのよ。絶対になにかのクラブに所属しないといけないというから仕方がなしに選んだだけ」
「そんな……そんな言い方って、酷すぎる。小百合さん、そうやってずっと、私たちのこと馬鹿にしてたの」
どこか無機質ささえ纏う小百合さんの白い手がぴくりと戦慄く。
「馬鹿を馬鹿にして、なにが悪いって言うの」
――無機が、一瞬で有機に切り替わる。滑らかに割り開かれた指は、満開の百合がごとく。
小百合さんの華奢な手がパーの形に開いて目の前に迫ってきたかと思えば、まるで引っ手繰るかのように素早く泥臭い動きでゆりねの胸座をむんずと掴み上げる。
「馬鹿みたいな少女漫画に、馬鹿女たちの馬鹿げたルール。本当に馬鹿馬鹿しいったらありゃしない。いい歳して恥ずかしくないの? あなたたちのくだらないごっこ遊びに、勝手に巻き込まないでよね」
そう忌々しげに言って双眸から激しい敵意を迸らせる麗しの少女は、ゆりねたちが思っていたような百合の化身などではなかった。
生々しく鮮烈な、ひとりの人間であった。
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23/11/22
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