短編


冬の寒い日だ。前日の暖かさがウソのように冷え切った風の吹く夜。女は寒さに耐えながらも通い慣れた夜道を足速に動かしていた。寒い寒い、疲れた、お腹も減った、ただ自分の欲を何とかしたい、ただそれだけを考えてあと少しで帰り着く。その一心でひたすら動かす体は、もう間も無く風のない建物に入り、暖かくはないけれど外よりマシな室内に入っているはずだった。女は街灯が等間隔で立っているというのに、見慣れた道を歩いていたはずなのに何処となく薄気味悪さを感じ他のは気のせいではないだろう。止めなければ良いのに、自然と足の動きを止めて辺りを見渡した。

パッと見ても何かあるわけではない、はずなのに女は気づいてしまう。自分の視線の高さより少し下のあたりにある大きな影。大きなゴミでもなければ置物でもない。不自然にコンクリートの塀のところ、あれは身を投じている人影だ。すぐさま駆け寄る勇気はなかった。夜更けだし、人通りも少ない。何が起きるか分からないからこそ、恐る恐る、女はゆっくりと近付いてみる。ハッキリと見えるわけではないけれど、街灯に照らされてわかる範囲で認識できたのは白い特攻服。それが薄暗くてもわかるぐらいにはよれているし、髪だって乱れていた。前髪で隠れてハッキリとは見えないけれど、綺麗な顔立ち。なのに口元とかも汚れている、ように見えるけれど、これは汚れなのか、いや、血に見えるのは気のせいではない。どうしよう、そう思った女が取った行動はのちに正解なのか、どうなのか結局わからないけれど、動いてしまったからには仕方ないと思うことにした。


女がまず向かったのはソファー。あえてリビングの電気はつけなかった。キッチンの方だけ、結局家の中だというのに外と同じように視界は場所によって薄暗く曖昧だけれど今回はそれで良しとする。それからパタパタと移動し、次にお風呂の湯を沸かした。一息つく間もなく、女はタオルを一枚取り出して、キッチンから溢れる明かりの中、ソファーの元へ歩み寄った。数分だけだけれど、この場を離れていたけれど何一つ変わった様子はない。物音を立てないように心がけながらソファーの傍らに腰を下ろしてそっと触れてみる。


「ッ…」


極力、そっと触れてみたけれど、敏感なのか女が見えていないだけで、もしかしたらアザや傷があったのかもしれない、痛みを感じたのか声が漏れる。思わずびくりと体を揺らしてしまったし、一旦は腕を引っ込めたが、その場を離れることはしなかった。


「アンタ、だれ…」
「え、っと」


と、いうよりは足が咄嗟に動かないってのもあったと思う。初めて聞いた声は警戒心が含まれている低いもの。女が帰り道に見つけた白い特攻服、綺麗な顔立ちの人物の彼を女は連れて帰って来てしまった。最初こそ、病院や警察を呼ぶことも考えたけど、そこであることに気付く。この彼は見た目こそ特攻服を着ていて傷を作り意識がないけれど、彼は幼さを持ち合わせていた。幼い、と言ったら多少の語弊はあるけれど、意思確認をしようと思った時、彼の背丈がそんなに大きくないことに気づいたのがきっかけだ。自分とあまり変わらないように見える彼は、きっと年齢的に全然あたしより歳下のはずだと。高校生も思ったが、高校生にしては小柄だし、中学生にしては大人びてるようにも見える顔立ちだけど、あくまで憶測からの印象。


「あなたが倒れてたから。外寒いし、あのままじゃよくないから」
「だからって、男を勝手に家にあげるのはどうなんだよ」
「…それは」


起きて早々、とっても辛辣だ。辛辣だけど、実際に彼の意識が戻ってみて確信した。彼はやっぱり中学生か高校生ぐらい。中身は思ったより落ち着いていると感じた。女を射抜くその視線は警戒心が露骨に出ていて、圧を感じられた。けど、彼は怪我をしているし自分より歳下とわかれば怯むわけにはいかない。


「じゃあ、警察に連絡してよかった?」
「…」
「なんであんなところにボロボロになってたかわかんないけど、そんな状態で動けるの?とりあえず今だけはここで休んで動けるようになったら出ていけば良いじゃない」


女は最初こそ、キツめに言葉を放つが最後にはふんわりと微笑んで自分の手にあったタオルを手渡した。初めましての自分に対して、起きて早々この口ぶりならすぐに元気になるだろうと思った女は気持ち的に安堵したというのもある。そうなれば忘れかけていた空腹感を思い出し、女はやっと夕食の準備に取り掛かれるという気持ちで立ち上がった。背を向けてキッチンへと足を進めようとした瞬間、「ねぇ」と声が耳に届く。同時に腕が引っ張られる感覚と自分の意志とは関係なく後ろへ体が傾き、女が状況を把握した時には見慣れた自分の部屋の天井をバックに映る彼の姿。


「え、と、なに」
「なにって、オネエさんのお世話になるならお礼しなきゃじゃん」
「おれいって」
「そのままの意味」


気づいた時には、自分の身はベッドに沈み込んでおり、女の横にある腕は動きの制限をかけるのには十分。完全に捕らえられた側の人間となってしまい、女は彼の突然の変貌に息を呑んだ。さっきまで警戒心バチバチだったのはどこへ行ったのか。彼は女にそっと顔を近づける。くるりと一気に手のひら返しをして雰囲気を変えてきた彼に飲まれた、かのように思えたけれど、バチンッという音が突然部屋に響く。


「ッは?」


不意を突かれたのは彼の方。女は間一髪、と言うべきか、彼の頬を両手でバチンと叩くように挟み込んでいた。予想外の仕打ちに彼はガラにもなく目をパチクリとさせ、言葉を失い女を見下ろしている。


「こういうことはしませんっ!こっちは心配して連れてきたんだから、それなら他を当たって」


女は言った。自分の立場もどちらが優位かも関係なく、真っ直ぐに彼を見つめて。





少年と言うべきか、中途半端な年齢であろう男は意識が浮上したのか、閉じていたはずの瞳がゆっくりと開く。男はボーッと天井を見つめた後、見慣れぬ部屋に違和感を覚えつつ、すぐに昨晩のことを思い出した。上半身だけを起こせば、体のあちこちに鈍い痛みが走るがそれを気に止めることはせず、薄暗い部屋の中で自分の身に纏っていたスウェットをしばらく見つめてからベッドから立ち上がる。部屋はこじんまりとしていて、人の気配はない。テーブルの上には目玉焼きとベーコン、そしてトーストが二枚、乗せられた皿がそれぞれ用意されている。そのそばには小さなメモが置かれており、手に取ってみるとそれには見慣れないバランスの取れた字が並んでいた。

「よかったら食べてね。バターやジャムは冷蔵庫から好きに使ってください。出て行く時は鍵を閉めてポストに落し入れておくこと」

男は思った、「お人好し」と。メモを握る手が自然と力み、少しだけくしゃりと跡がついたが、男がそれを気にすることはなかった。



女は仕事を終え、昨日と同じ道を歩く。昨日と違うことと言えば、昨日よりも足取りが早いということ。今日一日、仕事に集中ができなかった。連絡手段はなし、確認手段ももちろんない。ずっと頭の中を占めるのは家に置いてきてしまった彼のこと。昨晩拾った傷だらけ、だけど綺麗な顔立ちをした彼。朝は一応できる範囲でご飯を準備したが彼は食べてくれたのだろうか。結局昨日はあのあと、完全にダンマリとなった彼をお風呂に入れてベッドで寝かせた。ご飯を食べるか聞いたがいらないとのこと。なので、沸かしたお風呂に入れて、家にあった大きめのスウェットを貸すことで彼が着ていた特攻服諸々は洗濯機に。お風呂に入ってる間に自分だけでもご飯を済ませようと思ったが、結局気疲れからか食欲がどこかいってしまい、適当にカップラーメンで夕飯を済ませる。食べ終えたタイミングでお風呂を上がった彼は、傷やアザこそまだあるものの、ついていた汚れなどが落ちて綺麗な顔立ちがよりハッキリと確認できる。同世代なら好きになっていたかもしれない、それぐらい綺麗な顔立ちだったが、女は年下と認識しているため、それ以上の感情を持ち合わせることもなく、彼をベッドへとほぼ無理やり押し込んだ。彼はさっきのやりとりで諦めたのか、何かを察したのか大人しくいることを選択したらしく、女に言われるがままベッドに入りそのまま眠りにつく。それをしっかりと確認した上で女は一息付き、洗面所へと向かったのだ。


「大丈夫かな」


結局、女はそのあと化粧を落とし、シャワーを浴びるだけでことを済ませる。一人暮らしのこの部屋にソファーもなければ客用の布団もないため、厚手のタオルケットを引っ張り出してベッドの脇に敷き、厚さのあるコートをかけて眠りについた。
朝は普段とは違う状態での睡眠と見知らぬ男がいるという潜在的な意識もあり、普段よりも全然早く目が覚めた。元々早起きの予定だったが、それよりも更に早めの時間だ。熟睡できない上に正直疲れも取れていないが女は目覚まし時計で時間を確認すると、あくびを噛み締めて立ち上がる。洗面所に行き、まず顔を洗った。それからこのぐらいの時間なら許されたい、と気持ちを込めて洗濯物を入れっぱなしにしていた洗濯機に洗剤を入れて電源のボタンを押す。足音、物音に気をつけながらベッドを確認すれば、本来自分が寝ているであろうベッドにある布団が僅かながら上下しているのが目に入る。女は数秒その様子を見つめたあと、再び動き出した。着替えをしてメイクをする。そして冷蔵庫から取り出した卵とベーコンを焼いて皿に盛り、食パンを一枚トースターで焼いたものと沸かしたお湯でインスタントのコーヒーを入れる。何も変わらない一人の朝ごはん。ただいつもと違うのはこの部屋にもう一人いるということ。彼は誰なのか、何がどうしてあんな風に傷を作ったのか、大体は察することができてもそれが定かではない、全ては憶測に過ぎない。食べ終えた皿を流しに運び、そのまま洗い物をすると洗濯機の動きが止まるのがわかった。洗ったばっかりの衣類を取り出し、ベランダに乾して時間を確認するといつもより少し早いが家を出なければいけない時間だ。女は書き置きをして、ずっと悩んでいたスペアの鍵を一緒に置き、今一度寝ている彼を見つめてから家出た。と、言うのが今朝の出来事である。

そのため、とにかく今日一日がとても長く感じた。彼はどうしたのだろうか、ご飯はちゃんと食べているのだろうか。まず、体調が変わりなく元気なのだろうか。上げ出したら、キリがない。気になることばっかり、まるで家にペットを飼い始めた飼い主のようにソワソワとしてしまう。長い長い一日を終えて仕事を終えた時には職場を足速に後にする。このまま帰っても大したものがないのは明確。そのため、早く帰りたい気持ちを胸に女は帰路中にあるスーパーに立ち寄り、適当に目についた食材をカゴに入れてからレジを済ませた。
急足な上にそこそこの重さのあるビニール袋を手に持ち、普段から愛用している仕事用の鞄を肩からかけてるせいで、体力がどんどん奪われるわ、暑いわでしんどさしかないけれど、それ以上に気持ちが早く帰れと頭の中で訴えかけてくるから止まれない。やっと帰り着いた玄関前、呼吸は思いっきり乱れていて一生懸命肩で息を吸いながらもガサゴソとぐちゃぐちゃになった鞄の中から鍵を取り出した。解錠した後、扉を開けてすぐ女はこの部屋の中の雰囲気を悟る。真っ暗な部屋の中はいつもと同じ光景。

そう、人の気配がないのだ。

靴を無造作に脱いで、部屋の明かりをつけてみるが、やっぱり部屋の中には人の影は見当たらない。朝、乾していた白い特攻服も消えていて、まるで昨日から今朝まであったことが夢物語。だけど、女はそれが現実だとすぐに実感する。昨日、男を寝かせたソファーの上に置かれている少しだけ雑に置かれたスウェットは確かに彼のために出したもの。そういえば、と思いテーブルの上も見てみたが、朝準備していたトースターと目玉焼きなどを乗せていた皿も消えていた。キッチンの流しの中に水に浸された皿を見つけて、ちゃんと食べてくれたことに女は安堵し微笑んだ。





仕事は休み。なのであたしはゆっくりと買い出しのために家を出る。動きやすいようにジーパンにセーターと上着も羽織って肌寒い外へと繰り出した。うーん、何を食べようかな、何を作ろう。一人暮らしは色々難しい。安さで食材を買いたくても、多いと使いきれないし食べたい、作ろうかなと思ってもちょうどいい量では作れないのが難点だ。
それでも生きるためには食事が必要で、そのためには食材が必要だから、あたしは値札を眺めながらどうしようかなとゆっくり店内を歩く。


「オネエサン、俺これ食べたい」
「これって、え?」
「隙あり」


当たり前のように声をかけられたせいで、普通に返事をしようとして不自然さに気付く。明らかにあたしに向けられた声は至近距離、なんならすぐ後ろから聞こえてきて、その姿を確認するために振り向こうとしたら頬に何かが刺さった。ぐっと言っても軽くだけれど頬に鈍い痛みが走って、それが指だと気付いた時には、同時に白いフワフワの髪の毛が視界にあるではないか。


「帰ったんじゃないの…?」


声の主、あたしの頬に指を刺したのはあの日の彼だった。あの時とは違って特攻服は着ていないし、ボロボロでもない。なんなら明るい店内ってこともあり、彼の顔がよく見えるおかげで彼の綺麗な顔立ちがよく見てとれた。楽しそうに含み笑いを浮かべる彼は、どうやら普段はこういう子らしい。


「オネエサンに会いたくなったから戻ってきた」
「えぇ…何それ」
「オネエサンが拾ったんだよ、白豹」
「しろひょう…?」
「そう、俺のこと」


しろひょう、って豹…のことだろうか?しかも会いたくなったって、あたしはこんなふうに言ってもらえるような何かをしたっけと思い返してみるがわからない。この歳の子のことは歳が違いすぎて分かりにくいってのもあるけれど、彼はきっとそんなことを気にしてはいないんだろう。


「仕方ないなぁ、じゃあ作ってあげる代わりにちゃんと教えてね、あなたのこと。じゃないとお家にはあげません」
「この前はあげてくれたくせに」
「あの時は緊急事態だと判断したからです」
「今牛若狭」


俺の名前ね、と彼はそう名乗った。あの日の警戒心が嘘みたいにすんなりと教えてくれた名前。どうやら癖のある子に懐かれたのかもしれない、と近所のスーパーの野菜売り場でするやりとりではないなと思いながら。

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