さあ、わたしの前に跪け



 ―斯くして、ユディタラメン王国にのさばっていた逆賊は討ち取られた。
 畏れ多くも未来の王太子妃に害を成し、国を混乱へ陥れたソーユ公爵家は一夜のうちに根絶やしにされた。今となってはその血の一滴すら、神の祝福を受けし神聖なる国領に息衝いてはいない。

 王城のとある一室、豪華絢爛に設えられた居室にある寝台の上で、ミッソ侯爵がひとり娘ソルトは暗闇の中にそっと目を見開いた。
 傷を負ってなお滑らかな額の奥に浮かぶのは、ただひとりの男の姿。蜘蛛や鼠が這い回る秘密の地下牢に囚われの身となっていた彼女の爪先に、あろうことかぬかづくように頭を下げて頬に涙滴を散らした王太子の姿だ。

 ―本当に、無事でよかった……。

 王太子の婚約者であったソルトを勾引かどわかしたのは、誰あろうソーユ公爵の手のものであった。
 身の程知らずの野心に胸焦がれ、ソーユ公爵はいよいよ狂気にはしった。王太子の婚約者という栄えある座を密やかなる剣によって空にし、そこへ己が娘を据えようと目論んだのだ。
 そもそも、公爵令嬢の目に余る傲慢な振舞いが王太子妃としての資質を疑われるに至って婚約が白紙となり、その後見出されたのが侯爵令嬢であったという経緯があったにも拘らず、である。
 それらの真相を突き止めた王太子がソルトの元に駆けつけてくれたときには、地上の至るところに蔓延っていた悪の企みは白日に灼き尽くされ、ほとんど全てが終わっていた。
 冷たい暗闇にも心挫けず愛する者を待ち続け、果たしてようやく恋人を愛情深く迎え入れんとした彼女は、男が涙を流すのをそのとき生まれて初めて目の当たりにした。
 ほんの幼い頃であるならば。上の兄が剣術の師匠せんせいの厳しい叱咤にとうとう堪えきれず涙したところを見たことはある。下の兄も、先祖代々に受け継がれてきた歴史ある花瓶を割ってしまって母に酷く叱られ、あとでひとり物陰に隠れて泣いているのを彼女は見た。
 だけど成熟した、自分よりも身体が大きく強くあるべきはずのが泣くのは終ぞ見たことがなかった。
 そう、これまでは。

 涙に暮れる恋人に、彼女は動揺するほかなかった。
 それと同時に、高揚もした。
 清楚な令嬢の皮を脱ぎ捨てて真実を述べることが許されるならば、欲情したと表現するほうがずっと相応しい。
 屈することを知らぬままに生きてきた、ユディタラメン王国において二番目に貴い王太子おとこ。そんな彼が自らの前で膝を衝いて涙を流した、その事実が。

 ソルトは理想の令嬢だった。高貴なる淑女たるもの斯くあるべしという姿を息をするように体現してきた。
 家族を愛し、従順に生きてきた。与えられるふたりといない貴き方からの愛情を粛々と受け止め生きてきた。
 礼を知っていた。
 仁を知っていた。
 義を知っていた。
 それら全てを最も尊ぶべきものとして、生きてきた。
 生きてきた、のに。
 初めて味わう野卑で歪な罪悪は、舌が痺れるほどに甘かった。

 だから、彼女は神前に誓う婚姻を控えた前夜、なにもかもを裏切って秘密裏に王城を脱け出すことにしたのだ。

 懐に忍ばせていた小振りのナイフを手に取って、何度かにわけて長い髪を躊躇いなく断ち切っていく。侍女の世話を前提として美しく長く伸ばされた髪は、王太子もよく気に入って撫でてくれていたものだから少し惜しくも感じる。
 とはいえ、ソルトの髪を伸ばしていたのは彼女自身ではなく彼女の家族や侍女たちであり、今こうして無惨にも愛と努力の象徴を切り落としてしまったソルトがこれを惜しむのは筋違いというものであろう。それに、どうせ伸ばそうと思えばまた伸びるのだ。少なくとも連座にてまとめて首を刎ねられた公爵家のように、取り返しのつかぬものでもない。
 身軽になった首許の髪をひと撫でに払った彼女は、休む間もなく絹の寝巻き姿から市井の少年が纏うような肌触りの悪い軽装に袖を通して、質の悪い革の深靴ブーツを履く。事前に最小限の荷物をまとめて室内に隠していた小さなバッグを取り出すと、とうとう意を決して使用人用の通路から王城の外へと飛び出した。
 悪逆なる賊共を討ち取ったとはいえども大事を取って王城に部屋を用意されたソルトの身辺には、そうとわからぬように護衛がそこかしこへ配備されるはずだった。
 その護衛の配備をほんの少しだけ狂わせたのは、当のソルトだ。
 あんなに悲惨な目に遭った令嬢がすすんで独りになりたがるとは、まさか誰も思いもよらなかったと見える。計画とも呼べぬ拙い悪戯≠ヘほとんど博打のようなもので、今夜までそれが本当に上手くいったのかどうかはわからずじまいだった。
 だが、こうしていつまで経っても誰もソルトを止めにこないということは、彼女は賭けに勝ったのだろう。
 城門を易々抜けて、彼女は馬車の乗り合い場へと一目散に直走る。
 どこへ行くかはもう決めていた。家の手配もしてある。年の離れた兄たちが忙しくするのが寂しくて頻繁に使用人らのもとに潜り込んでいた彼女には、身の回りの仕事に覚えがある。さらに文筆に一家言ある彼女は関連の稼ぎ口ももう見つけてあって、ひっそりと隠れ住む程度なら暮らしに困らない確信があった。

 勝手に歪む口許が抑えられず、彼女は笑いながら走った。道行く者らは一様に目を剥いて、すぐに嫌なものを見たとでもいうように顔を背ける。誰も、薄汚い背格好にざんばら髪をした少年を渦中のミッソ令嬢とは思うまい。ソルト自身、王城の廊下の金細工に反射した自分を見て「これは誰か」と思ったほどだ。
 思えば供もつけず、阿呆みたいに口を開けて走り回るなんて真似を生まれてこのかた一度もした覚えがない。つまらない舞踏会を終えて重苦しいドレスを全て脱ぎ去ってしまったあとのような解放感が、全身をひゅうひゅうと撫でる。
 それがまた可笑しくて、ソルトは腹から声を出して笑った。笑い続けた。

「ああ、殿下……殿下!」

 空っぽになった頭の中で、それでもしぶとく居座り続ける愛しい男を思い浮かべて、彼女はなおも笑う。

「ごめんなさい、殿下。ごめんなさい」

 心にもない謝罪では口の端に上り続ける笑いを噛み殺せない。

 ―殿下、私の殿下! 歪んでいてごめんなさい。醜い女で、本当にごめんなさい。
 だけど、私、もうゆきます。
 だからね、きっと追いかけてきてくださいまし。ね、きっとですよ。
 そうして青白い顔をして、「俺を裏切ったのか」と口汚く詰って。惨めに泣いて足許に縋りついて、「捨てないでくれ」と懇願してほしいの。
 そうしたら私、ドレスの裾を握り込むあなたの指を圧し折ってあげましょう。
 誉ある戦の傷しか知らぬあなたの手に、恥辱の痕を残して差し上げる。
 あなたが私のせいで傷ついてくださるなら、それでも私がほしいのだって手を伸ばしてくださるなら、ようやく私、あなたに愛されているのだって、そう実感できるような気がするのです。
 そして私たち、そのときこそ本当に心を通わせ合うことができるのよ。

「っふ、うふ、あははっ!」

 息が上がって苦しいのに笑いが止まらないから、もっと胸が苦しくなる。だけど心はこれ以上なく晴れやかであり、全身には力が漲っていた。
 息を弾ませたまま馬車に乗り込んで、御者へ行き先を告げる。寝惚け眼の御者は飛び上がるほど驚いて馬の尻を引っ叩き、恐ろしいまでの乗り心地の悪さで馬車はがたごとと走り出す。
 これからいくつもの馬車を乗り継ぐ予定だ。次の馬車は、もう少し揺れが少ないといい。

―殿下、殿下、迎えにいらしてくださいましね。きっと、きっとよ」

 彼女は口の中でそう呟いて、うっそりと笑った。

 ―早く早く私を見つけて。
 そしてあの地下牢の暗がりで見せてくれたよりもずっとずっと無様に泣きじゃくって見せて。

 私の前に、もう一度惨めに汚く跪いて、そのときこそかげりない永劫の愛を誓ってくださいね。


―――
23/09/14


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