逃げの覚悟

地面に這いつくばってでも、生きようと考える人間がこの時代にはいる。
それは『人』の形をしていて、けれど『人』ではないのだ。なら何故、そんな彼らに、人とは扱って貰えないのに、人としての感覚、倫理観を教育するのは、一体何故なのか

「俺が思うに、いざという時逃げる為だと思う」
「逃げる…?」

男は頷いた。忍術学園内の校舎、六年の教室はがらりとしていて、六年生は、この場にいる二人しか確認出来ない。議題は『忍者とは人と言えるのであろうか』という議題だ。
この学園で、この二人、潮江文次郎と、食満留三郎が、顔を向け合って、大人しく、かつ、そう言った小難しい話をする。と言うのは酷く珍しい事だった。

ただ『今日』が、人をその手に掛ける忍務からの帰りであった。と言うだけで…。

そんな日は、酷く心が落ち着かない。手にベットリと張り付いた血の色が、どう洗っても落ず、死者の亡霊が自身の背中を這っているような、気味の悪い感覚になるのだ。大人しく寝てなどいられない。だから、食満は、現在は真夜中だというのに教室にいた。潮江も、同じようなものだった。

ただ、食満があまりにも気落ちしているのが不安で、彼なりに食満を励ます為に、このような話題を持ちかけていた。

この学園にいる限り、彼らはこの行為を『慣れた』ではなく『慣れなくてはならない』のである。
いつになったら、この行為が平気になるか、いつになったら心を捨て切れるのか、食満には良く分からない。これが人間の心だと言うなら、いっそ切り捨ててしまいたい程なのに、この学園では、それを許してはくれないのだ。無垢であどけない下級生を、人を殺したその手で触れる。
この事が、何よりも誰よりも、一番に辛い。食満留三郎は、その事を誰よりも気にやんでいる。
潮江は知っているからこそ、食満をどうにかしたかった。自分の好敵手がこんなにも、泣きそうな顔をしているのを見て、放ってはおけない。

「逃げない為じゃなく、逃げる為、だ」
「…」
「人の心を捨てて、忍に従事する者は、いざというときの判断を見誤る」
「…それは」
「逃げても良いんだ。自分の心のままに、主を決めても良いのだ。俺達はそれを教えられている」

これは潮江文次郎の見解ではあるが、その為の人の心だと常に思っているのだ。

「良いか、留三郎、俺達は、道具の以前にまず、『人』だ」

そう言って、話を止めた潮江は、食満のその体を、自身の腕で抱きとめた。

「汚くなんかねぇよ、生きるのに必死なだけだ、誰かを殺すのを何も思わないなんて、ソイツはただの屍だ」
「っ…」
「泥臭く生きたって良いんだよ、地面の蟻みたいに、一生懸命、自分の心で決めた主君を、心の底から守りたいと思う気持ちで、俺らは身を費やすんだ。なぁ、留三郎、だから…」

潮江の優しい声色に、食満が歯を噛み締めて、潮江の肩に自身の目を押し付けた。

「泣くなよ…」

真夜中の満月が教室を照らして、食満は小さく

「泣いてねぇよ」

潮江に対して悪態をついた。

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