雨音の色 |
初めて会ったとき、コナーからは雨の香りがした。 --- バーの扉をくぐってまっすぐに近づいてくるコナーの肩は、濡れて色を変えていた。水音の混じった靴音を無視して、グラスに残った酒を一気に呷る。 「アンダーソン警部補、こちらにいらしたんですね」 「……」 平坦な声を無視して、ハンクは酒の残滓を飲み干す。濃いアルコールに舌が痺れた。 無遠慮に顔を覗き込んでくるコナーの前髪から水滴が一粒落ちた。肩が触れるほど近くで返事を待つ彼の身体から、冷たい雨の匂いがして、外では小雨が降ってるらしいとハンクは気付いた。酔ってわずかに鈍った鼻をくすぐる微かな匂いと、やたらと熱心なコナーの目は、初めて出会ったときのことを思い出させる。ほんの数日前の事だ。あの夜も雨だった。 ハンクの肩を濡らした雨粒に気付いたコナーは、前髪を掻き上げて水気を飛ばす素振りをした。カウンターについた彼の手の甲で水滴がひとつ転がり落ちるのが見えた。 「おとなしく待ってろって言ったのが聞こえなかったのか?」 「待っていました。ですが、いつまで経ってもお戻りにならなかったので。何か問題でもあったのかと思い、迎えに来ました。お電話しましたが、この様子だと残したメッセージにも気が付いていないようですね」 「俺はお前のガキか? えぇ? いらねえ世話かけてないで、さっさと帰れ。邪魔すんな」 「……警部補、これ以上の深酒は身体に毒ですよ」 「放っとけって言ってんだ! お前がいると、酒が不味くなるんだよ」 「……」 コナーは無表情のままなにか言いかけて、結局何も言わずに口を閉じた。屈めていた背筋を伸ばして立つコナーの姿を、ハンクは視界から外す。追加の酒を頼む間、背中に感じる視線が鬱陶しくて堪らなかった。刺すような視線に、酒を満たしたグラスを差し出すジミーが肩を竦める。 「コナー!」 「はい」 「お前いつまでもそこに突っ立ってるつもりか? 帰れって言っただろうが」 「……では、私は外で待っています」 言いながら、コナーはハンクに手のひらを向けてきた。指紋のない、人より皺の少ない手は真っさらで、まるで人形じみている。 「なんだよ、この手は」 俺にお手でもさせたいのか? 皮肉とともに見上げたコナーの表情は凪いでいて眉ひとつ動かさなかった。ハンクの手の中で、グラスが微かに軋んだ。 「車のキーを。私は車で待っていますから、あなたは存分にお酒を飲んで下さって構いませんよ。ええ、お好きなだけ、どうぞ?」 「は、何言ってんだ、お前……」 「ご自分で車を運転して帰るつもりですか? 危険ですよ。私が家までお送りします。……そのために来たんですから」 「いい加減に──、」 「ハンク!」 怒鳴ろうとしたのを遮って、コナーはハンクの名を呼んだ。勢いで立ち上がりかけた男の肩に手を置いて制してくる。まっすぐに見つめる瞳と目があった。 「お願いです。あなたが無事に家に帰る姿を、私に見届けさせてください。あなたが……僕のことを不快に思っていることはもちろんわかっています。ですが……」 浅く口を噛んで眉を寄せたコナーは、まるで叱られた子供のようなしょぼくれた顔をしていた。噛み跡の薄く残る唇がわななくのが、すぐ側に見える。 「あなたにもし何かあったら、僕は……」 「お前が心配してんのは、俺じゃないだろう。俺に何かあって、それでお前の任務に支障がでるのが困るってだけだ。なあ? 違うか、コナー」 「……そうですね。パートナーであるあなたが何か問題を起こせば、とばっちりを受けるのは、私ですから」 コナーの瞳が揺らぐ。アンドロイドのくせに、声が震えていた。外で激しさを増す雨音にかすかな言葉尻がかき消される。コナーの言葉は、時に重々しく、ハンクの胸にのしかかってくるようだった。悲しげに俯くさまをそれ以上見ていたくなくて思わず目を逸らしていた。グラスを握る手が震えるのを無理矢理抑え込んで、酒を口に含む。度数の高いそれを飲み下すと喉がひりついた。 ジミーや他の客達の視線が注がれているのが分かる。静まり返った店内で、酔って鈍ったハンクの耳に、テレビの音だけがやけにはっきり聞こえた。何でみんな黙ってるんだ、世間話でもしていてくれよ。心中で呟いた願いは叶わない。 「さあ、鍵を」 「……ったく。ほらよ」 ため息交じりに漏らした声は情けなく乾いて嗄れていた。コナーの手のひらに車のキーを放る。コントロールも何もなく適当に投げつけたのだが、コナーは何なくそれを受け止めた。チャリ、と金属の触れる音がする。 「ありがとうございます、警部補。……それでは、ごゆっくり」 コナーはハンクに一瞥もくれなかった。キーを握ったままの手が扉を開けると、外は土砂降りだった。雨の中にコナーの背が紛れる。腕章の光が、ぼやけて消えた 「……で、ハンク、どうするんだ? もう一杯飲むのか?」 「……いいや、酔いも回ってきたしな。もう……帰るよ。騒いで悪かったな」 カウンターに札を置いて立ち上がる。釣りを渡そうとするジミーに首を振ると、腹の中で波打つアルコールが直に脳を揺さぶってくるようで、ふらついた拍子に視界がぐらついた。ひどい宿酔の予兆を無視してバーを出る。吹き付けた風に身がすくんだ。雪になりかけた冷たい雨がぶつかってきて、羽織ったコートが重く濡れた。 運転席に座ったコナーは身じろぎ一つせずに、雨粒のぶつかるフロントガラスをただ見つめていた。 「ちっ……。帰るぞ、コナー」 「はい、警部補」 音楽も流さず、ラジオもつけないままの車内には、雨音だけが満ちていた。コナーの運転は危なげのかけらもなく安定している。 助手席で、コナーの横顔を眺める。彼のこめかみで青く回るLEDリングが、雨に滲んだ街の明かりに混じって鈍く輝いて見えた。ハンドルを握るコナーはただ一心に前を見ている。その横顔は整っていて、濡れたネオンが彼の頬を照らすたびに、どこか妖しい光をはらんで輝くようだった。 雨音は激しく、そのひとつひとつが車体を重く叩いた。人気のない夜だった。対向車線には車の一台も通らない。水したたるバックミラーにも何も映らない。傘をさして歩く通行人のひとりもいなかった。 赤信号に捕まって、滑らかに車が止まる。ハンクの酔った耳に雨音が響いて鼓膜を震わせた。 「ハンク」 雨音にコナーの声が重なる。ひそやかに囁くその声は、よく耳を澄ませていなければ聞き取れなかっただろう。次の瞬間、ぬるい手のひらが伸びて、ハンクの片頬を包んだ。シートベルトの軋む音がした。 「ん? なん──、」 ふいに重なった唇が、ハンクの言葉を飲み込んだ。触れるだけのくちづけだった。コナーのくちびるは柔らかく、雨雫に滲む街明かりの中で、ハンクのすぐ側で瞬く青い輪だけが鮮やかに見えた。汗ばんだ頬を撫でる手は深い雨の香りがした。 雨音が永遠に感じたその中で、赤のそれが青信号に変わるのが目の端に映る。そっと温もりが離れる刹那、ハンクのかさついた唇に触れた舌は滑らかで、艶やかに濡れていた。作り物の舌だ。ハンクはやけに冴えた脳でそう考えた。だから、心地いいのなんて当たり前なんだろう、とも。 「……ハンク、僕は──」 コナーが囁く言葉のつづきは、土砂降りとクラクションに紛れて消えてしまった。何事もなかったかのように、コナーの足がアクセルを踏む。ひとときのキスの合間に見た風景が遠ざかり、見慣れた家並みがハンクの瞳に映りこんだ。薄暗い家で一匹待つスモウはきっととうに深い眠りについている。 家に着けば、コナーは丁寧に車をとめるだろう。玄関をくぐるハンクを見届けてひとりタクシーに乗り込むのだろう。その手を握って引き寄せる夢想をしながら、ハンクはいつのまにか目を閉じていた。ぬるい微睡みのなかで、鼓膜を擽る雨音が、ただ心地よかった。 end 2019/08/30 修正:2022/06/23 prev |(1/1)| next 【 |TOP 】 ×
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