久しぶりだね、瑞樹くん
人が大勢犇く駅前の雑踏でその小さな声を正確に拾い上げられたのは、ほとんど偶然だった。
「――タマキくん?」
通り過ぎかけた足がなにを思うよりも先にぴたりと止まる。これだけの人がいるにも関わらず煩わしいほどの喧騒が急速に遠ざかって、まるで自分が世界から放り出されたような感覚に陥った。
振り返れば、おれを呼び止めた声の主もまた足を止めてこちらを見ている。御空色のタートルネックの上衣に生成色のデニム生地のロングスカートを合わせた、モデルのような美人だ。予想だにしなかった美貌の主にかえって視界の暴力を喰らった心地になって、おれはぐっと喉を詰まらせる。
自分で呼び止めたくせして驚いたように自らの口を白魚の手で塞いだ彼女は、目の覚めるように鮮やかな赤髪をしていた。風にそよいだ彼女の前髪の隙間から覗くスモーキークォーツの瞳が、ぱっと閃いておれを真っ直ぐに貫く。
その虹彩が、おれに強烈な既視感を与えてやまなかった。褪せてほとんど消えかけていた記憶が、急速に裾を広げて溢れ出した。
黒と赤のランドセル。
暮れかけた空。
塗装が剥がれかけて錆の浮いていた遊具がぽつぽつとあるだけの、本当にちっぽけな公園。
そこでかつて、お互いの傷を共有しあった女の子――――。
「…………ラクコちゃん?」
「……うん、久しぶりだね、タマキくん」
彼女――蟹道楽子は驚きの表情から一転、おれを見て泣きそうに微笑んだ。
俵谷駅構内直通の駅ビルは、この辺りでは一番栄えている商業施設でもある。だから当然その駅前にも行き交う人は多く、彼らは往来のど真ん中で立ち止まるおれたちを迷惑そうに通り過ぎていく。
結果おれたちはどちらからともなく切り出して、駅前広場にある銅像の前に避難することにした。米所だというわけでもないのにいったいなんの由来があって設置されたものか、大きな台座の上へ米俵が三角形を描くように三つ積み上げられた造形物だ。
待ち合わせの定番でもあるそこも多少混み合ってはいたけれど、お誂え向きに複数人掛けのベンチがひとつ空いていて、おれたちは拳ふたつぶん程度の距離をとって並んで座る。
しばらくそうやって黙ったきり、おれたちはふたりでぼんやりとタイル敷の道路を見つめて無為な時間を過ごしていた。ただただ緩やかに、なにものにも急かされることなく時が流れていくのを感じていた。
少なくともおれは彼女を旧友だと思っていたし、この偶然の再会が嬉しくなかったわけでもなかった。ただ、多分お互いになにを言えばいいのかわからなかったのだと思う。
不可思議な沈黙の中で最初に口を開いたのは、ラクコちゃんのほうだった。
「……たまにね、タマキくんのこと、思い出してたんだ。今はどこにいて、どうしてるんだろうって……」
思わず横を向く。
ラクコちゃんは依然として前を向き続けている。白い頬に垂れる横髪を残して長い髪を全てまとめ上げている彼女の、その耳の下。そこに青黒い痣の痕がないのを見て、おれはなんだか鼻がつんとした。赤みを帯びた夕焼けの陽射しにおいても覆い隠しきることの難しかった彼女の身体に残された暴虐の痕は、もうどこにもなかった。
「今日もそんなふうに考えてたから、タマキくんに似てる子だって思ったら、つい声をかけちゃった」
眉を下げて、ラクコちゃんは笑う。
「ちょっと考えなしよね、人違いだったらどうするつもりだったんだろ」
「でも、人違いじゃなかったでしょ」
「……そう、そうだね。本当に、タマキくんだった」
眩しそうに目を細め笑うその表情こそが、おれには眩しくて堪らなかった。友愛に満ちた甘い顔に滲んだ目元を見られたくなくて、今度はおれが前を向いて視線を逸らした。
さりげなく俯きがちに目を指で擦って、鼻を啜る。足元ではおれのスニーカーが踏むタイルの上を食べかすを抱えた蟻がえっちらおっちら歩いていくのが見えた。
そうやって地面を眺めて俯く視界に自分の黒い前髪が映り込んだからなんとはなしに指でつまんで、そういえばと思う。
黒染めをしたおれの髪。
自分で染めているから多少色ムラがあったりそもそも染め切っていないところもあったりするけれど、それでもぱっと見た瞬間には黒髪のように見えるはずで、かつてのアッシュブロンドをしたタマキくんとは早々イコールでは繋がらないのではと思うのに。
「……今さらだけど、よくおれだって気付いたね?」
髪に触れたままで視線を送れば、ラクコちゃんはきょろ……と視線を彷徨わせてから中途半端に笑った。
「うーん……、うん、なんとなくね。でも、顔を見たらすぐにそうだって思ったよ。タマキくんの顔の黒子って、特徴的だから」
「ああ、確かに。泣き黒子自体はたまに見るけど、ふたつもあるのは珍しいよね。おれも、自分と兄貴でしか見たことない」
「お兄さんもその位置に黒子があるんだ? 兄弟ってそういうところも似るんだね」
「むしろそこしか似てないよ」
「ふふ、本当? ちょっと並べて見てみたいかも……。わ、……」
不意に横から吹きつけるようにびゅっと風が通り過ぎる。街路風だ。建物と建物の間から現れて砂や埃を纏い街道を駆け抜けていく風に、ふたりで口を閉じる。風の進行方向からは少し遅れて幾人かのはしゃいだような悲鳴が聞こえて、同じく風の煽りを受けたようだった。
「……タマキくんだって思ったの、実はもうひとつ理由があってね」
風が止み、乱れた髪を直しながら彼女がまた切り出した。
「もしかしたらあんまり気分よくないかもしれないんだけど。……タマキくんってね、私から見ると、なんだか他の人とは違うように思えるの」
「違う?」
「うん。雰囲気っていうのかな。纏う空気感が違うっていうか……」
背筋を伸ばしてベンチに腰掛けるラクコちゃんは凛として美しく、おれからすれば彼女のほうこそ群衆に紛れても人目を惹く素質を持ち合わせていると思うのだが、きっと彼女が言いたいのはそういう単なる視覚的な事柄ではないのだろう。
「……なんだろう。ごめんね、うまく言えないや」
「……ふうん?」
思い悩むように色艶のよい唇の下を曲げた人差し指の関節で擦った彼女は、しかし結局考えあぐねた挙句に自ら話を打ち切ってしまった。
取り立てて問い質すようなことでもないと思うから、おれは特に追及することもなく話題を変えてやる。
「ところでさ、ラクコちゃんって今ここらへんに住んでんの?」
おれたちが通っていた母校は俵谷町にはない。とびきり距離が離れているというわけでもないが、学区内にはもちろん掠りもしない。おれはあの夏の日以降色々とあって学校へ行かないまま、長期休みのタイミングで転校させられて以降はずっとこの町にいるから当然として、ラクコちゃんまでここにいるとは思わなかった。
おれのそんな疑問に、ラクコちゃんは首を緩く横に振って答える。
「あ、ううん。この辺りではないんだけど、でもわりと近いよ。ここから電車で一本」
「電車で一本ってなると……押転町のほう? それとも逆方向?」
「押転町のほうだね」
「悪く言うつもりじゃないけど、押転町って交通の便悪くない? あんまり開発進んでないし……正直住みやすいイメージないんだよね」
「普通に住むぶんにはそこまで苦労しないよ。近場にスーパーもあるし、小さな商店街もあるんだけど結構安く日用品が買えたりするから、そういう点ではむしろ住みやすいかも。家賃も安いしね」
「なるほど。ひとり暮らしだと家賃問題は切実か」
「うん、そうなの。でもやっぱり生活必需品以外ってなると、いいお店があんまりなくてね。俵谷駅のほうは充実してるから、買いものはこっちに来てすることが多いんだ。
……そうは言っても、本当に駅前ぐらいしか歩かないから、あんまりここらへんに詳しいわけじゃないんだけど」
ラクコちゃんはミニサイズのエコバッグに入った数冊の本を見せてくれながら「今も、よく行く本屋さんの帰りなの」と言う。わざわざここまで出てきて、休日の昼前だというのにもう帰るつもりなのかと内心驚く。
おれなんかは出不精が一周回って、一度外出したらもうしばらく外に出なくてもいいようにありとあらゆる用事をこなすべくそこそこ長く出歩くので、彼女の弾丸ツアー的な買い物旅がなんだかとてつもなく勿体なく思えてしまう。
少し悩んで、おれは改めて隣に座る彼女のほうに向き直った。
「この後用事ないならさあ、観光しよーよ、ラクコちゃん」
「観光?」
ぱちくりとラクコちゃんの大きな目が瞬く。
「おれ、ここに住んでそこそこ長いから結構穴場の店とか知ってるよ。お友達割りで観光ツアー費は初回無料。どう?」
呆気に取られたようにおれの顔をまじまじ見ていたラクコちゃんは、やがておれの提案の内容が段々飲み込めてくると鈴を転がすようにころころ笑って頷いた。
「ひとまず、喉とか乾いてない? 初めての人は取っつきにくいかもだけど、いいカフェあるよ」
「ガイドさんのおすすめなら、ぜひ」
にこにこ笑うラクコちゃんと並んで歩き出す。目指すはカウンセリングルーム『こころのおやま』併設のカフェだ。看板に記されたカウンセリングという文字が真っ先に目に入るので馴染みのない人間は尻込みしがちだが、あれで雰囲気は中々いいし案外美味しいコーヒーが出る。
ゴミ袋用にもらっていたペーパーバッグの中で、とっくに飲み終えたテイクアウトのフラペチーノのストローが容器を暴れ回ってからから鳴いている。
裏道に建つ洋食屋へ行ったり、住宅街にぽつんとある花屋を冷やかしたり、はたまた入り組んだところにある古着屋を訪れたり。比較的ニッチな店ばかりを選んで足を向けていたおれたちは、最後にということでとある雑貨屋に来ていた。これまたわかりにくい細道の奥にあって、個人が営んでいるから一見普通の一軒家に店舗スペースがくっついていて初めての人は例えたまたま訪れたとしても入りにくい店だ。でも扉を開けさえすれば愛想のいいおばさん店主が優しく出迎えてくれる。
木製テーブルに置かれたケースの中、小袋に詰められた手作りのクッキーやらマドレーヌやらを物色しながらおれは道中ずっと頭にあったことをなんとなく取り出してみる。
「おれのことを少し違うって言うけど、」
「うん?」
対するラクコちゃんは手作りの小物が並ぶ棚の前にいた。大きな桃の上に乗った小さな蟹の、和風テイストの置物をいじりながら彼女は首を傾げる。なんなんだよ、その『桃太郎』でも『猿蟹合戦』でもないテーマがわからなさすぎる小物は。
「ラクコちゃんも、おれからしたら少し変わったにおいがするんだよな」
「……柔軟剤?」
「はは、この流れでそんなこと言う?」
外れた返しに、さすがに笑う。ラクコちゃんもそんなわけはないだろうと思いつつ口に出したのか、半笑いだ。
「そういうんじゃなくて。んん……、そうだな。外国製の雑貨ばかり置いてる店とかって入ったことある? なんか、感覚的にはそういう感じのにおい。俺たちが普通に馴染んでる日常から、ちょっと離れた感じのにおいがする」
ラクコちゃんがゆっくりと瞬きをする。先までの笑顔とは打って変わって無感情的な表情だった。気分を害したというわけではないようだが、恐らくは快くも思っていない。言葉では言い表せないなにか複雑で難しい感情が、彼女の白い顔には上乗せられていた。
「タマキくんは……結構鋭いんだね」
なにかを言いかけていたかもしれないし、なにを言うつもりもなかったのかもしれない。結局ラクコちゃんはそれだけ言って、にこりと笑った。
そうこうしているうちに少し日が傾いてきて、雑談の流れでラクコちゃんの家の近辺には街灯が一本も建っていないとかいうふざけた情報を仕入れていたおれは、彼女を伴って駅までの道を引き返していた。
昼間の青々とした光が夕焼けの赤っぽい光へと今にも切り替わろうとするこの時間帯が、おれに変な具合の感傷を与える。
「ねえ、ラクコちゃん」
「なあに、タマキくん」
お互いいい歳して丸きり子供同士の呼びかけだった。その甘ったるく乳臭い応酬が、公園で共に過ごした一日旅行の記憶が痛烈に呼び起こす。
おれたちはあのとき、どこにも行けないと知りながらもどこかへ行くふりをした。そんなちっぽけな真似事で満足を得ようとしていた。あのときのおれたちは、多分自分たちは永遠に逃げられないのだという諦めを固めつつあった。
「ラクコちゃんはさ、あの日から、ちゃんと遠くに行けた?」
「……ううん、まだ」
駅へと向かう路地裏の、赤黒い地面をふたりでじゃりじゃり鳴らしながら歩く。
否定しながらも彼女の声は明るい。だからおれも悲嘆せずにその言葉の続きを待ち構えることができた。
「――でもね、これから行くの。一緒に歩いてくれる人がいるから」
嬉しくて、切なくて。ただ置いてけぼりにされたようで。でもおれの心のうちには誰になんと言われようとも確かに喜びがあった。偽善だのなんだのと言われても、おれに彼女の足を掴んで引き摺るような気持ちはこれっぽっちも生まれなかった。
「――タマキくんは?」
細い道幅では横に並んで歩くことはできず行進するみたいに歩くふたりの背後で、肌に吹きつける感触もないのに風の音がする。
その音に紛れるようにして、ラクコちゃんの柔らかな声がした。
「タマキくんは、少しでも自由になれた?」
「おれは……」
なんとも言えなくて、乾いた唇を湿らせる。
別におれは彼女みたいに虐待を受けていたわけじゃない。子供ながらに叔父さんはきちんと保護者としての責任を果たしていたと思うし、明らかにおれに非があることをしたときでも真っ当に叱られるだけで、暴力を振るわれたことは一度としてない。
言い淀むおれの手をラクコちゃんが後ろからぎゅっと握る。
温かくて、すべすべした手だった。
「ねえ、タマキくん」
「なあに、ラクコちゃん」
「……あのね、私じゃ力不足かもしれないけど……、」
彼女は、おれが握り返せもしない手にどうしてこうまで強く力を込めてくれるんだろう。
本当に温かかった。涙が出るくらい。
「それでもタマキくんが思うように生きられることを願ってる友達があなたにもいるってこと、忘れないでね」
振り返れない背後では、透明で不純なものなんか少しも混じっていない宝石の瞳がきっと煌めきながらおれを見つめている。
口唇を開く。なにを言うべきかはわからなかった。言うべきでもなかったかもしれない。ただ、なにかを伝えなくてはならないと思った。
だけどその心が音を成すことはなく、突風よりもなお強い激風がおれの言葉をひとつ残らず奪い尽くした。
変に強い風だなと構えていた呑気さが、ごうと唸る風が巻き上げたコンクリート片に殺されてようやくおれは恐れをなす。
明らかに異常だった。この場で、尋常でないなにかが起きていた。
振り返ればラクコちゃんも同じく青褪めていて、肌に汗を浮かべている。状況の把握が追いついていないのはお互い様らしい。
そしてそんな彼女のさらに後ろに、おれは見た。
ごう、ごう、と。唸りを上げながら、なにかがこちらへ来る。風に乗って、途方もなく大きななにかがこちらへ歩いてくる。
逃げ切れるとは到底思わない。だけど逃げなければと思った。そう思ったからおれはようやくラクコちゃんの手を握り返したのに、その手は当の彼女によって振り払われた。
なにをと問う間もなく、彼女の小さな足が地面から浮き上がる。
「――――にげて、タマキくん」
あまりにけたたましい獣の咆哮染みた轟音と共にこれまで以上に激しく竜巻みたいな風が巻き上がって、おれは目をぎゅっと瞑る。
そうして目を開けたその後には、まるで全部嘘だったみたいに暴風は霧散していた。ラクコちゃんの姿も、またなかった。
手のひらにあった温もりさえ全て掠め取られて取り残されたおれにできることなんて、なにもなかった。
「――――あ、タマキくん! よかった。あの後、なにもなかった? 大丈夫?」
「おれの台詞すぎるでしょ、それは。すげーな、ラクコちゃん」
後日、こころのおやま≠フフラペチーノを甚く気に入ったらしく、カフェスペースでぴんぴんしたラクコちゃんと早すぎる再会を果たしたおれは脱力した。
あんな別れかたしといて無事なパターン、あるのかよ。
――――
22/09/30
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