暴君系害獣人魚とドキドキ海底暮らし!



 気持ちのよい浮遊感に包まれていた。足は地についておらず、自らにかかるありとあらゆる重力から解放されていた。まさしく夢見心地でうっとりと目蓋を開いた私の視野に入った全ては、世界が青以外の色を忘れてしまったかのように瑞々しく真っ青だ。
 どこまでも果てなく透き通る青の揺籃ゆりかご揺蕩たゆたいながら、未だ微睡みの淵に佇みつつも極めて緩やかに思考を巡らせる。
 私は、今どこにいるのだろう。なにをしていて、どうして今に至ったのだろう。海馬を閉じ込める頭蓋には深く釘が打たれたと見えて、いくらまさぐってみても記憶を探り出すことができない。
 そのうちに、諦めた。現状の快楽よりも優先するものなどなにもないと、自堕落が半ば望んで匙を投げた。
 脱力すれば手足が当所あてどもなくゆらゆら揺れる。
 無重力だ。心地が好い。
 半開きの目蓋をゆっくり閉ざす。
 ひんやりとした青い闇がまろやかに圧し掛かってくる。耳の奥でごうごうと風にも似た音がする。覚えもないくせに胎内を彷彿とさせる音だと直感的に思う。
 だけれども、しんとしていた。なにものの気配もない。
 それでいて孤独ではなかった。
 私を「惨めなひとりぼっちだ」と後ろ指を指して呼ばわる者がいないのなら、孤独という概念さえここには存在し得ない。

 深く深く、意識が光届かぬ深間のごとき闇に飲まれようとしている。こんなにも気持ちがいいから、もちろん抵抗する謂れもなかった。


―起きたか、人間」

 しかし、逆らわず従順にただ沈み込んでいくばかりだった私が汲み上げられたのは、実に突然のことであった。
 明らかにこちらへ向けて放たれた言葉にかえって孤独感を取り戻した私は怯えに目を見開く。
 そして、我に返った。

 ―ここは、どこだ?

 目に入るなにもかもには、やはり青がかっている。薄く闇が立ち籠めているせいで周囲の様子はその輪郭程度しか見通せなかったが、少なくともかなり見通しのよい場所であることはわかった。視界を遮るものはほとんどない。私に孤独を齎したその者を除いては、やはり依然として青い世界が果てなく続いているように見える。
 身動いで、思いがけず藻掻いた手は無数のあぶくを生み出して、途端視界が濁る。不明瞭な泡のヴェール越しにも私のすぐ目の前にいる闖入者の存在感だけは決して曇らない。白っぽい泡たちの向こうに見えるは、くっきりと浅黒い肌をした―男だ。
 つんざかれるような耳の痛みと共に激しい耳鳴りが訪れる。過度な緊張のためだろう。指先はすっかり凍えて、鼻までつんと痛い。
 不意に黒っぽい肌をした腕が目の前に突き出される。視野を曇らせる泡を切り裂いて、大きな手が私の顎を持ち上げるようにして掴み取った。冷たい手だ。親指と人差し指が頬に食い込んで、少しだけ痛い。

―目が覚めたのか、と訊いた」

 鮮烈に青い目が私を射抜く。萎縮して凍りつく私をさらに威圧するような眼差しだ。強張った身体がぎくりと震える。拍子に私の髪が重力の影響などまるで感じていないようにふわりと舞い上がって目にかかる。

 それで私は、ようやく自らが水中にいることに気が付いた。頭の天辺から爪先までがすっかり水に沈みきった状態で私は目を覚ましたのだ。驚きに開け放った口は泡を・・食って・・・、それで私は余計に慌てふためく。
 不可解なことに、水中にいながらにして呼吸にはなんの問題もない。私の目の前の男も呼吸に苦慮している様子は少しもない。

 ―それどころか彼は、もしや水の中で口を利いたのか?

「ふふ、なにを驚く。お前のちっぽけなものさしで身勝手に世界を測るな。傲慢だぞ、人間」

 まるで己は人でもないのだと言いたげに私を人間と呼ぶ彼の表情も声つきも、言葉とは裏腹になんとも楽しげだ。
 遅れてやってきた驚きに惑う私の頬をなにかが撫ぜる。人の手の感触ではない。顎を掴まれたままで首は動かせず、目だけでそのなにかの正体を追う。
 鰭―尾鰭だ。それも異様に大きい。
 目だけをじりじりと動かして、鱗が煌めく魚体へ視線を這わせる。やはり大きい。見たこともないような大きさだ。そしてその無数の鱗を備えた身は、ある一定まで視線を辿らせたところで唐突に人の肉へと切り替わる。筋肉の陰影がくっきりと浮き出た浅黒い腹、厚い胸板、私を掴む大きな手。
 ―魚の下半身に人の上半身をした、冗談みたいな目の前の男。

「……に、にんぎょ……」
「人魚を見るのは初めてか、人間」

 御伽噺上の存在でしかなかった幻想と対面した今、自身までもが水中で声を発したという事実には最早驚けもしなかった。
 彼は愉快そうに青の目を歪め、私の腕をぐっと引いて抱き寄せた。触れた人染みた身は、その手と同様にぞっとするほど冷たく身震いする。
 彼が私を抱いたまま仰向けになったかと思えば自身の髪が後ろに靡き始めて、そこで初めてさらに深い水底へ引き摺り込まれていることに気付く。咄嗟に押しやろうとして手を当てた胸板はびくともしない。どころか私の抵抗を面白がってでもいるのか、彼は喉をくつくつ鳴らすと私と肌を余計に隙間なく密着させた。
 人魚の拘束を振り払うこともできず、結局私は彼にいざなわれるがままに水底まで辿り着いてしまった。
 私を出迎えたのは砂地を埋め尽くすようにある岩場だ。茶とも黒ともつかない色をしたごつごつの岩肌には、それを彩るようにして鮮やかな珊瑚がびっしりと鎮座し、隙間には水草が優雅にそよいでいる。
 回りの悪い頭が、ようやくここが海であることを知る。
 多少闇に目が慣れたとはいえ海底にまで至って周囲の様子が窺えるのは、岩場のところどころにある吊り下げ式のキャンドルホルダ―のためだろう。しかしややくすんだ真珠色をしたホルダーの中にあるのは蝋燭などではなく、見たこともない鉱石と思しき物体だ。それが目映いほどに光り輝いて、灯りの用を為していた。
 美しくも異界然とした光景に、言い知れぬ恐怖ばかりが募っていく。

「は、放してください。帰して……」
「どこへ帰る?」
「どこへって、」

 堪えかねて怖々開いた口に、間髪入れず彼の問いが返る。思わぬ問いに、私は口籠った。

「い、家に……家に、帰るんです」
「忘れたのか? 俺は覚えているぞ、見ていたからな。
 お前は、お前によく似た顔をした女に埠頭から海に突き落とされた。棄てられたんだ。だから、俺がもらってきた」
「も、もらう≠ネんて……私はものじゃないです!」
「なにを言うかと思えば」

 嘲るように、彼が鼻を鳴らす。

「気軽に捨てられて拾われる存在だ、ほとんどものと変わらない。むしろ感謝してほしいものだな。俺は一度手にしたものは死んでも手放さない。それが、無価値と断じられ棄てられたお前のような存在であってもだ」

 周囲にはいつの間に集まり出したのか、男の人魚や女の人魚らが私たちを中心として弧を描くように回遊しながらこちらを見ていた。その傍らではイルカやシャチが種族の違いもものともせずにはしゃぎながら泳ぎ回っているが、もの言わぬ彼らの関心もまたこちらへ寄せられていることを私は直感する。果てには胴に浮き輪のように形作られた泡をすっぽり嵌めた犬や猫までもが平気そうな顔で水の中に浮かんで、こちらを遠巻きに眺めているようだった。

「帰ると言うがお前、そもそも自分がどうしてこんな場所で息をしていられるのか、少しでも不思議に思わなかったのか?」

 不思議に思わなかったはずはない。それでも数々の驚きに押されて、その疑問が薄れ始めていたことは確かだ。唐突に現実を突きつけられて、私の心臓は重たく脈打った。

「お前のたったふたつの瞳では常識を測りきれるはずもないが、それでも自分にできることとできないことの分別程度はつくはずだろう?」

 縦長の瞳孔がじわりじわりと横に嵩を増して正円に近付いていく。水棲の獣にあるまじき熱を感じてむしろ寒気を催した私は、本能的に己の末路を早々に悟っていたのかもしれない。

「俺から少しでも離れてみろ。お前の柔らかい肺は今にぺしゃんこだぞ」

 私の冷えた胸や腹を、人間擬きの指がつうとなぞる。肌に直接触れる感触に、私は自身が衣類をなにも纏っていないことに気が付いた。ここへ至るまでに脱げてしまったのか、それとも脱がされたのか。死への本質的な恐怖を前に羞恥心は微塵も沸き起こりはしなかった。

「想像できるか? 少しずつ少しずつ、巨大な手の内に握り込まれるように、お前の身体は圧し込められていくんだ」

 腰を抱く彼の腕に苦しいほど力がこもって、私は咳き込んだ。それでも力は緩まない。再現のつもりだろうか、ますます力はこもるばかりだ。

「息が詰まって苦しくなる。どんどん内臓が締め上げられていって、喉には血の味が込み上げる。肺は血とも水ともつかないものでなみなみと満たされるだろう。激しい苦痛はお前の時を狂わせるに違いない。幾万年にも錯覚するほどの永い苦しみを味わい尽くして、そうしてようやくお前の命は潰えることを許される」

 最早身動きのひとつもできはしなかった。ぎゅうぎゅうに締め上げられてちかちかと世界が瞬く中で、私を惑わせる人魚の声は柔らかに謳う。

「苦杯を呷った果てに死を見るか、俺の番となるか。―ふたつにひとつだぞ、人間」

 選ばせる心算など、元よりないくせに。


―――
23/05/07


TOP > story > short
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -