死ぬときは、誰も想わず死のうと心に決めていた。その決意こそが他ならぬ執着の顕れなのだとわかっていながら。


***



 始まりはいつも同じだ。気付けば雨が降り頻る中、道とさえ呼べないような悪路にボロい幌馬車ほろばしゃが揺れているのを、俺は遠くからぼんやり眺めている。
 打ち付ける雨は際限なく痛いほど激しさを増し続ける。大粒の雨滴で視界は一寸先さえ白く靄がかかったように不明瞭だ。それにも関わらず、馬車は天から光を絞って当てでもしているかのようにくっきりとその輪郭を浮かび上がらせている。泥濘ぬかるみに足首まで埋めてぼっと立ち尽くしているだけの俺が、濁った飛沫を跳ね上げて直走る馬車の姿を片時も見失うことがないのはそのためだった。
 殴るように降る雨が無遠慮に目の縁をなぞるのが煩わしく、手の甲でぐっと拭う。革の手甲の湿ったにおいが妙に鼻について厭わしい。普段なら目にもつかないような些細なことが今はやたらに気にかかって、なにもかもに対して攻撃的になっていた。
 そんな鬱屈した心情までもを吹き飛ばすように、暴風が轟音と共に俺の真横に留まって・・・・いる・・

 馬車だ。

 ぱっと顔を上げた俺の真横に、杖に打たれながら必死に走る馬とその馬に牽かれる馬車がある。周囲の景色は急速に流れてなにもかもを置き去りにしていく。そんな中で俺は依然として動かない足で立ち尽くしながらに、馬車の隣に並んでいた。
 男はすぐそばにいる俺には目もくれず、歯を食い縛り、肩をいからせて、長鞭代わりの粗末な杖だけがただひとつの頼りとばかりに握り締めている。男の背後の幌の内にはいつも通り、水や食料、それから最低限の家財道具と共に彼の妻とふたりの子らが詰め込まれているのだろう。
 ―ふと、車が跳ねる。
 石でも轢いたのか。車輪が嫌な音を立てて乱れた轍を残し、それがために車体が揺れたのだ。経年劣化を板で継いで誤魔化した木組みのはこはそれだけの衝撃で瓦解してしまいそうなほどみすぼらしく見えたが、意外にも屋根の骨組みを覆う古びた麻布を少し弾けさせた程度でなんとか持ち堪えている。薄い幌からは雨避けの油はとうに流れ落ちているらしく、荷馬車の中は内も外も区別がつかないほど雨水で濡れそぼっていた。
 風を裂くがごとく鋭い音。
 男が杖を振るい、馬を再び殴打する。
 車よりも白く泡立った涎を飛ばしながら走る馬のほうが先に潰れてしまいそうなありさまだった。
 彼がどれだけ懸命に大地を蹴っても、男は骨の浮いた濡れた背に何度も容赦なく杖をしならせる。
 ―少しはねぎらってやればいいのに、可哀想だ。
 思わず呟いた言葉は誰の耳にも届きはしないし、空気を震わせることもない。
 彼は見るからに速く走るために調教された馬ではない。やや痩せ衰えてはいても太く短い脚にずんぐりむっくりとした胴は明らかに農耕馬のそれだ。だいたい人や荷を載せた車を牽きながら、いったいどうして風のように駆けられるというのか。
 優しい目を血走らせて、可愛い鼻先を引き攣らせて、今あれだけ必死に走っているのは主人の突然の乱暴に恐慌に陥っているからだ。長くはもつまい。
 きっと、今に地に倒れて二度と動かなくなってしまう。
 俺はそれを想像するだけでどうにも悲しくなった。しこたま怒られたっていいからあの馬を止めてやりたくって仕方なくなった。馬車の前に飛び出していって、あの可愛く穏やかな老馬の代わりにどんなにか殴られたかった。だがそんな思いとは裏腹に俺の身体は動かない。灰がかった沼のような泥は重たく、俺の脚を銜え込んで放そうとはしない。
 そうして案の定、少しも進まないうちにめちゃくちゃな乱打にとうとう耐えかねた馬が苦痛に嘶いて、痩せた首を大きく反り上げた。雨水を含んだ布と板が奇妙な音を立てて、車体がまたがくんと跳ねる。
 思わず目を瞑った、その瞬きの後。俺は馬車の中にいた。
 がくがくと揺れる、父のおさがりのぶかぶかの暗い鼠色の合羽が上半分を覆い隠した視界。そこからかろうじて革の手甲もない小さな自分の手が見えた。
 俺は車体から吹っ飛ばされないように、自分よりもひと回り以上小さい身体ごと床に噛みつくみたいにして懸命にしがみついていた。それでいてそばで同じように車にしがみつきながら俺を強く抱き寄せる女に、胸に抱え込んだ弟と共に身を寄せていた。
 雨が幌を叩く音に紛れて外からは棒で肉を打ち据える音と馬の悲鳴がかすかに聞こえる。もうあの馬が信愛を持って俺たちに鼻先を擦り寄せてくれることはないだろうという確信めいた予感があり、それが悲しくて俺は弟のまだ産毛みたいに柔らかい髪の毛に鼻を埋めてべそをかいていた。
 雨の降り込む、寒々しい車内。背にぴったりと寄り添ってくれる母と離れまいと抱き合った弟の温もりだけが俺の慰めだったのに。
 もう一度馬車が跳ねたのを皮切りに、母は俺から弟の小さな身体を取り上げる。それからはなにもかもが一瞬のことだった。そのままの勢いで、母は弟を馬車の外へ放り出した。驚いて竦むように手足を丸めた弟の身体は、馬の蹄が捺された大地を勢いだけでころころと二転三転ほど転がって、そしてぴくりともしなくなった。あんな小さな子供を放り捨てたところでいったいなにが馬の助けになるものか。それでも泥水を吸い込んでどす黒くなった、さんざ着古されたぶかぶかの襤褸ぼろのシャツは見る間に遠ざかっていく。
 「助けに行かなければ」などという理性が意識の表層に浮かぶいとまさえなかった。唖然として見上げた母の顔は窺えない。隙間なく雲が立ち込めているから辺りは暗かったし、濡れた暗いざんばら髪が日焼けした肌にべったりと張り付いていたせいもあって妙に黒くのっぺりとしていた。
 ―なんだか、影みたいだ。
 そう感じた刹那に寝物語に聞かされ続けた邪悪な影の化け物の想像上の姿が彼女と重なった。
 濡れ髪の隙間から俺を見て甘く微笑む女が、この世のなによりも醜悪に思えた。

 気付けば俺は飛び出していた。彼女の絶叫が背後から追いかけてくるのを耳にしながら。
 疾走する車内からなんの身構えもなく飛び降りたせいで体勢を崩したが、大ぶりの合羽のおかげかそれとも気が昂っていたためか、痛みを感じることはなかった。
 こけつまろびつなんとか倒れ伏す弟のもとに辿り着いたが、泥まみれの肌は血の気がなく、体温は極端に低い。俺は合羽を大きく広げて、弟に上から覆い被さった。打ち付ける大雨から、少しでも守ってやりたかった。
 そんな俺たちのほんのすぐ上をなにかが滑り飛ぶ。
 首だけもたげて振り返った先には走り去る馬車があり、女の形をした影はその尻から身を乗り出して口とも孔ともつかない場所からひたすらに金切り声を生じさせていた。枯れ枝染みた腕をゆらゆらとさせながら、俺だけを見ていた。自分が放り投げた末の息子のことなど一切眼中にない様子だった。

 そして夜が落ちてきた。
 少なくとも、俺ははじめそう思った。

 質量を持った暗闇たちが幌の上にへばりつき、まず馬の首と脚をひと息に裁った。熱したナイフでバターでもスライスするように、実にすんなりと。
 急激に停止する馬車。後ろへ勢いよく倒れ込み消える母の姿。中途半端に握り潰された父のくぐもった叫喚。尋常でないよからぬことが起きているのだということだけはわかっていた。それでも俺は両親を助けに行こうという勇気を奮い起こすこともできずに、ただただ弟に覆い被さりながら家族を蹂躙する異形共を見つめていた。


 ―そう、夢の始まりはいつも同じだ。俺の悪夢はいつも他人事の顔をして忍び寄ってくる。
 その後は第三者の目を持って、はたまた当事者として、視点は異なれども何度も辿ってきた記憶の流れを寸分違わずなぞりきる。
 俺たちは逃げていた。影の怪物けものと呼ばれる化け物から。俺たちの乗った車の重さに耐えきれなかった馬に危機感を覚えた母は迷わず弟を犠牲にすることを選び、俺は弟の後を追って馬車を飛び出す。いつも同じだ。何度繰り返したって無駄だ。
 過ぎ去った時間が戻る道理はない。俺はあの日に誰の手も取れなかった。
 どんなにまやかしの回帰を繰り返したって結局はそういうことなんだろ、ちくしょうめ。

―間に合わず、すまなかった」

 両親も馬もすっかり息絶えた後で怪物たちは黒衣を纏うひとりの男に討ち取られる。俺たちを固く抱きしめて重々しく詫びる彼の着たコートのボタンの硬質な感触を頬に感じながら、俺もまた弟の小さな頭を胸に強く抱き寄せて目を伏せた。
 そして目蓋の奥から痛烈な覚醒を伴う光がやってくる。じき目が覚めるのだろう。

 こんな救いようのない悪夢から。



―……起きてるの」

 まだ完全には覚めきらない意識を抱き起こすような囁き声が降ってきて、俺は目を開けた。馴染み深い天井に、自宅のベッドに寝かされていたことを知る。首を正面から横に倒せば、枕元では見慣れた少年が俯きがちに背凭れのない丸椅子に腰かけていた。
 やや伸びた長い灰褐色の前髪の下に見え隠れしている深い藍色の瞳が一瞬だけ俺の顔を舐めるも、視線を交わし合う間もなくすぐに逸らされる。なにか言いたげに開きかけていた口唇が戦慄いている。
 やがて項垂れるように自身のつま先に焦点を合わせた弟は、重たそうに唇を閉ざした。

「シーノ」

 弟の、アドモシーノの名を呼ぶ。重怠く、むずむずする身体を慎重に起こして、そっぽを向いた顔をまじまじと見る。
 肉付きの悪い、血の気のない青っぽい薄い頬。そこにまた絆創膏が貼られているのが気になった。

「……、もうほとんど塞がってる。……僕よりもひどい怪我、したくせに」

 俺の視線を受けて一段低くなった不満げな声。絆創膏をべりっと剥がして手の内に丸め込んだ彼の頬には、確かに糸を引いたような傷しかない。
 塞がってる塞がってないの話じゃなくて、傷ができちまうってこと自体が心配なのに。
 そんな本音は飲み込んだ。少なくとも、俺を心配して目覚めるまでベッドの脇で待ってくれていた奴にかけるような言葉ではないと思ったからだ。
 変に沈黙を作った俺を気にしてか今度こそ視線がかち合ったが、やはりシーノはすぐに俯いてしまった。そんな弟越しにベッドのサイドボードに置かれた水差しを見つけ、途端に喉の渇きを自覚して腕を伸ばす。「言えば取るけど」と妙に尖った声音で溢された優しい言葉には笑みを返して、水差しの口縁こうえんに直接口をつけて常温の水を飲み下した。

「……俺、どんくらい寝てたよ?」

 顎を伝う微温い水を手の甲で拭いながら訊ねる。呼吸に支障はないし、伸ばした腕に違和感はない。嚥下も問題なくスムーズだ。こうして特になにもなしに家に帰されていることからもきっと傷はほとんど完治しているし、俺の意識が落ちてからそう長い時間が経ったわけでもないだろう。案の定、シーノは「まだ一日と経ってないって聞いてる」と言う。なるほど、カーテンの奥に見える陽射しからしても今はだいたい昼頃といったところか。うん、俺の腹時計もそんぐらいだ。
 盛大にぎゅうぎゅうと鳴き出した腹ペコ虫の声にシーノは浅く嘆息して、寝室を出ていった。かと思えば、閉め切られなかったドアの向こうからはうまそうなにおいが漂ってくる。
 やった、飯だ。

―そこにいてよ」

 いそいそとベッドから起き上がり床に片足をつけたところで、見越したように普段よりも少しだけ大きい声でそんな注意が飛んできた。


 待つこと三分程度といったところか、スプーンを突っ込んだどんぶりを持ったシーノが戻ってきて、手にしたそれを俺に差し出した。橙がかかった赤色の水面と、なにか大小の具材と特段どでかい塊がごろごろと揺れている。甘酸っぱい香り。具だくさんのトマトスープだ。

「具は?」
「じゃがいもと、ブロッコリーとひよこ豆。あと肉団子」
「肉団子・・……」

 まだらに柄の剥げた器の中。鮮やかなトマト池に沈み切らず顔を覗かせている肉塊は、どう見積もっても俺の拳半個ほどもある。団子というよりかは爆弾に近い。
 シーノは俺がしっかり器を受け取ったのを見るとまた部屋を出ていって、今度はこれまたスプーンの入った小さなスープボウルを手に戻ってきた。彼の愛用の食器だ。一緒に食事を摂ってくれるつもりなのだろう。しかし片手に収まるほどのサイズ感の食器に落ち着かなくなる。
 仕事柄俺は食わなければやっていかれないというところもあるが、それにしたって弟は小食すぎた。いつもあんな器に収まる程度の量の食事で足りるのかと心配になるほどだ。
 行儀が悪いとは思いつつも弟の皿を覗く。中身はほとんどが液体だ。そこに申し訳程度の野菜とまさしく団子と呼ぶに相応しい肉がひとつだけころんとある。

「団子……」
「……ああ、兄さんの肉団子は当たりだから」

 思わず呟いた俺に目を向けることすらなくシーノは言う。
 「当たり?」鸚鵡返しに復唱すると、彼はスプーンに口をつけながら事もなげに頷いた。

「たまたま当たりだから、中に卵が入ってる。よかったね」

 どう見ても偶然器に入る大きさではない。だから多分これは、シーノなりの応援や慰めだ。健気な心遣いと不器用な物言いが愛しくて堪らず、俺はサイドボードにしっかりどんぶりを置いてから弟の髪の毛を掻き混ぜた。

―シーノ〜っ! お前、かわいい奴だな〜っ!」
「……、あざぁーす」

 頭をぐわんぐわん揺らされながらもシーノの顔つきはほとんど変わらず、淡々とスープを口に運ぶ。しかしその眦がほんの少しだけ柔らかに下がったのを俺は見逃さなかった。

 可愛く、優しい弟だ。かつて彼を失わずに済んだ幸いを、こういうときこそ俺はしみじみと感じ入る。

 かつて俺たちを取捨した母からは、ただその場に謂われなく居合わせた彼でさえ口にした、「すまない」のひとこともなかった。そして俺は浮かぶ弟の身を抱き寄せることもできず、母にずっと寄り添ってやることもできなかった。
 せめて外へ放り投げられてさえいなければ、少なくとも弟は母が意図的に自身を捨てようとしたのだとは思い知らされなかったのではないか。
 せめてあの日、疾走する馬車から飛び降りずに母と弟、ふたりの手をずっと繋いでいてやれたなら、少なくとも誰も裏切らず誰にも裏切られたと思わせずには済んだのではないだろうか。

 死にたかったわけじゃない。ただ、誰にも酷い悔いを残して死んでほしくはなかった。また、俺が悔いを残して逝ったとも思わせたくなかった。

「シーノ」
「……なに」

 灰褐色の髪に手のひらをくぐらせたままで、名前を呼ぶ。するとシーノは深い藍色をした目を瞬かせて俺を見た。
 引っ込み思案で、他人に対する警戒心が強い弟。だけどそれはこいつの心根が曲がっているとか、情がないとか、そういうわけじゃない。

「当たりつきスープ、めちゃくちゃうまいよ。ありがとな」


***



 死ぬときは、誰も想わず死のうと心に決めていた。その決意こそが他ならぬ執着の顕れなのだとわかっていたし、死の淵においてまで浮かぶ顔を必死に打ち消す行為こそを裏切りなのだと断じられようとも、俺は悔いなく生きたのだと言わなければならなかったから。
 それは俺が、神器という名の悔いを手にした神仕しんしであるがゆえに。

 ―だから俺は、死んでもお前を想わない。


―――
22/06/30
 加筆修正22/07/11


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