秋
夏が過ぎて朝と夜の風は冷たくなってきた。昼間は大丈夫でも夜になれば半袖では肌寒く感じ、羽織るものが必要だなと思う。それも夜も更ければ尚更だ。
平日の昼間だったら、もっと多いだろう。
しかし、今は夜であり、季節は秋。
吹き付けられる風が強くて冷たく、身震いしてしまう。
「さっみぃ…」
「燐、そんな薄着だと寒いよって言ったのに」
あたしより数歩後ろを歩く燐は浮かない表情であたしよりも寒そうに両腕を抱えていた。その姿がテレビでもひーくんの前でも見せなさそうな素の感じで、ついつい笑ってしまう。なので、肩からかけていたストールを燐に羽織ってあげた。
「…優希、寒くねぇのかよ」
「燐が風邪ひいても困るからね」
「ンなの、お互い様だろ」
あたしが燐を優先するのは今に始まったことじゃないのに、少しだけ面白くなさそうな雰囲気を醸し出す。だけど、あたしだって譲る気は無いのでそのまま振り返って小走りをした。砂のせいで上手く地面を蹴れず、スピードも出なければ足取りも覚束ない。完全に砂に足を取られていて、転ばないことを最低条件で燐の前を行く。
「海、キレイだね」
横を向けば夜のせいで視界ははっきりと見えないけれど、水面が揺れてザァザァと聞こえる波の音が心を落ち着かせてくれる。海岸沿いの先の方で夜景が水面に反射されていてそれが凄く幻想的だった。
あたしたちが今来ているのは季節が過ぎてしまった海。季節的にも時間的にも合っていない場所に来たわけだけど、合っていないのは格好も同じ。燐はスニーカーだし、あたしもショートブーツ。歩きにくいったら、ありゃしない。
だけど、海を見ていたらそんなことはどうでもよくなってくるから不思議だ。可能なら、海の中に入りたいけれど、こんな季節のこんな時間に入ってしまったりしたらそれこそ一発で風邪をひく。ましてや、誰かに見られたらどのように見られるかもわからないから、大人しく砂浜を歩くだけ。
ぼんやりと見つめる海の先には、まだまだ知らない世界が広がっている。
「…寒いの?」
「ん」
気づけばあたしのすぐ後ろに燐が近寄っていて、肩からかけたストールを羽織ったまま後ろから抱きしめられる。耳元にかかる息が少しだけくすぐったくて身を捩るけど、燐は離すことを許してくれない。だから、寒いのかと問い掛ければ、どっちとも言い難い反応をされたので、あたしも燐に身を預けることにする。
「海って、不思議だね、ずっと見てられる」
深い思い入れがあるわけでもなければ、特段好きってわけでもない。むしろ仕事柄、夏に来たら大敵だし、故郷にいた頃は海より川。
「ドラマとか、物語でも海を眺めるシーンがあるけど、来てみるとその理由が少しだけ分かったように感じられるの」
不思議と見ていられるし、落ち着くのはなんでだろうか。
「…燐?」
さっきから、黙りを決め込んでいる燐。別に二人でいる時は口数が少ないことも珍しいことでは無いけれど、何となく違和感を感じた。だから、視線を海から移してみれば、わかってはいたはずなのに至近距離にいる燐と視線がぶつかった。
「俺は怖い、」
怖い、と燐は言った。一瞬聞き間違えかと思ったけど、ギュッと腕に込められた力。元々身動きが取れなかったのに、更にそれはしにくくなってしまったけど、ぶつかる燐との視線の方が気になってしまう。
「静かな海と夜が同化して、俺の先を優希が歩いててよ…。砂のせいで歩きにくいし」
伏せがちの瞳がゆらゆらと揺れる。
夜であっても、海であっても海岸沿いに立っている電灯の灯りのおかげでお互いの表情までわかる。燐がここまで弱さを見せるのは珍しいことだと心が言う。
「…優希がいなくなった日のこと思い出した」
燐の言葉に心臓がドクリと鳴った。
燐はそのままあたしから視線を逸らすようにギュッと更に抱きしめて顔を肩口に埋めてしまう。あたしはその頭を撫でてあげたいのに力のこもった腕に、そっと触れることしかできない。
「手が届かなく感じて、そこにいるってのがわかるのに何もできなくて、気づいた時にはいなくなっちまって」
「り、ん」
「…何かしらねぇけど、思い出しちまった…」
震えているように聞こえる声。あたしはここに来て、落ち着くと感じていたのに燐にとっては逆だったみたい。嫌なことを掘り起こしてしまって、ズキンと胸が痛む。
「燐、ごめんね」
「…ん」
「そんな、思い出させちゃって」
「優希がそんなつもりねェのもわかってるし、俺もそんなつもりじゃなかったんだけどな」
ごめんな、と本当に消え入りそうな、もしかしたら気のせいかもしれないと思う声が耳に入る。あたしの体をギュッと閉じ込めるようにある燐の腕をダメ元で動かしてみようと添えた手に力を込めてみれば、案外簡単に腕を解いてくれた。だから、その手を取って燐の手のひらをあたしの頬にそっと自ら添わして目を閉じる。
「あたしはここにいるから」
燐の手のひらから、あたしのことを感じてと思いながら。頬と自分の手で燐の手のひらを包み込む。
「ちゃんと燐の腕の中にいるよ」
あの時のあたしはまだ幼くて、視野も狭ければ思考だって甘かった。燐のため、燐のため、って思っていても結局は伝わってなかった自分の行動はいつか読んだ人魚姫を思い出す。助けた王子様が好きだけど、自分の気持ちも言葉も伝えられずに消えていった人魚姫。
自分で伝える口も声もあったのに、自分の行動まで伝えられずに消えた自分。
人魚姫のように一人で悩んで、王子様を殺せば自分は人魚に戻れるはずなのに、最終的には殺すことさえしないで泡となって消えたお話。
「あたしはお姫様でもなければ、幼い子供でもない」
お姫様なのに全然ハッピーじゃない童話。
「人魚姫と違ってちゃんと声も出せるし伝えられる、昔あの時気持ちを押し殺してた頃とは違う」
全てが違う。
ふと思い出したいろんなことも、自分と似ているな、じゃなくて自分とここが違うなってことばかりだ。
「燐のそばにいるし、これからもずっといたいから」
「…優希」
「今日だって、そんな顔見たかったんじゃないもん」
「確かに、」
少しだけ、ワガママっぽく不貞腐れたように呟けば燐はやっと困ったように笑ってくれた。その表情だけであたしは安堵できるのだ。
「燐、だいすき」
「知ってる」
くるりと燐の手を離しながら体を回転させる。向かい合うように立って、「燐、」と名前を呼べば「ん?」と聞き返してくれる、そんな燐の表情が愛おしい。
「ちょーだい」
両手を広げておねだりしてみれば、燐はフッと笑って次は正面からあたしを包み込む。
「俺で良ければ喜んで」
「燐じゃなきゃやだ」
「ったくよ」
呆れたような困ったような言葉だけど、燐だってまんざらじゃない事をあたしは知っている。触れるだけのキス、外であってもこんな時間にこんな場所だからできることだ。
「こんなあたしを好きでいてくれてありがとう」
生まれてきたことに意味をくれてありがとう
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