真一郎と幼馴染 | ナノ

271話√

4年、4年だ。俺は全てを費やしてきた。介護の勉強をし、休む間も惜しんで働いて、縋れるものに全て縋ってきた。全ては万次郎がまた元気になれるために、それだけを願って生きてきた。それなのに俺の努力は意味を成さないまま万次郎が死んで俺は今までの過ごしてきたもの全てから色失い、意味さえも失う。自分の中にあるのは、悲しみと悔しさと苦しみと不甲斐なさが混沌となったドス黒いドブのようなものがずっとぐるぐると渦巻いている。晴れない感情と虚無感。明日とは言わない、5分、10分後のことさえ分からない。何をして過ごすのか、とか、どうすべきなのかとか。何もなくなった俺にとって、これからに何の意味があるんだ。何も考えられず、せいぜい浮かぶのは、縋ってきたものが意味を成さなかったことへの負の感情をぶつけるということだ。万次郎が助かるために、と願った俺に言ってきたものが全部嘘だということになった訳で、こっちはどんだけ真剣に切に願っていたと思っているんだ。その気持ちを踏み躙ったことを後悔させたい、悔い改める暇もないまま、俺が失ったことの重要さを知らしめてやりたいと思った。


そんな俺を連れ出したのはワカだった。ワカは自分の店だというところに俺を連れ出し、そこで聞いたタイムリーパーの話。男らに聞いてやってきたトンネルに行けば、確かに汚らしい男が一人。タイムリーパーかと問いただせば、俺を嘲笑う。弟を救いたいと言った俺に「そんな事」と「くだらん」と奴は言った。その言葉がトリガーとなり、俺は奴に手をかけた。俺はその言葉が許せなくて、カッとなり男の頭をぶん殴って殺しをしたのだ。
言葉を信じ、力を奪うために人を殺した俺は、結局過去に戻れず。最後の望みの綱でさえ、それは最初からブチ切られていたのだ。
結局俺の手元には何もない。何もできず、全て失っていくだけ。万次郎だって、美憂だって。

一人、どうやって移動したかも曖昧だった。

フラフラと歩いていたせいで、いつ雨が降ってきたかも分からない。気づいた時には雨が容赦なく俺の体を打ち付ける。俺の心を嘲笑っているのか、俺の心を模しているのか、どっちだって良い。この雨は俺が浴びた返り血を洗い流してくれても、罪も心の中の闇も全部洗い流してくれないのだから。


「ちょっと、し、ん…?」


もう何もない俺に聞こえてきた声、懐かしい声だ。ずっと打ち付けていた雨が突然ぴたりと止んだことに気づいたのは、声をかけられてから視線をずらした時。雨の中、ずぶ濡れになった俺の視界に入ってくる傘は死角から傾けられたもので、視線を移した先にいたのは久々に見る美憂だった。


「…美憂」


幼い頃からの付き合いの俺たちは、年を重ねて色々変わってしまった。最後に会ったのはいつだったか。万次郎の葬儀にいた気もするけど、俺にその時そんな余裕もなく記憶は曖昧。だから久々に美憂と目を合わせた気がする。美憂は昔と何も変わらない目をしていることに少しの安心感とこんな俺を見て欲しくないという気持ちがせめぎ合う。美憂は、びっくりしたような、心配そうな表情を浮かべて俺を食い入るように見つめている。言葉が出ないんだろう、少しだけ開けて何かを言いたいのに、言えずに閉じる口元。その様子を俺もまたただ見てるだけだった。

そんな俺の視界に入ってきたのは、傘を持つ美憂の左手。身長が高い俺に傘が入るように合わせて持ち上げたことにより、傘の持ち手がちょうど顔の近くにあるせいで、それは必然的に視野に入ってくる。それを見て、俺の中でまた別の闇がドロっと溢れ出すのがわかる。

なあ、神様がもしいるならば、なんでこんなにも俺に仕打ちを繰り返すのか。

そう問い詰めながら、俺は傘を持つ美憂の左手を掴む。指を絡めて、グッと力を込めながら、美憂の左手薬指に嵌められた指輪をなぞりながら。





この日はすごい雨が降っていた。梅雨が明けたはずなのに、梅雨の時のようにどんよりとした雲が広がっていて、雨粒だって大きくて、傘を差していても、跳ね返りで足元は濡れて意味をなさない。朝早くから懐かしい人からの電話を受けて、あたしは家を出た。
何となく、胸騒ぎのような落ち着かない何かがずっと心の中にあって、視界の悪い雨の中、歩くたびにパシャパシャと水を打ち付けながら向かうは真の家。その道中で、見つけたのは大きな背中を丸めて佇む人影。数日前の葬儀でも見たばかりなのに、より衰退しているのがわかる真の後ろ姿だ。あたしは慌てて駆け寄り、傘を被せると、生気を失った目と目が合う。真と目を合わせたのはいつぶりだろうか。真が組んでいたチームが解散して、それぞれの道を歩んでいた人生。でもそれでも楽しい日々だった、はずだったのに。
弟の万次郎の一件があって、全てが変わった。真は、万次郎のために働き、介護の勉強。真が良く無いことに頼っているのも身を削っているのもわかっていた。それに加えておじいさんは亡くなって、エマも家を出て行ったという。ずっとそばにいて、ことあることに何か少しでも力になってあげられたらと思っていたあたしだけでは何もできず、自分の無力さを突きつけられてきた。


「し、ん、」


散々、自分の無力さを突きつけられ、見ていることが辛くなり、そばにいることさえ心が折れてしまったあたしが今更真に何ができるというのか。都合が良すぎるってわかっているけれど、でも、真のそばにずっと一緒にいたあのワカが全く連絡を取っていなかったのに、今何をしているかも分からないのにあのワカがあたしに連絡を取ってきたのだ。真がやばい、ただそれだけだったけど、それだけで十分だった。


あたしの記憶に残るのはいつだって楽しそうに笑って周りを明るく振る舞う真の姿、だというのに。今の真は笑うことさえできず、光さえ消えてしまった。あたしは気持ちだけが先走りここまで来たけれど、いざ真を目の前にして言葉が出てこない。あたしが真に何を言えるというのだ。何ができるのか、と自問自答を繰り返し、何かしなきゃと必死に頭の中で考えを巡らせていたら、そっと真の手があたしの手に触れる。傘を掲げていたあたしの左手に這うように触れる手は雨のせいで体温を奪われ、ひんやりとしている。どれだけ真が雨に打たれていたのか、これだけで十分伝わってくる。


「しん、…ッ」


手はあたしの指を這って、気付けば薬指につけた指輪をグッと掴まれるのがわかる。正直、ゾワっとした。あたしの弱さであり、一番真に触れられたくない部分。

そう、あたしは真のそばに居続ける強さがなかった。だから、真のそばを離れて他の男といることを選択したのだ。

そんなあたしが今ここに来て、真の目の前に現れるなんて都合が良すぎる話だし、彼女でもなければ、むしろあたしの方が他の男のものになってしまっていて何もする資格もないはずなのに、結局あたしは未だに真のことが諦めきれずここにいる。真が指輪に触れて、グッと力を込めて雨に濡れた手で滑りが良くなったのか、そっとそれを引き抜くのを黙って見ているだけ。何なら、傘を持っていて外しにくいはずなのに、自ら薬指を少しだけ力を緩めて外しやすくしてしまって何をやっているんだろうか。
あたしの指でキラキラと輝いていたはずのシンプルなシルバーリングはあっという間に真の手の中。真は指輪を人差し指と親指で掴んで無表情で見つめたかと思えば、ぎゅっと掌で握りしめる。



「…なんでだろうな、」
「しん…」
「なんで、俺は誰一人幸せにできないんだろうな」


真がふっと笑う。けれど、その瞳に光はなくて、沈んだその感情を必死に繕っているものだった。ザーザーと降る雨の中聞こえてきた消え入りそうな真の声にギュッと心臓が締めてつけられて苦しい。なんなら、肺にうまく酸素が回らない。と思ったけれど、苦しさは真の方が何十倍も大きなものを抱えていると思ったら、心臓だけでなく喉を締め付けられるようだった。


「万次郎のことも、美憂のことも…」
「真、それは…ッ」


万次郎のことは真のせいじゃない、そう言っても真はそう思わないだろう。そして、あたしが弱いせいだ。見てられなくて、支える自信も無くなって、あたしが我が身を選んだだけのこと。だから真がそんな風に思わないでほしい、ずっと待ってられなかったあたしのせいなのに。あたしのせいで、真が…苦しんでる、と思ったら、あたしは思った。


「真、ごめんッなさ…」


あたしのせいじゃないか。そばにいると決めて口にしていたはずなのに、実際には追い詰められていく真を一人ぼっちにして、自分だけ幸せな道を選んで、なんてことをしてしまったんだと気付かされる。ポロポロと溢れる涙と段々呼吸も荒くなり、過呼吸みたいに浅い呼吸を繰り返す。


「一人にッしちゃ、いけなかったのに、」


支えてあげなきゃいけないのに、辛い時間を何で一人にしてしまったんだろう。
あんなにも大好きだったのに、辛い環境下で過ごす真を見て幸せになってほしいと願っていたはずなのに、ワカだってそばにいたのに、何であたしは…。


「…美憂」
「し、ん…」


しゃくり泣くあたしの頬に真の左手が添えられる。そっと涙をなぞって、あたしの名前を呟く。


「あの頃に戻りたいな…」
「…ッ」
「一緒にいたあの頃にさ…戻りてぇよ…」


無表情で無気力、瞳に光はなく、闇しか映らない真の瞳。あたしを見ているのに、真が見ているのはあたしじゃない。昔の景色だとわかるから、真の言葉がナイフのように心に突き刺さる。


「…いっしょ、に…いるから」
「…い、っしょ」


あたしの言葉を復唱する真。復唱しながら、何度もあたしの頬を撫でる指。


「いっしょにいるから…、真、一人じゃないから…」


ずっと一人で踏ん張ってきた真、だけど全部を失った真をこんな真を目の前にして一人にする方が無理だ。だから、あたしは全てをなかったかのように口走る。それは、今のあたしが抱えていることも生活も何もかもを否定する言葉。


「…そうか」


雨に濡れて水分を含んだ服があたしに触れる。真に抱きしめられて、その水分があたしの服を濡らすことになるが、嫌じゃなかった。真に抱きしめられて、受け入れてもらえたことに何処か安堵して。


「おかえり」


その言葉を耳元で小さく囁かれてあたしは目を閉じた。

ごめんなさい、ずっと辛かったのに。なにもしてあげられなくて、そばにもいなくて。真が好きなのに見てられなくて支えになることさえできなくて、苦しくて辛くて逃げ出したあたしを受け入れてくれてありがとう。

ならば次はあたしが真を受け入れる番だ。

覚悟は決めた、こんな真を一人にしてられないから、これからはずっとそばにいさせて。と乞うた。




あたしは知らない、この時既に真があたしの指輪を捨てていたことも。このあと、濁流の川に身を投げ入れようとしていたことも。


×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -