短編 | ナノ


Beehiveでのシフトを終えた時のこと、


「名前さんお疲れ様でーす」
「ん?ありがとう」


スタッフルームに戻ってみれば、聞き覚えがあるけれど、ここではもう聞くことの方がない声。
ちょっとの驚きありつつ、労働後の声がけは純粋に嬉しくてまず返した感謝の意。ここはあくまで人目に触れる場所だから、お互いに一定の距離を意識する会話となっているが、内心すっごく嬉しいものだ、ここでひなたくんと会えるのは。


「時間空いたんで燐音先輩と来たんですよ」
「って言いつつ、あまりんはいないみたいだけど」


ひなたくんはスタッフルームにある椅子に腰掛けているため必然的にあたしが見上げられている状態だ。ひなたくんは所謂他所行き笑顔であたしの質問を「ん〜」と考える素振り。


「燐音先輩、一緒にオーナーのところ挨拶行ったんですけど、そのまま他の人と話盛り上がって、まだ残ってるんじゃないんですかね」
「それでひなたくんは?」
「せっかく来たんで、名前さんにも挨拶したいな〜って思って!でもせっかくなら驚かせたいなってことでコソッとしてました」


そう言うひなたくんの表情はいたずらっ子のような笑顔。年相応の表情、みんながよく知るひなたくんの顔、あたしは「そっか」と当たり障りなく答えつつ、自分のロッカーの鍵を解錠した。


「名前さん、靴に穴空いてますよ〜」
「あ、そうそう」


ロッカーの扉のところについてる鏡で自分自身の身なりを確認。仕事をしていれば化粧崩れもしてくるし、こんな状態でひなたくんと会ってて平気かなって思うのは彼女としての心持ち。
ひなたくんは椅子に座ったまま、視線はあたしの足元だろうけど。


「もうこの靴、ボロボロだからね」
「確かに、すっごく履き古してるって感じする」
「仕事の時に履くなら、つい動きやすいのにしちゃうから」


この靴を買ったのもどのくらい前だったかな、と振り返ってみるもすんなりと思い出せないからそういうことだ。
あんまり靴をあれもこれも買うタイプではないし、足の負担を考えると動きやすさ重視で買ったら安価なものよりブランドの方が良い。となれば、必然的に金額も上がってしまう。


「そろそろ潮時だから、買わなきゃな」


と言って後回しにしてきたけれど、そろそろ買い換えどきだ。時間を見つけて買いに行きたいけれど、さて欲しいものに出会えるか、こればっかりは運命でありタイミング過ぎる。
化粧崩れ気味なのも気になって、ファンデーションを取り出して直していたら、鏡越しにひなたくんと目が合った。


「買いに行きましょうよ、靴」
「え?」


鏡越しに見えるひなたくんはにっこり笑顔。
あたしは鏡越しではなく、直接ひなたくんを見るため振り向く。


「俺と靴、買いに行きません?」


どうやらあたしの聞き間違いではなかったらしい。
再度ひなたくんの言った言葉は、最初に聞いた通りの言葉。あたしは脳内処理が追いつかなくて、数秒フリーズしていたら、ひなたくんは笑顔のまま「どうですか?」って首を傾げる。ちょっとその仕草があざとくて可愛くて狡いと思いつつ、気付けばその誘いを承諾していた。




そんな出来事からまだ数日のこと。
ひなたくんも忙しいだろうに、時間を作ってくれたと思う。
今日はあたしの靴を買いに行くのが目的。例え外で誰かに出くわしたとしても、向かう場所と目的がきちんとあるから誤魔化しは効くはずだし、何より嘘ではない。
Beehiveでの接点も関係者なら知られているけど、あたしはひなたくんがアイドルという肩書きを持っていることを踏まえて、なるべく目立たないように、でも一緒に歩いても嫌にならないようにと意識したシンプルな服を選択した。

集合場所は人通りの多い駅の改札前。人目がどうかとも思ったけれど、ひなたくんはここがいいと一点張りだったため折れたのはあたしの方。
着いたのは待ち合わせ時間の3分ぐらい前。辺りを一応確認してみるが、ひなたくんっぽい人は見当たらないため、適当に壁際を陣取ってスマホを取り出した。
メッセージアプリを立ち上げて「着いたよ」と送るのは文字とスタンプ。するとすぐにそれは既読通知がついて「俺も」と返事が返ってくる。
さっき辺りを見た時にはいなかったはず、ということはこの場所を取ってスマホを取り出して打っている間に着いたのかもしれない、そんなことを思って画面から顔を上げようとした時だった。


「お待たせ」


ひなたくんの声。ふいに向けた視線の先、視界に入ってきたのは普段のひなたくんとは一風変わった私服姿にあたしは瞬きを必要以上にしてしまう。


「どうかした?」
「ううん、いつもと違う雰囲気だからちょっと驚いただけ」


ひなたくんと言えば、何を想像する?
アイドルとしてのイメージカラーのビビットなピンク。
私服を想像しても暖色系のカラーリングでゆうたくんとの対比がすぐにわかる。


「名前さんと折角のお出かけだからね、なるべく目立ちたくなくって」


本当はオシャレして横を歩けたら良かったけど、なんて言うひなたくん。
オシャレ要素は正直皆無。全身を黒やグレーで統一した私服に黒いキャップ、前髪の分け方も変えてあってご丁寧に黒マスクまでしているではないか。あたしが認識できるようにマスクを少し下にずらしてくれているけど。
これはこれでモノトーンが好きな人って感じのファッション。なんなら、しっかりとひなたくんの雰囲気さえ掻き消されていた。


「…ごめん、やっぱりちゃんとオシャレした方が良かったかな」
「ううん、ひなたくんがそこまで考えて来てくれたことに驚いちゃっただけ」


あたしの沈黙がひなたくんを不安にさせたらしい。キャップのツバとマスクの隙間から見える瞳が不安げに揺れていた。あたしは首を横に振りながら、ソッとひなたくんの指に自分の指を絡める。


「ひなたくんとこうやって歩けるかも、って欲が出ちゃったぐらいには嬉しい」
「名前さん」
「せっかくのデート、楽しみにしてたから行こっか」


“デート”と直接的に言葉として表すのはちょっと気恥ずかしさもあるけれど、事実なのだから良いだろう。
お忍びでも、例えオシャレな格好じゃなくてもいい、これは歴としたデート。それをあたしは楽しみにしていたし、ひなたくんなりにもしっかりと考えてきてくれたことが分かっただけで十分だ。その気持ちがきちんと伝わってくれてたらいい。
ひなたくんの、ちょっとだけ赤くなった頬を見てそう思った。



やってきたのはよくある靴専門のチェーン店。
人の出入りはそこそこ。なるべく人の少ないところを選ぶべきなのかもしれないけれど、今回欲しいのは普段履くための靴。仕事の時、動きやすさ重視と考えたら品揃え的にもそれなりに数がありそうな場所の方が選択肢は上がるため、妥協するにできなかった。
となれば他者との接点が上がりそうなものの、運良くこの店はこちら側から話しかけるまで店員は来ないようで、正直少しだけホッとする。


「名前さん、メーカーとか形とかどんなのが良いんですか?」
「動くこと考えるとすり減りにくい方が良いかな、あとは」


壁や棚を見上げるほどに並ぶ種類様々なスニーカーを見上げてみる。黒、白、シンプルなものからカラフルなバリエーションのものまであるし、メーカー毎の特色もあるため、形だって全然違う。何を重視したいのかを考えた時に出てくるのは全て仕事をこなす上での条件ばかり。

だけど、


「差し色とかで良いから、ピンクとか入ってたら良いなぁ」
「ピンクは可愛い。これとか?」
「うーん。もうちょっとハッキリした感じの方が良いかな」


強いて言うなら、仕事とは使い勝手とは全く関係ないこだわりが一つ。差し色でいい、ピンク色が入ってるのが良い。ひなたくんは希望を汲み取ってくれて、提案してくれた一足の靴は淡い薄ピンクと白地のスニーカー。可愛い、可愛いけど想定していたピンクはもっとビビットな方。それに仕事で使って汚れることを考えるなら、靴自体は黒地のほうが良いだろう。


「あ、これとかポップで可愛いんじゃない?」
「可愛い」


次に見つけてくれたのはピンクも入っているけれど、黒地に様々な色があしらわれているタイプのもの。メインが黒だから、カラフルでもそんなに奇抜な派手さはない。ただ、この靴は紐ではなくスリッポンのような形をしているメッシュタイプのもの。
こういうスニーカーは履き続けると緩くなると聞いたことがあるため、動き回ることを想定すると長く履けるのか、というのが難点。


「うーん、なかなか名前さんのお目に適うものがないね」
「そういうのってタイミングだからね」


別にすごく欲しいって思ってない時に、良いなって思えるデザインに出会えたり、欲しい時ほど出会えなくて妥協するか見送るかの二択を強いられることがほとんど。
今回もまさにその時なのだろう。


「もーちょっと、色が多かったら良かったな」


多かったら、と言うのは靴に対して差し色がもう少し多かったらの意味。靴の形も特性も良いなって思うものもあっても惜しい、あとちょっと色が、ってなって買うまでにならない。やっぱり妥協するしかないのか、履き古したスニーカーは既に穴が空いているし、実を言うと靴底のゴムもくたびれている。このまま履き続けたことにより滑ったり転倒してもおかしくない、つまりは危険なのだ。
ずっと自分の気持ちとの葛藤のみ。妥協して購入か、買うことを諦めるか。早く決めないと、付き合わせてるひなたくんにも申し訳なくなってくる、そう思えば思うほど見失う答えを模索していた時、「名前さん」と突然名前を呼ばれたため反射的に顔を上げた。キャップを深く被って黒いマスクをしているのに、そこから覗くひなたくんは少しだけ楽しそうな目元をしている。


「これとかどう?」


ジャーン、って効果音をつけたくなる動きだった。ひなたくんが持ってきたのはあたしが理想としていたビビットピンク色のシューレース。靴が出てくると思ってたから予想外のそれに、今のあたしはきっと目をパチクリとしているだろう。


「例えばこの靴だと、黒い紐だけどピンク色のこれにするだけでも、ポイントアップで可愛くなると思うんだよね」


それはあたしが妥協するかどうかを悩んでいたスニーカー。あと少し色が欲しいと言っていたそれに、ひなたくんは手にしているシューレースを当てがって見せてくれる。


「本当だ、可愛いかも」
「だよね、こういうアレンジもアリだと思うな。あとはなんだろ」
「それにする」


ひなたくん自身は更に案を考えてくれようとしたけれど、あたしの心は決まっていた。え?と聞き返されたから、改めてあたしは「その靴と、その紐の組み合わせで買うことにする」と次はひなたくんの目を見て伝えれば、気恥ずかしそうにひなたくんも笑い返してくれた。


お店のロゴが入った紙袋を片手にぶら下げながら街中を歩く。袋の中には先ほど買ったばかりの靴が入っていて、その靴紐は既にピンク色を紐を施してある。


「お店の人がつけてくれて良かったね」
「うん、普段こういうのやらないからやってくれるとすごく楽」
「ははっ、まあ俺がやっても良かったんだけど」


紙袋を持ってるのはひなたくんで、空いている方の手はあたしの手と繋がっている。
店を出てから再度キャップのツバを深くしていることもあり、目元は暗くて前がちゃんと見えてるのかなって思う程。でもまあひなたくんは器用に歩いているから大丈夫ってことだろうけど、それはあたしからもはっきりとは見えにくいことを表している。それでも、チラリと見えたひなたくんの目元は楽しそうに細められていて、あたしだけがそれを知っていると思うと優越感が密かに湧き上がるのを感じた。


「名前さんってそんなにピンク色好きだったっけ」
「うん、好きだよ」


ひなたくんはあたしがあれだけ色に拘っていたことが気になったんだろう。靴だから、身につけているものだから拘りは誰だってあるだろうけれど、ひなたくんの中ではどう思ったんだろうか。


「だって、ひなたくんの色だしね」


好きに偽りはない。実際にこういうピンクは好きな色の一つだった、けどより好きになったという方が正しいだろう。
聞かれていない理由を述べれば、それはきちんとひなたくんの耳にも届いてたみたいで、不自然なぐらい勢いよく突然にひなたくんの足が立ち止まるから、つられてあたしの足もピタリと止める。


「ひなたくん?」
「…名前さんってさ、」


何度も言うようだけれど、ひなたくんの顔ははっきりと見えるわけではない。それでも、目元さえ見えれば汲み取れる表情はひなたくんとの付き合いの長さがあるからだと自負している。


「そうなのかなって思ってたこと、サラリと言うよね」
「そう?」
「俺、嬉しくなっちゃったじゃん」


だから今のひなたくんはきっと頬を赤くして嬉しさを噛み締めている顔をしている。だって隙間から覗く目は熱を帯びてゆらゆらと揺れているし、声だって些細な違いだけれど震えている。泣きそうとか辛いからではないのもわかる。言葉の通り、嬉しさによるものだ。


「俺もスニーカーの紐、ピンクにしようかな」
「ふふっ、もう一つ買いに戻る?」
「…戻る」


結局あたしたちは来た道を戻るため、グルリとUターン。オシャレなお店に行くわけでもなければ、堂々と街中を歩けるわけでもない。誰もが見てもわかりやすいお揃いのものだって買って身につけてなんて難しいけど、あたしたちはこれで良い。
こんな日も悪くないと思える今日は最高のデート日和だ。

後日、買ったスニーカーで仕事をしていたら、気づいてくれた人から「可愛い!」と大絶賛。
あたしも歴代の中でダントツで可愛いと思えるスニーカーにテンションは上がるし、褒められたらひなたくんのセンスも一緒に褒めてもらえたみたいで更に嬉しくて。その本音を隠しながら「でしょ」と応えていた。

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