喪失と昏睡4
重い瞼を開けて広がるのは白い天井。あたしはこの景色を知っている、病院の天井だ。
体が鉛のように重い。うまく動かせない上半身を何とか自力で起こして、周りを見るが、そこはやはり殺風景な病室の景色が広がっている。
さっきの声は夢の延長戦なのだろうか。ぼんやりとする頭の中。ボーッしながらも、脳裏に浮かぶのは、あたしのことを認識しない燐、他の人に笑いかける燐、あたしじゃない誰かが横にいる燐の姿を思い出しただけで、視界が歪む。認めたくなくて、でも突きつけられた現実が苦しくて、息をするのも、視界に映せるすべても何もかも受け入れ難い。
「っ…」
ここにいるのでさえ嫌で、どこか遠くに行きたくて、ベッドから降り立とうとするが、力が上手く入らず、立つことさえできないあたしはその場に崩れ落ちた。受け身すら上手く取れずに、尻餅をついて鈍い痛みが体を伝う。その痛みがまた現実だと嫌でも知らしめてくる。
ここにいる意味もあるのかな…。
ただひたすらに、自問自答を繰り返す。立つ気力さえなくて、胸の中を占める苦しみや切なさはたくさんあるのに涙さえ出なくて、まるで感情が枯れたかのよう。
「優希さん、目が覚めたんですね…っ!?」
ふと名前を呼ばれて顔を上げれば、驚いた表情で立っているあんずちゃん。正直今顔合わせるのは避けたい人物の一人だった。そんなことを知る由もないあんずちゃんは、ただ純粋にあたしの安否を心配して駆け寄ってくる。
「どうしてベッドから…。とりあえず、手を貸すので戻りましょう」
あんずちゃんの優しさが温かくて、それがまたあたしを嫌なやつにするし、そんな自分がまた嫌になる。
「っや…」
触れたあんずちゃんの手を振り払う。やっぱり力は入らない、けど、あんずちゃんは突然のことに目を見開いてあたしを見つめる。どうして、突然そうされたのか訳も分からない表情だ、それもそのはず。あんずちゃんは何も悪くないのだから。
「優希さん…」
「や…」
出るのは掠れた声で、声が出なければ上手く言葉にもできない。あんずちゃんからの視線が痛くて、居た堪れなくて耐えきれずにあたしは必然的に下を向くしかなかった。
どれだけの沈黙が流れたかわからない、案外そんなに経っていないのかもしれないけれど、体感時間としてはかなりの時間が経ったように感じる。力が入らない体をなんとか動かそうと力を込めて、床に両手をついて立とうとする。なんでこんなにも力が入らないのか、声も出ないのか、自分の体なのに上手く動かせないことがこんなにも、もどかしいなんて。
「おね〜さ…」
あぁ、なんでこんなタイミングで現れるのだろうか。姿を見なくても声だけでわかる、会いたくて会いたくなかった、強い焦燥感が胸を埋め尽くす。
「…目が、覚めたのか…」
耳に届くその声は、あの時聞いたようなトーンではなく、低めの落ち着きあるもので、それが更に緊張感を煽ってくる。また目線を合わせて、あしらわれるのも怖い。もしかしたら、拒否されるかもしれない。浮かぶのは最悪の展開ばかりで、ずっと俯いていたことにより、視界に入った自分の手を見てここで体が僅かながら震えていることに気付かされる。
「…よかった」
そんな不安とは裏腹に、安堵の気持ちがこもった言葉にあたしは思わず耳を疑い、顔をあげる。目が覚めてから、ここで初めて燐の姿を認識したのだが、あたしは言葉を失う。最後に見た記憶の燐は、いつのものなのだろうか、と思ってしまうほど燐は変わっていた。
病室の入り口に立つ燐の目元にはうっすらとクマがあり、心なしかやつれたようにも見える。疲れを宿した瞳は、しっかりとあたしを捉えていて、ゆらゆらと揺れている。
「おね〜さん…、ちょっと出てくんねェかな…」
「優希…、このままかと思ってた…」
燐に言われるがまま、あんずちゃんは病室から出ていってしまい、この場にいるのはあたしと燐だけ。ぺたりと床に座ったままのあたしの元まで歩み寄り、しゃがんだ燐はそっとあたしの頬に触れる。久々に感じる燐の温もりは優しくて心地いい、はずなのに胸が苦しい。
「…り、ん…」
「もう声も聞けねェかと思った…」
何を言ってるのか。燐の「目が覚めた」「ずっとこのままかと思ってた」「聞けないのかと思った」この3つの言葉が引っかかる。
「…り…、なにいっ、て」
「優希…ずっと意識がなかったんだよ…」
「…えっ…」
燐から聞いた話はこうだった。
あの日、階段から燐とあたしは転落した後、燐は体を打ちつけただけで意識はあったとのこと。ただ、一緒に落ちたあたしが頭を打っていたらしく、そのまま意識不明の状態。病院に運ばれて精密検査を受けるも異常はなく、目を覚ますのを待つしかないと言われていた。
最初のうちはすぐに目を覚ますだろうと思っていても、なかなか目を覚ます気配もすらなく、時間だけが過ぎていった。
じゃあ…、
「り、…あた…しのことッ…わすれ、てないッ…」
突然突きつけられた現実が真か嘘か、まだ夢なのか現実なのかという混濁した気持ちが入り混じり、ずっと怖くて不安だった理由を言葉にするがずっと出してなかったであろう声は掠れて上手く言葉にできない。
そんな不安を拭うように、そっと燐の手があたしの頬に触れる。そこで初めてあたしの目から涙が溢れてることに気づかされる。
「ずっと優希のことばっか考えてた」
「りッ、だっ、て、あたしッ…!」
ずっと怖かった、ずっとずっと怖かった。燐にいつか必要ないと言われることが。燐にいつか嫌気がさして、否定されることが。
里を出て行ったあたしをまた受け入れてくれた燐に本音ではどう思われてるのかも怖くて、嫌われたくなくて、いい子でいなきゃいけないって思っていて、でもどれが燐にとっていいと思われるのかも分からなくて。そんな不安をずっと胸の中の奥底に入れて、蓋をして気づかれないようにしていた。
なかったことにできたらよかったのに、と思った時もあったけど、まさか燐の中であたしとの記憶が全て失われるとは思わなくて、すごく苦しかった、辛かった、寂しかった。
こんなにも必要とされないことが怖いだなんて、辛いなんて、まだ離れて暮らしていたあの頃の方がどんなに良かったかなんて思ってもみなかった。
「ごッ、ごめッんなさッ、りッ、ごめ、ッなさ」
夢であっても、自分の不安から燐を悪く思ってごめんなさい。
燐にいっぱい心配かけてごめんなさい。
燐をそんな風に、やつれさせて辛い思いをさせてごめんさない。
そんな表情をさせたくなかったのに、いつだって燐に迷惑ばかりかけて不安にさせて、でも燐のそばを離れられないあたしを許して欲しい。
いろんなことを伝えたいはずなのに、言葉にしたいはずなのに、どれも声に出すことすらできずあたしはひたすら燐の服を今出せる力の限り握りしめて嘆き謝り続ける。そんなあたしを燐は、ただ優しく抱きしめてくれた。
あぁ、あたしはまだここにいても良いとのだと思いたい、
この居場所を失いたくない、
こんな身勝手で強欲なあたしを許してほしい。
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