たまにはキスを我慢したい

 人生の絶頂期がいつかと聞かれれば、今この瞬間こそが我が世の春だと答えたい。相変わらず非術師は嫌いだし、私や悟、千里や硝子にまで嫌がらせをしてくる上層部のクズ共には、ほとほと嫌気がさす。さっさと不幸が訪れて引退してくれないかな、なんて常々思うし。

 けれども、そんな嫌なことが塗り潰されてしまう程、今の私は幸せだ。

 任務を終えた後、もうすぐ学校に着くよと彼女にメールを送れば、迎えに行くねと返事が届く。別に出迎えを狙って送ったメールではないけれど、彼女が出迎えてくれるなら大歓迎だ。ただただ早く千里に触れたいな、なんて。
 補助監督が運転してくれている送迎の車に乗りながら、ニヤける口元を手で覆った。付き合う前よりも、付き合った後の方が好きが募っていく。彼女の癖や知らなかった事を知れば知るほど、彼女の魅力から抜け出せない。千里だったらなんだって可愛いんだよ、と溢した時は惚気んなって悟に頭を殴られたっけ。……やな事思い出したな。

 軽く頭を振って、脳内から中指を立てる悟を追い出し、携帯電話に向き直る。メールには今日の洋画劇場は傑が好きそうなのだよ、の文字。ああ、また頬が緩んでしまう。いつだって私の事を考えてくれている彼女が、本当に愛おしくて仕方ない。


「おかえり、傑」
「ただいま」

 
 高専の入り口で私を待ち構えてくれていた彼女を腕の中に閉じ込めて、柔らかな体を堪能する。ふわふわしていて、男の私とは全く違う触り心地だ。この体に触れていい権利があるって本当に最高だと思う。
 それにしても、こうして出迎えて貰えるのはすごくイイ。さっきは今が人生の絶頂期だと思ったけど、彼女と結婚して毎日こうして出迎えて貰えたのなら、どう考えたってそっちの方が幸せだ。

 そうだ。結婚。

 ……あれ、実は私達ってもう結婚できるんじゃないか? 私も彼女もすでに18歳だし、現行法で結婚できるぞ。……えっ……結婚したいな……。
 脳裏に私のお嫁さんになった千里を思い浮かべて、勝手にドキドキしてしまう。毎日一緒のベッドで寝て、毎日いってらっしゃいって言って貰って、毎日おかえりなさいってキスしてもらう、とか。控えめに言って最高じゃないか……? え、結婚したい。最低でも同棲したい。

 若干はやる気持ちをどうにか抑え込みながら額に口付けを落とし、彼女に頬擦りしながら息を吸い込む。仄かにシャンプーとボディクリームの匂いが香った。髪は少しだけしっとりとしているし、どうやらお風呂上がりらしい。
 ……って事は今すっぴんか。そんな事に思い至り、少しだけ腕を緩めてまじまじと彼女の顔を見つめる。きょとんとした様子で私を見上げる千里の顔は、いつもより少しだけ幼く見えて余計に可愛い。
 まあそもそも千里の化粧は薄めだから、ほんのちょっぴり印象が変わる程度だけど。


「おつかれさま」
「うん、ありがとう」


 毎日こうしてもらいたい。一生私を抱きしめて欲しい。
 私の背に回された彼女の細い腕が、ゆっくりと背中を撫でる。とても優しくて、私を気遣ってくれているのがよく分かる手つきだ。そんな千里を好きだという気持ちが、次から次へと溢れてくる。自分の中に、こんなに沢山誰かを愛おしく思える心があるだなって知らなかった。
 昔の私が今の私を見るとすごく驚くだろうなあ、なんて思いながら、腕の力を少し強める。守るだの宣っていた猿を見殺しにするし、好きな顔つきの女の子と付き合って、ベタ惚れしてるし。


「そうだ、実は明日休みになったんだよね。今日中に祓除出来そうだったから、明日の分も終わらせてさ」
「そっかぁ。じゃあ明日はゆっくり出来るね」
「うん。思う存分千里と一緒に居られるよ」


 今日もいっぱいキスして、それからえっちをして。明日は何をしようかな、と考えて。そこでふと思い至った。
 結婚式では、病める時も健やかなる時も、と誓いの言葉を立てる。千里は私が思い悩んでいた時もずっとキスしてくれて、元気になった今もそれは変わらず。私をずっと甘やかして、ドロドロに蕩けさせてくれていた。

 でも、千里は?

 千里が思い悩んでいる所を私は見た事がない。彼女だって普通の人なのだから、調子の良くない時だってあるだろうに、私は一切そんな様子の千里を見た事がなかった。
 …………もしかして私が甘えてばかりだから、千里は自分の気持ちを隠してる……とか……。女性特有の事象で、ホルモンバランスの乱れで気分が落ち込む日だってある筈なのに。


「ねえ、千里」
「うん? どうしたの、傑」


 名前を呼べば、私を見上げて目を細めて笑う彼女はいつも通りに可愛い。……君は任務で疲れてないの? 本当に?
 漠然とした感覚だけど、これは不味いと思った。千里と結婚して、私だけが彼女に甘えて。彼女が辛い時に甘えさせてあげられなかったら、どうしよう。困る。それは本当に困る。
 私は不甲斐ないせいで千里が1人で悩むだとか、絶対にダメだ。

 じゃあどうすればいいだろうか。私が頼れる男だって千里に分かってもらうには……。いや、というか今日と明日は千里に甘えてもらうのはどうだろう。
 彼女に甘えてもらって、甘えてもいいんだよって分かってもらえれば……?

 千里を抱き締めるのもそこそこに、寮へと向かって私の自室へと辿り着く。そして扉を開いて、部屋の中へと体を滑り込ませるや否や、彼女の手のひらが私の頬を撫でた。……もしかして、考え込んでいたのがバレたのだろうか。


「キスする?」
「ッ……あーー……」


 小首を傾げ、目を細めながら此方を見上げてそう言った彼女に、目眩がしそうになる。正直に言うと、千里のぽってりとした唇にむしゃぶりつきたい。気持ちよさそうにうっとりと目を細める彼女が見たいし、漏れ出てくる艶やかな声だって聞きたいし。
 そもそも、大好きな人とのキスを拒む理由なんてないだろう。気持ちよくって、触れていられるならずっと彼女に触れていたい。

 だけど、今日と明日は千里を 甘やかすと決めたのだ。私が甘えてキスしてもらうわけにはいかない。


「……今日と明日は、千里がしたい事をしよう」
「……ん? わたしがしたいこと?」
「うん。千里はいつも私のお願いを叶えてくれるから、今日と明日は私が千里の願いを叶えたいんだ」


 キョトンとした顔の彼女の手を引いて、彼女専用のクッションに座らせる。そして、私は彼女の正面に座りこんで、千里のほっそりとした両手を優しく握りしめた。
 突き詰めて考えれば、こうやって彼女に我が儘を言って甘えて欲しい、という願いも私の我が儘だ。……つまり、千里ならば私の我が儘を叶えて、甘えてくれるはず。


「……わたしがしたい事、かぁ。んん……なんだろ……」
「なんでもいいんだよ。私が出来ることは全て叶えさせて」
「えーっと。じゃあ、とりあえず今は抱きしめて欲しいかなぁ」


 そう言うなり、両手を広げて私の抱擁を求めてくる千里に胸が詰まる。思わずぐっと下唇を噛み締めた。なんでこんなに可愛いのかな、私の彼女は。破壊力が強すぎて、全力疾走した後みたいに心臓が暴れている。
 自分にできる最大限に、優しく彼女の体を抱きしめて、ゆっくりと深呼吸をした。落ち着かなければ。彼女の願いを叶えると言っておいて、今の時点でこんなにダメージを受けてどうするんだ。


「もっとギュッてして、傑」
「う、うん」


 胡座を掻いた私の足の間にすっぽりと収まる小さな体は、柔らかくて、暖かくて、甘い匂いがする。ただ抱き締めているだけだというのに、柄にもなく顔が火照った。
 それに、甘えるように胸元に頭を擦り寄せてくるのも堪らない。私にしてほしいことって、抱きしめることなの? 本当にこれだけでいい? 何処かに連れて行って欲しいだとか、あれが欲しいこれが欲しいってお願いでも、なんでも叶えてあげるのに。

 彼女にもっと甘えてほしいという欲が首を擡げる。我慢しなければと思えば思うほど、どんどん欲深くなっていった。
 もっともっと甘えて、私無しじゃ生きられなくなってしまえばいいのに。私はとっくに千里無しじゃ生きられないのだから、彼女にも同じだけ私に溺れてほしい。そして私のお嫁さんになってよ。


「すぐる」
「ん?」


 私の背に回された彼女の腕が緩む。ハグはもう終わりかな、と思って私も彼女に倣い腕を緩めると、するりと彼女の腕が首に回された。そしてそのまま、再度抱きしめられる。
 

「あったかいねぇ」
「……うん、そうだね」


 視界に入ってくる千里の白いうなじだとか、先ほどよりも甘い匂いが至近距離で香ったりだとか、私と彼女の体の間で押しつぶされている柔い胸の感触だとか。いつもだったらこの時点で堪え切れずにキスしてるな、なんてどこか冷静な部分で考えながら、彼女の腰に回した腕の力を強めた。
 頑張って耐えなければ。キスもセックスもせず、千里の求めた事のみをするのだ。今日明日は私の欲を優先しない、と決めただろう。

 甘いボディクリームの香りと、髪から漂うシャンプーの香り。その2つが混じり合って鼻腔をくすぐるものだから、だんだんと頭の芯が熱で浮かされてくる。
 思わず漏れ出そうになる熱い息をどうにか我慢して、ただただ彼女の体を抱きしめ続けて。

 けれど、突然首筋に柔くて温かなものが触れて、ヒュッと息を飲む。


「っ、千里……?」
「んー?」
「え、っと、何をしているのかな……?」
「えへへ」


 えへへ、じゃないのだけれど。かわいいなクソ。
 私の首筋を唇でなぞり、喉仏を喰む彼女に口の端が引き攣った。千里の顔を良く見てみれば、挑戦的な目と視線が絡む。
 わざとだ。わざと私を煽る様な事をしているんだ。千里は小悪魔に違いない。なんて事だ。私が頑張って我慢しているのを見て楽しむだなんて。


「千里がしたい事をしよう、って話だったよね」
「そうだよ? わたしがしたいからしてるの」


 悪戯っ子の様な顔で笑う千里に、思わず喉の奥でグゥと唸った。好きだ……。あと私の千里がかわいすぎる。やっぱり結婚したい。

 兎に角、彼女の挑発を乗り越えなければ。抱きしめて欲しいとしか言われていないから、ただただ無心で千里を抱きしめ続ける他ない。いい匂いも柔らかい体も全部無視しよう。
 ……なんて頑張っていたのだけれど、千里がもぞもぞと体を動かし、私の上に跨って正面から抱き合う体勢になった事で全部が無駄になりそうだ。上半身がぴったりとくっついていて色々とやばい。柔こくって暖かくって、いい匂いがして。
 なんで私は千里にキスしてないのだろう、なんて一周回ってよく分からなくなってきた。甘くて気持ちのいいキスがしたい。ぐちゅぐちゅと舌を絡ませあいたい。


「ねえ、傑」
「……なにかな?」
「大好きだよ」


 かわいい顔でそんな事を言って、私の頭を胸に抱え込む彼女にもう降参したくなった。どうして彼女の願いを叶えてあげたいのに、私が甘やかされているのか。私はただただ千里に甘えて欲しいだけなのに。
 トク、トク、と一定の感覚で脈打つ彼女の心臓の音に耳を傾ける。これだけ興奮している私と違って、非常にゆっくりとした脈動だ。私だけがドキドキしているみたいで、なんだか悔しい。
 ぐりぐりと彼女の胸元に頭を擦り付け、ゆっくりと息を吐き出す。


「こんな筈じゃなかったのに……」
「わたしが傑を甘やかしたいんだよ。頑張り屋さんな傑の為に、わたしができることをしたいの」
「……千里も甘えてよ」
「もう甘えてるよぉ」


 うそつき。全然甘えてないだろ。

 髪を手で梳かれて、頭も撫でられて。ふよふよとしたおっぱいに顔が包み込まれているこの状況で、千里のどこが私にもう甘えているというのか。私だけが甘やかされている、の間違いだ。


「だって抱きしめてくれてるじゃん」
「それだけ? 何か買って欲しいとか、そういうのはないの?」
「傑に抱きしめてもらえると愛されてるなぁって実感できるから、それでいいの」
「…………へえ」


 何と戦っているんだって話だけれど、私はまだ負けていない。負けていないのだから、千里が甘えてくれるまで粘ってやる。
 魅惑のおっぱいから気力を振り絞って顔を離し、首に回されていた千里の腕を外す。そのまま、お返しとばかりに彼女の頭を抱える様に抱き締めた。やられっぱなしじゃいられない。


「つまりはさ」
「……ん? どうしたの?」
「千里は愛されてるって実感したいんだよね?」


 愛されていると実感できるからそれでいい、って。それはつまり、愛されてるって実感することが、千里の求めてることなんだろう。
 だったら、もっと愛を伝えないと。抱き締めただけで伝えられている私の愛情なんて、本当に微々たるものだ。それで満足とは言わせない。
 息ができないくらい、溺れるほどに愛をあげる。私と同じところまで落ちてきて。


「君の、私に甘い所が好きだよ。でも嫌な事ははっきりと嫌って言ってくれる所も好き」
「っ、ん、……すぐる」


 ちゅうちゅう、と耳朶に何度も口付ける。


「っあは、くすぐったい」


 目を瞑って私にその身を預けてくれている無防備さが、その信頼が嬉しくて仕方がない。
 顳にもキスを落として、そのまま頬、瞼の上にも唇を寄せていって。好きだよと囁きながら、唇以外の顔中にキスの雨を降らせていく。そうすれば、腕の中の彼女の体から力が抜けて、私にくたりと凭れかかってきた。


「ン……かわいいね」
「…………ッその言い方えっちでやだ」
「はは、気持ちよくなっちゃう?」


 顔を赤く染め、瞳を潤ませて私を見上げてくる千里に、堪らなくなる。食べてしまいたいなあと思って、だけど今日は我慢するのだからと、彼女の耳を舐ってどうにかこうにか欲を抑え込んだ。舐めてる時点で我慢しきれてるとは言い難いけれど。


「ッ、はァ……なんだか、今日の傑へん……」
「ん、……そう?」
「ひゃ、ッ……だって急に甘えて、なんて言ってくるし……全然キスしてくれないし……」


 首筋にちゅうと吸い付くと、腕の中の彼女が少し身を捩った。……キスしてくれない、ってその言い方、キスして欲しいって事だよね。
 コツンと額を重ね合わせ、じっと彼女の目を見つめた。……物欲しそうな目だ。ちょっとだけ焦らすように左腕で彼女を抱きしめて、右手で唇を弄り回す。人差し指と親指で下唇を摘まんだり、親指の腹でふにふにと唇の感触を楽しんだり。
 彼女の熱い息が指に触れて、知らず知らず私の息も上がっていく。ちろ、と指先を舐められても意地で耐えた。ここまで我慢したんだから、千里が私を欲しがるまでキスしてあげるものか。


「……ン、傑……」
「なぁに?」
「キス、して」


 恥ずかしそうに呟かれたその言葉に、一も二もなく彼女の唇にむしゃぶりつく。誘うように開かれた口の中に舌を差し込んで、舌を絡ませ合って。ぐるぐると下腹部に溜まった行き場のない熱を放つように、彼女の唾液を啜って口の中を好き勝手に舐め回す。
 あれだけ我慢を重ねた上で、キスを強請られたらこの有様。


「っ、ふ……すき……すきだよ、千里」
「んぅ……わ、たしも、すき」


 気持ち良くて、知らず知らずのうちに息が上がった。千里からキスを強請られたのは初めてだ。だからこそ余計に興奮する。
 舌先を甘噛みしたり、上顎を擽る様に舐めたり。いつも以上に下品な音をたてながら舌を絡ませて、千里の息ごと喰らい尽くす。

 彼女の腰を抱き寄せて、ゆっくりと床に押し倒す。本当はすぐそこにあるベッドに連れて行ってあげたいけれど、そんな余裕は無かった。
 スウェットの裾に右手を差し込んで、彼女のまろい肌に指先を這わす。私とは全然違う柔らかさに、目眩がしそうだ。もっと触っていたい。
 そのまま上へ上へと手を這わせば、彼女の下着に指先が触れた。たぶんナイトブラだ。

 いつもだったら少しの間下着の上から彼女の胸に触れるけど、今はそれすらも惜しい。そっと下着の間に指を差し込んで……。


「やだ」


 彼女の腕にそれを制止される。あとちょっとでやわいおっぱいに触れるのに、なんて思いながら手を動かそうとするけれど、思いの外彼女の抵抗が強くて唖然とした。


「今日の傑はちょっと意地悪だから、えっちしません」
「え゙」


 まっ、待って欲しい。え。


「キスはしたいけど、えっちはしたくないです」
「……えっ…………」


 えっ……?

 私の体の下で頬を上気させて、潤んだ瞳で私を見上げる千里を見つめる。え、抱けないの?
 あんなに気持ち良さそうに声を出してくれていたのに。キスしてって強請ってくれたのに。え?


「えっちしません」


 呆然としたまま、彼女の胸元に頭を抱えられる。ああ、柔らかい……じゃなくて。
 みっともなくどうして、と彼女に縋ってみても答えは変わらず。何度も唇を触れ合わせるだけのキスをしても、ぎゅうぎゅうと抱き締めても頷いてくれない。
 彼女の弱点である耳元で甘えた声でお願いしてみても、少し媚びた表情を作って上目遣いでお願いしても! 頑なに彼女は譲らない。
 むしろ、今日はわたしのお願いを叶えてくれるんじゃないの、と言われる始末。それを言われてしまえばどうしようもない。

 だって、言い出したのは私だ。私が千里のしたい事を、千里の願いを叶えると言い出した。


「今日はえっちしないから。ね?」


 まだちょっぴり潤んでいる目。唾液でてらてらと滑っている唇。赤くなってる頬っぺた。
 滅茶苦茶かわいくてすぐにでも抱いてしまいたいが、自分の言葉には責任を持たねばならないだろう。


「ヴン゙……」


 過去最高に情けない声で返事をした。



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