夢じゃない




つまらない毎日、変化のない日常。
起きて、仕事へ行って、帰ってきたら寝るだけ。
仕事量は多くてハードな分お給料はいいけど、使う予定は特にない。
毎日残業、休みの日は掃除と洗濯に追われて日用品や食品以外の買い物になんて随分行ってない。
たまに接骨院で疲れを癒すくらいで、私の日常に愛だとか恋だとか可愛らしいものは何もない。
それが当たり前で、これからもずっとそうなんだと思ってた。
そう、彼が入社してくるまでは。




春。
真新しいスーツに緊張した面持ちは、新入社員ならではだろう。
今年も新しい子がうちの部署に来るらしい。
2週間の研修を終えて配属された子を見て、私は心臓が止まるかと思った。
もう何年も前の夏、箱根で行われたロードレースのインターハイ。
そこで一目惚れした選手がそこにいたのだ。
見間違いかと目をこすったけど間違いない、彼はーーーー。

「今日からこちらに配属されました、荒北靖友です。よろしくお願いします。」

改めて挨拶をする彼はレース中の鋭さはないものの、何というか存在感がある。
まさか、うちへ入社してくるなんて。
小躍りしたい気持ちを必死に抑え自己紹介を終えると、上司から呼び出された。

「小鳥遊くんは荒北くんを頼むよ。」
「えっ、私がですか?」
「君も3年目だ。そろそろ教える立場も経験した方がいい。」
「あ、ありがとうございます!」

直属の後輩が出来るのは憧れだった。
初めての後輩が憧れていた選手だなんて、なんて偶然だろう。
私の鼓動はいつになく早く刻み、周りに聞こえているんじゃないかと思うほどだ。

「じゃぁ荒北くん、あとは小鳥遊くんに指示をもらって。」
「わかりました。よろしくお願いします。」
「あ、はい!よろしくお願いします!」

勢い良く返事をしてしまったせいで、荒北くんは目を丸くしていた。
そして少しだけ口元を緩ませて、優しい顔つきになる。
そんな些細な動作が私の胸を締め付けた。
こんなので本当に仕事になるんだろうか……一抹の不安をかかえながら、私は仕事に戻った。



荒北くんは何というか、とても要領のいいタイプだった。
一度教えたことはそつなくこなし、分からないことも自分で調べて解決してしまうことが殆どだ。
教えることもあまりなく、二ヶ月もする頃には私は教育というより通常業務に戻っていた。
そんな頃、「そろそろ馴染んだ頃だから」という名目で飲み会が企画された。
歓迎会を兼ねるということで会社から補助が出るのもあり、参加率も高い。
もちろん私も参加することにして、その日は早めに業務を切り上げた。
ふと隣を見れば、荒北くんはまだデスクに向かっている。

「まだかかりそう?」
「もう少しだと思います。あとはこっちのデータインプットするだけなんで……。」

こちらを見つつも手を止めないその姿は、本当に社員の鏡だと思う。
そんな仕事風景をぼんやり眺めていると、仕事を終えた荒北くんが私を見て少し驚いた顔をした。

「飲み会、行かないんすか。」
「え?あ、あぁ。行くよ、もちろん。荒北くんは?」
「新入社員は強制って聞きましたけどォ……。」

いつもと違い、語尾が少し乱れた。
気を抜いたんだろうか、慌てた姿が少し可愛く見える。

「す、すいません……。」
「いいよいいよ。いつまでも堅苦しいより、少し打ち解けた方が仕事もしやすいと思うし。」

そんなのは口実だ。
荒北くんが少し心を許してくれたのかと思うと、つい口元が緩んでしまう。
そうして仕事を終えた私たちは飲み会へ向かった。
会場に入るとすでに始まってしまっていて、いくつかのグループで固まり始めていた。
そんなに遅くなったつもりはなかったけど、時計を見れば30分はゆうにすぎていた。
私が適当に席につくと、荒北くんも隣に座った。
まさか隣に座ってもらえるとは思わずに、私の胸は高鳴るばかりだ。

「何飲む?」
「俺あんまり酒は……小鳥遊サンは何飲むんすか?」
「んー、梅酒か日本酒かな。ビールとか酎ハイ苦手で。」
「ハッ、男らしいっすね。」

その言葉に驚いたのは私だけではなかったらしい。
荒北くんは慌てて口元を抑えて頭を下げた。

「すんません、俺っ。」
「いいよいいよ。それだけ打ち解けてくれたってことでしょ?荒北くんあまりにもずっと丁寧語だから、ちょっと嫌われてるのかと思ってたくらいだし。」
「そんなっ……そんなことないっす。」

その言葉にちょっと安心しつつ乾杯をして、いろんな話をした。
主に仕事のことばかりだったけど、普段あまり聞いてこない割りに思うところはあったらしくここぞとばかりに質問された。
どうやら荒北くんは飲む気がないようで、ずっとウーロン茶を頼んでいた。
私はといえば、せっかくだからとあれこれ頼んでしまったせいでだんだん頭が働かなくなってきた。
少し眠気も出てきたような……。

「小鳥遊サン?」
「なぁにぃー?」
「酔ってんすか?」
「んーん!元気だよぉー!」
「……帰ったほうがいいっすよ。」

ちょっとため息をつきながら荒北くんはそう言って、私を立ち上がらせた。
何だか頭がふわふわして、体も宙に浮いているように軽い。
床の感覚なんてわからなくて、私はそのままそっと目を閉じた。




朝日のまぶしさに目を覚ますと、ひどい頭痛に襲われた。
昨日は飲みすぎたかな……そう思いながら体を丸めると、何かに当たった。
クッションかな……そう思いながら足で押すと、それがモゾモゾと動いて飛び起きた。
慌てて起き上がったせいで目を開けられないほどガンガンと痛む頭を押さえつつゆっくりと目を開けると、そこにいたのは荒北くんだった。
私は痛む頭を押さえつつ急いでベッドから出るとベッド脇に正座した。
えっと……どういうことかな……。
迷惑を掛けたことだけはわかるのに、一体いつからこうなっていたんだろう。
最後の記憶は飲み会、外へ出たことも家に帰ったことも覚えていない。
ただ申し訳なさと恥ずかしさでダラダラと冷や汗が垂れる。
よく見れば私は部屋着だけど、荒北くんはスーツのジャケットを脱いだだけだ。
ベッドでモゾモゾと動く姿をつい凝視してしまう。
長いまつげに、切れ長の目。
規則正しい寝息はまるで子供のように無防備で、ごくりと喉を鳴らしてしまった。
憧れていた荒北くんが私のベッドで寝ている。
これは本当に現実だろうか。もしかしたら夢?
むしろ夢の方がマシなんじゃ……そう思っていると荒北くんは布団を蹴り飛ばして伸びをした。

「んーっ……。」

薄っすらと開いた目はしっかりと私を捉えた。
私はそのまま土下座の勢いで頭を下げた。

「ごっ、ごめんなさい!本当にすみませんでした!!」

カラカラの喉でいきなり大声を出したせいで後半上ずった声は、なんとも羞恥心を掻き立てて顔を上げることができない。
頭上からクツクツという笑い声が聞こえてきたけど、私はもう一体どうしたら……。

「どこまで覚えてんのォ?」
「え、えっと……お店を出た記憶は、ないです……。」
「ハッ、やっぱりあれから寝てたんすね。」

いつもと違う口調にビクビクしながら顔を上げると、荒北くんは楽しそうに笑っていた。
涙目になりつつ首を傾げる私の頭をぽんぽんと軽く叩いて、荒北くんはベッドに座った。
そして昨日のことを教えてくれた。
私は酔いつぶれていたこと、タクシーに乗ったけど荒北くんをつかんで離さなかったこと。そしてーーー。

「まさか箱学時代の俺を知ってるとは思わなかったけどォ。」

クツクツと笑う姿はいつもの真面目な彼とは大違いで、戸惑ってしまう。
怒っているのだろうか。
そう思いつつ項垂れると、荒北くんはスマホを取り出して何やら再生を始めた。

「これってマジ?」

そこにはタメ口で話して欲しいとか名前で読んで欲しいとかずっとあこがれてたとか恥ずかしい言葉がこれでもかと羅列されていた。
顔から火が出るかと思うほど熱くなり、慌ててスマホを奪って停止した。
だけど荒北くんはそんな私を見て楽しそうに笑うばかりだ。

「覚えてねェんだ?」
「はい……。」
「じゃぁ俺の返事も覚えてねェのォ?」

顔を覗き込むように近づいてきた荒北くんは、私の顔に軽く息を吹きかけた。
それがくすぐったくて目閉じると、伸びてきた腕に体を絡め取られてしまう。
意図せず抱きしめられて頭がパンクしそうだ。

「なっ、何も覚えてませんっ……。」
「もう言わねェから耳かっぽじって聞けよォ?」

そして荒北くんは耳元で優しく囁いた。
"俺のになれよ"
その言葉に頭がクラクラして倒れそうになった私を荒北くんが支えてくれる。
こんな幸せがあっていいんだろうか。
休日の穏やかな朝、酷い二日酔いと共に手に入れた彼氏。
どうかこれ以上失態を晒すことがありませんように。


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