◎おお振り


同じクラスの阿部くんは野球が大好きな男の子です。放課後になると他の野球部の花井くんなどとすぐに教室を出ていってしまいます。大会が近いらしく、みんな顔が生き生きしている気がします。話してみたいけど一歩踏み出す勇気がなく、入学してから3ヶ月近く経ってもう7月になったけれど彼とは一度も話したことがありません。

初夏の爽やかな風が吹き抜ける2時間目修了後。日直であるあたしは黒板を消していた。さっきの英語の先生はかなりたくさん書くので消すのも一苦労。特に上の方は背伸びをしながらなので疲れる。はぁ、と溜め息をついたとき、隣からすっと手が伸びてきた。見上げると阿部くんが黒板の上の方を消してくれている。え、うわわわどうしよう。

「あっ、ごめ、」
「あー、俺も今日日直だから」

浮かれてた気分を叩き落とされた感じだった。てっきりあたしが困ってるのに気付いて手伝ってくれたのかと…!すごいときめいたのに!ちくしょう!でも手伝ってくれたのは有難いので、ちゃんとお礼は言っておいた。そして、沈黙。二人で黙々と黒板を消す。な、何を話せばいいんだろう。何しろ初めての会話だからね!緊張して無意識のうちに黒板消しを強く握り締めていた。意を決して会話を切りだそうと阿部くんに視線を移したら、彼の視線は窓の方に向けられていた。じっと空を見つめている。

「どうしたの?」
「いや、昨日雨降ったから今日グランド使えるかな、と思って」

あたしなんて中学のとき部活が面倒臭かったから雨降ったらすごい喜んでたのに。彼は「まぁこの天気ならもう乾いてるだろ」とぶつぶつ呟いている。ほんとに野球が好きなんだな。あたしなんてアウトオブ眼中だよね。名前すら覚えられてないかも。自分で言っといてかなり落ち込んだ。







放課後。みんなさっさと帰るか部活に行くかで教室を出ていってしまったので、教室は静まり返っている。あたしは一人でぽつん、と日誌を書いていた。阿部くん、部活行っちゃたのかな。まぁそりゃあ大会近いらしいし部活の方が大事に決まってるよね。日誌ぐらい帰宅部のあたしが書くのが優しさってものだよ。うんうん、と一人で納得しながら日誌を書いていたそのとき。勢いよく開けられた教室のドアの音が広がる静寂を破った。静かな空間にその音はとても大きく響き、驚いて肩が跳ねた。

「あ、わりぃ」

現れたのは部活の格好をした阿部くんで、あたしの肩は再び大きく跳ねた。そしてこちらに歩いてきた阿部くんは迷わずあたしの前の席に座った。え、あれ、部活はいいの?あたしがオロオロしているのがわかったのか、彼は「すぐ行けるように着替えてきたんだ」と説明してくれた。うわ、どうしようすごい嬉しい。勘違いするなあたし。あたしのために来てくれたわけじゃない、彼が律儀な人なだけなんだ。そう言い聞かせながらも緩む口元を抑えながら日誌を書き込む。ちらりと前の席に座る彼を見れば窓の外をボーッと眺めている。何見てるんだろう、と気になって彼の視線の先を辿ると、自転車に乗ってどこかに出発しようとしている野球部の人たちがいた。そういえば野球部のグランドは離れてるんだっけ。ぼんやりと考えていたら、突然野球部の一人が自転車から転倒。

「ああ!」

それと同時に青ざめた顔をしながら阿部くんが勢いよく立ち上がった。阿部くんの大きい声に驚いていると、彼は苛々した様子で「何してんだあいつ!」とぼやいた。えっと転んだのはたしか三橋くん…だっけ?大切な選手なのかな。けどすぐ立ち上がって笑ってるし、大丈夫みたい。でも阿部くんは気が気じゃないらしく、何だかそわそわしてるというか、苛ついてる。

「あの、阿部くん。部活、行って?」

欲を言えばもうちょっと話していたいけど、阿部くんの様子を見ているとそんなことを言えるわけもなく。「大会、近いんでしょ?」と言えば彼は一瞬で立ち上がって走り出した。そして教室を出ようとドアに手をかけたと思ったら何か思い出したようにこちらを振り返った。忘れ物?

「さんきゅーな、みょうじ!」

バタバタと彼が廊下を走っていく音が聞こえる。それも徐々に小さくなって、やがて静寂に飲み込まれてしまった。一人残ったあたしはしばらく阿部くんが出ていってドアを見つめていた。みょうじって、知ってたんだ、あたしの名前。

今度の大会、見に行ってみようかな。野球のルールなんて全然わからないけど。明日篠岡さんに聞いてみよう。夏の始まりを感じさせる心地よい風があたしの髪を静かに撫でた。


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