◎本作はゾーニングの一環として、ストーリー部分の前編と性描写部分の後編とで分割しております。ストーリーの内容としてはほとんどこのお話までとなりますので、高校生を含む18歳未満の方や性描写が苦手な方は、後編部分はご遠慮ください。
瑞樹くん、童貞卒業おめでとう🤍_前編
風邪のような熱っぽさが、おれを覚醒へと導いた。
住宅街に聳え立つマンション、その五階にある一室。
きっと眼下には浅い闇に家々の輪郭が煙るように沈んでいるのだろう。春も半ばとはいえ冷え込む朝方の屋外は、下手な夜よりも生命の気配が感じられず静まり返っている。
同じ部屋で眠る叔父さんと従妹のひっそりとした寝息に耳を澄ましながら、おれは息を潜めつつも早足でトイレへ立ち、その足でほとんどすぐに脱衣所へと向かった。
ただ目的を果たすというだけなら、本当はキッチンのあるリビングでもよかった。だがしかし、万が一叔父さんやミカゲが起きてきてしまった場合にキッチンは動線上丸見えになってしまう。こんな時間になにをと問い質されて上手く切り返せる自信がなかったおれは、結局脱衣所のドアを開けて、その先にある洗面台へと向かうしかなかった。
下半身がすうすうと冷えて落ち着かず、歩調はどんどん速くなる。
辿り着いた脱衣所の電気をなんとか手探りでつけると、茫漠としていた視界が一気に明瞭になった。
オレンジ色のLEDライトがまろやかなクリーム色の光を落とす脱衣所には、ドアの正面に備えつけの洗面台があり、その隣にはタオルと石鹸や洗剤、それから細々とした掃除道具などの小物を収納するウォールラックと洗濯機とが壁際にぴったりと並ぶ。洗濯機の手前には折戸で仕切られた風呂場が繋がっているのだが、今のおれに用はない。
少し迷って洗濯機に足を向けかけて、結局思い直して洗面台の前に立つ。家に置いてもらっている身として多少の家事の手伝いはしていたものの、洗濯機の扱いはまだわからなかった。
蛇口の栓を温水側へ、いつになく控えめに捻る。するとさして間を置かずに水道を駆け巡ってきた水がちょろちょろと微かな音を立てて吐き出され始める。
放出される細い水流に指を差し入れて水が温もったのを確かめながら、ふとおれは脱衣所のドアを閉め忘れていたことに気が付いた。
早く閉めなければ。
そう思って振り返るよりも早く、その声が響く。
「――タマキ、」
声を出せなかった。
一瞬、息も止まった。
怯えと羞恥に身を強張らせて、ただじっと背後からの視線を感じていた。
蛇口からは依然としてお湯が出続けていて、指先を温めている。おれは俯いたままで動けない。心臓がばくばくと鳴っていて、顔は燃えるようにカッと熱く、顔面中からじわじわと汗が噴き出した。いつまでも振り向けずにいるおれに痺れを切らしたか、重たい足音が床を軋ませて近付いてくる。
やがておれの真後ろに立った兄ミツユキは、脇を抜けるように後ろからぬっと腕を伸ばした。蛇口の栓を、かたちのよい手がきゅっと締める。
「初めてか?」
言葉少なに訊ねるそれがいったいなにを指しているかは自ずと理解できた。過度な緊張で呼吸が浅くなって息が苦しい。視界を涙で滲ませながらおれはやはり無言で小さく頷いた。兄貴はそれになにを言うでもなく洗面台の隣にある洗濯機の蓋を開けると、おれの手からボクサーブリーフを抜き取ってその中へ放り込んだ。
それでようやく、おれは自分の濡れた手元から顔を上げて鏡越しに兄貴の顔を見た。いつも通りの冷淡な面持ちには侮蔑もなにも上乗せられていないのがほんの少しの慰めになる。
兄貴は、黒のスーツを一式着込んでいた。最近ようやく見慣れてきたその姿はセレモニストとしての正装だ。セレモニーホールに勤めるセレモニストたちは故人を見送り、遺族に寄り添い、そして人知れず怪異と呼ばれる異形を討伐する職務を担っている。
セレモニストとしての仕事はよほど多忙を極めるのか、それとも他になにか思うところがあるのか、兄貴は高校生になった頃からめっきり家にいる時間が減った。大学生にもなるとほとんど帰って来ることもなく、寝泊まりさえ別の場所でしているらしかった。おれがスーツ姿の兄貴を見慣れるのに時間がかかったのもそれが原因だ。セレモニーホールで時たま見かける兄貴はおれとはなんの関わりもない赤の他人のようで、ちっとも馴染まなかった。
兄貴が、おれをちらりと見る。
「ズボンは?」
「よ、汚れてない……」
「ふうん」
不幸中の幸いと言い切るのも難しいが、汚れていたのは下着だけだった。気配を殺しながらも慌てて駆け込んだトイレで確認したのだ。だからそれだけを脱いで、ズボンはそのまま穿いた。
それを、スーツ姿の兄貴に確かめられるのが本当に恥ずかしかった。
そのうち兄貴の操作によって洗濯機はほとんど音を立てずに回り始める。叔父はバツイチなのだがその元奥さんが騒音に敏感なたちで、洗濯機は絶対に静音タイプがいいと言って譲らなかったそうだ。今は、それが役に立っている。
「お前、今はぼけっと見てていいけど、今度洗濯機の使いかた教えるからちゃんと覚えろよ」
「う、うん……わかった」
「家を出たら、暫くはお前に家事を任せることになるんだからな」
「……わ、かった」
おれはそのとき初めて、兄貴におれを連れて高蜂家を出ていく計画があることを知った。
分厚く広い肩越しに壁掛け時計を見ると、時刻はすでに深夜十一時を回っていた。その下、しっかり閉じられた戸口のそばには中学校指定の体操着の上半分が居た堪れなさそうに落ちていて、途端に今の自分の出立ちを心許なく感じる。
上半身には肌着もなく、下半身は下着と、頼りない体操着のズボン。反面おれを膝の上に抱えて椅子に腰かける彼は薄手とはいえVネックとスウェットパンツを着込んで、衣類の乱れなど一切見られない。
「――ひ……、んんッ……🤍」
気を逸らしたおれの意識を取り戻すがごとく、しっとりと濡れた唇が首筋を食む。
かと思えば耳殻の輪郭をぬるついた舌がなぞり、肌にじんわりと滲む汗を見咎められて鎖骨を小さく吸われる。身動ぎのたびにふたりぶんの体重を乗せた椅子がぎしぎし言うのがいやに耳障りだ。
風呂に入る前にと叔父さんに書斎へ呼ばれてから、もう一時間以上が経過していた。その間、彼はずっと飽きもせずに唇や舌でおれに触れ続けている。
彼の私室でもあるこの書斎は、兄貴が高校受験を控えていた際に一時的に使用していた部屋だ。高校入学後は兄貴があまり家に居つかなくなったこともあり、以降は元通り叔父さんの私室として使われている。ここが彼の仕事場だということは叔父さんのまだ幼い娘――おれにとっては従妹にあたるミカゲも一定の理解があって、よっぽど急を要することでなければ近寄りもしない。
叔父さんはそれを利用して定期的におれを書斎へ呼んでは、おれの肌へ熱心に吸いついた。
なにも同意がないわけではないし、虐待を受けているわけでもない。これはおれが内に溜め込んだ氣を吸い出すために必要な行為で、彼はそれに協力してくれているに過ぎなかった。
おれは、それを感謝するべきなのだと思う。
大きく突き出された舌が、おれの喉元から顎下までをべろりと舐め上げる。
「は、あっ……🤍 ふ🤍 んく……🤍」
「っは🤍 ん……🤍 ちゅぅ……🤍 ぷちゅ🤍 んむ……🤍」
叔父さんの舌は燃えるように熱い。
いや、舌だけではない。
開かされた脚の間に抱えた彼の大きな身体や、おれをがっちり閉じ込める筋肉の乗った腕や太い腿。それからおれの尻を押し上げる硬いそれも。
なにもかもが熱くて堪らない。彼の愛用しているグリーンシトラスのコロンでは最早誤魔化しきれない、男臭い汗とつんと鼻を刺激する淫臭とが蒸気のようにむわりと立ち上っている錯覚さえ覚える。叔父さんの熱が伝染しておれまで逆上せ上がりそうなほどだ。
初めてライセくんに氣を搾り取られたあの日から数年が経ち、今ではおれも自分がどれだけの氣を溜め込んでしまっているのか、自分の氣の残量がどれくらいかはなんとなく見当がつくようになってきた。無知をいいことにライセくんに散々弄ばれた賜物と言えるかもしれない。
それに関連して、ひとつわかったことがある。性急というわけでもないが躊躇いなく事を済ませてなお意図的におれの身体に触れる時間を引き延ばそうとするライセくんに対して、叔父さんから施される氣の吸引は本当に時間がかかった。多分それはライセくんから聞いた話も加味するに、彼の中にひとつの線引きがあったためだろう。
叔父さんは、おれの腰から下へは決して手を触れようとはしない。
ライセくんの談では氣を取り出すには性的な接触が一番手っ取り早いという話だったから、叔父さんとのそれに時間を要するのはきっと単純にこの程度の触れ合いでは手緩いということなのだろう。
ただ正直なところ、叔父さんのおれに対する「まだ子供なのだし、血縁なのだから」という気遣いはありがたかった。
自分が潔癖だとまでは思わないが、おれには性的な交わりに抵抗がある。協力を強いる立場ながら申し訳なくて誰にも言ったことはないが、ライセくんあたりは明確にそれに気付いていただろうし、叔父さんも薄っすらとは勘付いていたのではないかと思う。
――とは雖も、近頃は妙な雰囲気だった。
「……っん、う🤍」
肩口や耳元にかけられる熱い吐息に思わず肌が粟立つ。しがみつくように強く回された手のひらがおれの背中を嬉しげに這いずり回っているのが、少し――ほんの少しだけ、恐ろしかった。
手持無沙汰に叔父さんの腰あたりに回していた手を持ち上げて、彼の胸板をやや強く押し返す。
「……ね、叔父さん、もうやめて……」
おれの拒絶に叔父さんははっとして、ようやく顔を上げた。常日頃はきりりと理性的な瞳はうっとりと蕩け切っている。薄い色素の虹彩を守るためのサングラスもない今はそれがよく窺えた。
淫猥の膿を吐き出すがごとく、蟀谷から頬へひと筋の汗が流れ落ちていく。
「あ……す、すまない。その、……痛かったかい?」
「痛かないけどさ……。……今日はもう、いいでしょ。違う?」
「……ああ、そうだね」
叔父さんは、最近少しだけしつこくなった。
もうじゅうぶん気は吸い出せただろうにいつまでも行為≠繰り返して、こちらから声をかけなければ動けなくなるまでくたくたにされてしまうこともままあるようになった。それでもまたおれの不自由な身体は翌日にはたっぷりの氣を溜め込んでしまって、再び夜にこんな時間を設けられる。
助けてもらっているだけなのに。こんなことを考える資格はちっともないのに。叔父さんが熱に浮かされたような眼差しでおれを見つめてくるたびに、少しずつおれは不安になった。
ぎっちり抱き締められていた身体が少し解放されたことで停滞していた熱っぽい空気が押し流されたような気がして、ようやくひと息つく。
べたつく肌もそのままにやや低い室温で身体にこもった温熱が逃げていくのを待って目を伏せるおれの脇腹を、叔父さんはなんだか名残惜しそうに撫でている。
「……タマキも、随分大きくなったんだな」
それで急に脈絡のないことをしみじみ言い出すものだから、おれはついおかしくなって声を上げて笑ってしまった。
「ええ? はは、なに? 急に」
見上げた叔父さんの顔は、にこりともしていない。
「……なんだか、ふとそう思ってね。初めて会ったときはあんなに小さかったのに……」
「そ、れは……初めて会ったのなんて、おれがほんとにちっちゃい頃のことだし……」
異様な空気に怖気づいてさりげなく腕を払おうとした手は逆に絡め取られて強く握られる。
叔父さんはまだおれを手放してくれない。身体の熱もちっとも下がらない。質量を保ったままのものが媚びるように尻の割れ目に擦り寄せられる。
中途半端な笑いが徐々に引っ込んで、おれは多分変な顔で叔父さんを見ていたと思う。
「段々こうしてひとつずつ、お前は大人になっていくんだろうな」
ありふれた言葉だ。叔父が甥にかけるには、ありきたりで。親愛が込められているはずで。
それなのに、どうしてだろう。なんでなんだろう。
すごく、すごくすごく。
――――今、目の前にいる男を嫌だと思ってしまった。
「……なあ、タマキ、」
「な、……なに」
絡められた指が解けない。叔父さんが放してくれない。おれを抱いたまま、熱い身体をして熱い息を吐いて。
訊ね返す言葉はあからさまに震えていた。
少し荒れた固い指の腹がおれの手の甲を舐めるように撫ぜている。おれを検めるがごとくつぶさに見つめる青い瞳は少しだけ血色を帯びて紫色にも見える。褪せたアルバムでしか顔を知れない父は、きっとこんな目をしていなかったはずだ。
お互い言葉もなく、硬直して見つめ合う。
そんな張り詰めた空気は、突如として開いたドアによって強引に割り開かれた。
「――少しいいですか、叔父さん」
熱心に耳をそばだてていたわけでもないが、近付いてくる足音はなかったという確信がある。なのにいっそ耳障りなほど大きくノブを回す音が響いて兄貴が顔を覗かせたので、おれは本当に驚いた。ドアに背を向けていた叔父さんはそんなおれよりももっと驚いたのではないだろうか。
肩を大きく跳ね上げた叔父さんはおれを隠すように抱きすくめると、すぐに背後を振り返った。
「ミ、ツユキじゃないか。随分久しぶりに顔を見るけど……元気にしていたかい?」
「ええ、おかげさまで。すみません、タマキの面倒を任せっきりにしてしまって」
「いいんだよ、家族じゃないか」
叔父さんのぎこちなさと半裸のおれの存在を除けば、愛想よく交わされるふたりの会話は和やかだ。兄貴は、おれ以外にはにこやかで物腰が柔らかい。
「それで……なにか話があるようだけど、」
「――ああ、そうなんです。実は、タマキと一緒に家を出ていこうかと思って」
兄貴の言葉の後に会話が一瞬だけ途切れる。叔父さんはぎょっとして目を瞬かせていた。
「……それは、また……急な話だね」
「相談もせずすみません」
言葉と声音と表情を一致させて、兄貴がすまなそうに微笑む。真っ青な瞳は一瞬たりともおれに向くことがなく、そんなわけはないのにもしや彼はおれの存在に気が付いていないんじゃないかと思った。
「でも、前々から考えてはいたんです。ずっとこうして居候を続けるのも心苦しいですから。タマキもひとりで留守番ができるくらいの分別はついてきただろうし、俺もある程度のまとまった貯金はできてきたから、いい機会だと思って」
「ミツユキは昔からしっかりした子だったから心配はないだろうが……」
叔父さんは困った顔で、思い出したようにおれへ目をやるとあっさりと解放してくれた。しかし今こうして手放されたところで、スーツ姿の兄貴と上下着込んだ叔父さんの会話に半裸のおれが挟まるのも居心地が悪い。せめて脱がされた体操服を拾いに行きたいのに、それを取りに行くにはこんな間抜けな姿で兄貴の前へ出ていかねばならない。
仕方なく叔父の後ろへ存在感を消すように一歩下がると、兄貴の皹ひとつない笑顔がほんの少しだけ歪んだ。視界の端でおれがちょこまかしているのが鬱陶しかったのかもしれない。
「でもな、口で言うのはなんでも簡単だが、お前が思うよりも兄弟ふたりっきりでやっていくっていうのは大変だよ。なにかと金は入用だし、家事も慣れないうちは苦労するだろうし……。それに住む場所は? もう決まってるのかい?」
「ええ、実は少し前からひとり暮らし自体は始めていて、だから単純にかかる金が増えるということだけならなんとかなると思います」
「え――、」
「――は!? いつの間に……! 保証人はどうした!? いや、それよりも……!」
思わず上げた声は直後響いた驚愕の声に掻き消されたが、兄貴だけは感情の灯らない眼差しでおれを一瞥した。
叔父さんはというと突然部屋に押しかけられた上に思いもよらない衝撃の事実を打ち明けられて、とうとう参ってしまったようだ。すっかり混乱しきって、目を白黒させてあたふたとしている。
「いや、いや……わかった。ちょっと、待ってくれ。ふたりでゆっくり話をしよう。……タマキは風呂に入って、もう寝なさい。いいね?」
「う、うん」
自分も関係する話なのにひとり除け者にされる疎外感よりも、今この場から脱け出せる安堵感のほうが勝った。
促す声に背中を押されて、おれは床でぐしゃぐしゃになった体操着を拾うだけ拾って逃げるように駆けていく。背中に強く突き刺さる視線が誰のものだったのかは、振り返りもしなかったからわからなかった。
「今日、出ていくことになったから」
起床後リビングに立ち入るなり珍しく家で朝食を摂っていた兄貴にあっけらかんと言い放たれ、おれは唖然とした。同じく席についていた叔父さんにちらりと目をやると困ったように微笑まれる。
何事かを言い返す余地もない。あれよあれよと言う間におれは急な頭痛だか腹痛だかで学校を休むことになっていて、兄貴は夕方までに当面必要なものをまとめておくようにとだけ言いつけて仕事へ向かっていった。
驚きはしたものの一度作業を始めてしまえば案外熱中するもので、荷物という荷物もさほど持っていなかったおれは昼過ぎぐらいにはもう荷造りを終えていた。その後はわざわざ仕事を休んでくれた叔父さんの用意してくれた食事で遅めの昼食を摂り、夕方には家で着替えでもしてきたのか私服姿の兄貴が帰ってきて、彼が乗りつけたレンタカーに荷物を積み込んで新居へと連れていかれた。
嗅ぎ慣れない新車っぽいにおいの充満する車に揺られてしばらくすると目の前にひと棟のアパートが現れた。案外清潔な印象のある三階建ての建造物で、築年数もそう経っていなさそうに見える。そのすぐ横には専用の駐車場があり、兄貴はそこへ車を停めた。どうやらアパートの管理人に事前に話をつけて、ひと晩駐車スペースを貸してもらえるようにお願いしていたのだという。
車から降りた後は、おれの持ち込んできた荷物と道中で買ってきたテイクアウトのピザをそれぞれふたりで運んでいく。
骨組みだけみたいな鉄階段の奥に隠れた、道路に面した側の角部屋。そこが兄貴の部屋らしい。
玄関ドアを開けてすぐに現れた、表面のざらっとした白色のビニールクロス貼りの壁に茶色のフローリング張りをしたリビングを兼ねたダイニングキッチンの中は、なんというかがらんとしていた。必要最低限のものさえじゅうぶんに揃っていないように感じた。
クロスで目隠しのされた横に広いオフホワイトの収納ラックと、壁に立てかけられた折り畳み式の小さなテーブル、それからフローリングの上に敷かれたマイクロファイバーのラウンドマット。キッチンスペースには白で統一された硝子戸の食器棚や冷蔵庫が並び、小さな窪みのような収納スペースにはあまり使い込まれていない電子レンジがあって、ただそれだけ。
数少ない兄貴の嗜好が反映された痕跡と人が住んでいる空間に染みつく固有のにおいだけが、かろうじてここが兄貴の城なのだと主張する全てだった。
兄貴はシンク台の上にピザの入った袋を置くと、おれを雑に手招きして呼んだ。
「荷物はこっち」
先導されて通されたのはリビングから直接繋がる洋室だ。兄貴が壁にある片切りのスイッチを押すと、二度三度と瞬いて真っ暗だった部屋がぱっと明るくなる。
カーテンの閉め切られたそこは、どうやら寝室として用いられているようだった。両開きの折戸で仕切られた大きな収納スペースのある部屋は、半分がホワイトグレーのカーペットで覆われ、その上に壁際に寄せてパイプベッドがひとつある。
あとはもうなにもない。リビングと同様にあまりに殺風景な内装だ。
兄貴の指示通りにひとまず収納の前に段ボールを置いて、おれたちはリビングへ取って返した。
「――ベッドとか勉強机とか、いるよな」
氷の入った麦茶を傾けながら、独り言みたいに兄貴が言う。一拍置いて返事を求められているのだと気付いたおれは慌てて口の中のピザをぐっと飲み込んだ。パンみたいに厚みのある生地が喉に引っかかって、少し痛い。
「でも、お金」
「満足に必要なものも買い与えられないなら端から俺が引き取るなんて話になるわけないだろうが。妙な気回すな。明日か明後日にでも見に行くからな」
「わ、わかった」
打ち切られた会話の間を繋ぐように、おれは食べかけのピザを口に詰め込む。兄貴が飲みもの以外口にしていないことにやっと気付いてそれが少し気にかかったが、わざわざ訊ねるのも兄貴の気を煩わせるかと思って言葉にできなかった。
こんな他愛のない話ひとつも気兼ねなくできずに、我がことながら兄弟らしからぬ兄弟だと自嘲する。
兄貴にはおれを嫌う真っ当な理由があって、おれには兄貴に一生かけても返せない負い目があった。それなのに、彼は誠実な責任感たったひとつでおれの身柄を引き受けてくれたのだ。
おれにできることは、この先できるだけ兄貴の機嫌を損ねないように振る舞うことだけだった。
ピザは薄い生地よりも食べ応えのある厚い生地が好きだ。しかしたったひとりで一枚を食べきるという話になるとそうも言ってられなくなる。
兄貴は相変わらずピザには一切手をつけない。油の染みたボール紙製の箱をさりげなく回転させて兄貴が手を伸ばしやすいようにしても、いつの間にか彼自身の手で元通りにされている。残そうにも手を止めるとちらりと視線を向けられるのがなんとなく咎められているような心持ちがしてどうにも気まずい。
仕方なく冷えて固くなってきたチーズをなんとか咀嚼し続けてようやく正円をしていたピザが半月型に近くなってきた頃に、兄貴が徐に言う。
「……お前からは、甘いにおいがする」
大きな手の中にあるちびちびと傾けていた麦茶はもう空で、色も柄もないグラスには溶けきった氷だったものだけが揺蕩っている。
「お前の身体がどんどん大人になってきてるせいかな。前からそうだったけど、近頃は況して強くにおう」
「……そう、なの? おれはよく、わかんないけど……」
「そう。……お前の氣が滾ってて、甘いにおいがして……それがさあ、俺たちをちょっとぐちゃぐちゃにするんだよな」
肩口に鼻を寄せて嗅ぐも、自分が変わったにおいをさせているという実感は特に得られない。ライセくんも叔父さんもおれにはなにも言わなかったが、内心は同じように思っていたのだろうか。
向かい合わせ、ちゃちなテーブルの対岸に座っていた兄貴は言うなりおれのそばへにじり寄ると、なんの予備動作もなく手を伸ばしてきた。広い手のひらが視界のほとんどを覆い尽くす。
「え、」
そしてぐるりと、視界が回転した。
温度のある影が、おれの上で揺らめく。
「今までのやりかたじゃ、追っつかなくなってるんだろ、きっと」
勢いよく引き倒された身体が思いの外痛まなかったのは下に敷いていた毛足の長いマットのおかげだろう。電光を頭の後ろへ背負って暗く淀んだ兄貴の目は、それでも至って正気の光を宿している。おれの肩を床へ縫いつける腕の力強さに迷いや躊躇の類いはひと欠片もない。
「弟の不始末を面倒見るのが、兄貴の義務だからな」
困惑に漬かり切った頭は一瞬で冷えて全身の血の気が失せる。言外の真意を察して身体がぎしりと強張った。
彼は今、誰よりも深くおれの身体に触れようというのだ。
「で、でも、わざわざ兄貴がしないでも。今でもライセくんとか、叔父さんとかがしてくれてるし……」
「……」
「お、お願いすれば、もっといっぱいしてくれると思うんだ」
もうなにもわからないほんの小さな子供じゃない。今以上に深い交わりがいったいどういったものを示すのかおれにはわかる。今のまま当たり障りのない接触で済ませてもらえたらと期待していなかったと言えば嘘になるが、それでもいずれおれは本当の意味でこの身を暴かれることになるだろうことは覚悟していて、だけどその空想の相手は兄貴じゃなかった。
我ながら散々世話になっておいて薄情な考えだとは思う。でも正直言って、ライセくんも叔父さんもおれにとってはそう変わりない、他人みたいな存在だ。
しかし兄貴は違う。どんなに冷たくされても兄貴はおれの兄ちゃんで、たったひとりのこされた色濃く血をわけた家族だった。
「だから、」
「……お前な、あんまりみっともないこと言うもんじゃねえよ」
言い募るおれをひと息に切り捨てる声は容赦がなく冷ややかだ。軽蔑したような目つきだった。
「……え、あの、でも……」
「そうやって他人様の厚意に甘えて世話になることを当たり前だとでも思ってるのか? こんな恥知らずの弟を持って俺は情けないよ」
「ち、ちがう。おれ、そんな、つもりじゃ」
「不具の身で産まれてきて、母さんにも父さんにも俺にも迷惑かけ通しの分際のくせに、よくもそんな口がきけたもんだな」
「っ……――――!」
今まで刺さっていた棘をさらに深く突き込まれて、改めてその痛みを認識させられたような思いだった。兄貴のおれに対する嫌悪と憎悪がそのひとこと全てに詰まっていた。
その怯んだ隙をついて、ラグランパーカーが大きくたくし上げられる。
「っあ! あ……。っや……ま、待って、待ってよ。ねえ、やめて……」
剥き出しになった表皮を温い空気が通りすがって鳥肌が立つ。服を引っ張る拳へ咄嗟に添えた手に逆らう力がないことなんておれ自身が一番よくわかっていて、それでも声を上げずにはいられなかった。
だがその往生際の悪さが、きっと彼の琴線に触れたのだ。
「――やめて≠セ?」
ばちんという肉と肉のぶつかる殴打音と共に、視界が大きくぶれる。
頬を打たれたのだと、少し遅れて理解した。
大きく響いた音ほどにはさほど痛くなかった。それほど力は込められていなかった。だけどこの構図がおれにあの廃工場での夏の日を彷彿とさせた。
見知らぬ男に恐ろしいほどの力で抑え込まれて乱暴されかけた、あの忌まわしい記憶を。
「……あのなあ、お前、俺がいったい誰のためにこんな娼婦の真似事みたいなことしてやってると思ってるんだ?」
「は、あっ、う、ぅ……」
「俺がなにか間違ってるって言うのか? え? おい。なんとか言ってみたらどうなんだよ!」
「っひ! あ……」
胸ぐらを掴む手はそのままおれの上体を僅かに浮かす。鼻先が交差して擦れ合うほど間近に至ってもおれたちの間には親しみなんてものはひと匙も生まれない。
謂れのない暴力は恐ろしく醜悪だ。だけど、正当性のある避けることの許されない暴力はそれよりももっと恐ろしかった。
「……た、たたかないで……」
兄貴の艶のある唇に強かな嘲笑が刻まれる。か細い懇願が、彼の耳には虫の羽音にでも聞こえていたのかもしれない。
「ハ、叩かねえよ。お前が馬鹿なこと言わなきゃな。で? どうなんだ? 俺はなにか間違ってたか?」
「ま、まちがってない……まちがってないから……」
「そうだよなあ? お前が変なこと言うから、傷ついたよ、俺は。これが善意と義務で弟のちんぽの面倒を見てやろうっていうお兄ちゃんにする仕打ちか? ええ?」
兄貴の指がついさっき打ち据えたばかりのおれの頬を撫でる。何度も何度も、執拗に撫でる。おれはいつその指が拳になって降ってくるかが怖くてぶるぶる震えながら必死に首を横に振った。
それで、兄貴はやっとにっこりと笑ってくれた。
兄貴からこんなふうに笑いかけられたのは生まれて初めてだった。
「なあ、俺も鬼じゃないよ。お前がきちんと反省してるんなら、これ以上叱ることもないんだ。なあ?」
「ご、ごめんなさい。おれ、ちゃんと反省する……してるから……」
「本当に?」
「うん、うんっ……。あ、兄貴に許してもらえるまで、ちゃんと、謝る。ぜ、全部、言う通りにする……」
「わかった、わかった。そこまで言うんなら、ここはひとつ、お前が本当に俺の言うことを良い子にきけるのかテストをしてみようか」
兄貴はおれの胸を跨ぐように膝立ちになると、目の前でスキニーのチャックをゆっくりと下ろし始めた。露わになったチャックの奥からは汗を煮詰めて微かに饐えたようなにおいが漏れ出してくる。
「――――しゃぶれよ、タマキ🤍」
おれは、兄貴の命じる通りに口を開くよりほかなかった。
――――
22/08/19
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