短編 | ナノ


※美女缶パロ


ある日のことだった。唐突に送られてきた一つの小包。宛名は見覚えがないけど、なんとなくどこかのお店で頼んだ物だったかなって自分に言い聞かせてしまって。今思えば、この思い込みも危なかったなって思えた。それこそ危険物ではなかったけれど、万が一ってことだってありうるのだし、開けてしまって見知らぬものが入っていて、開けたのだからお金を払えって言われたっておかしくない世の中。警戒心がなさ過ぎるってこれだから怒られるんだよね。


開けてみて、入っていたのは缶詰一つと薄っぺらい冊子、とディスクが一枚、これはDVDかな。まずは缶詰を取り出してみたけれど、スーパーとかで売ってる果物缶ようなサイズ感。青をベースにしたちゃっちさのある紙ラベルが貼られていて、紙には「美男缶」の文字。


「え、何これ」


怪しい、怪し過ぎる。ずっしり重さの感じられるそれ。振っていいかもわからず、とりあえず軽く傾けてみたけど、中身はさっぱりだ。とりあえず、ラベルを確認する。
名前:今牛若狭(23歳)とそこには出身地である地名と好きなタイプ、そして


「え、ヤクザ…」


あたしの認識の間違いではなければ、そこに書かれていたのはあの日本で有名な犯罪活動をしているはずのヤクザの文字。何これ、怖過ぎるんですけど。これっってもしかして、そういう人たちのクスリとか入ってるんじゃ?そう思えたら、一気に心拍上昇。呼吸だって早くなった。恐怖と混乱があたしの中をグルグルと渦巻いて体が震え出す。カタカタということを聞かない手をなんとか動かして手に持っていた缶詰をテーブルの上に置いて目線を逸らした。
だけどその震えも束の間、何も考えられていなかった頭の中も段々と冷静を取り戻し、気づけばあたしはその美男缶に再び手を伸ばしていた。
ラベルには上手いとは言えない画力で長髪に垂れ目の顔が描かれていて、美男缶って前情報がなければこれが男に見えていたかって考えるとなんとも言えない。その缶詰を片手にキッチンで滅多に使わない缶切りを手に取ってお風呂場へと直行した。


缶詰と一緒に入っていた冊子に書かれていたのは取扱説明書である。

1,まず、缶の上面に書いてある記入欄に呼ばれたい名前を記入します。生まれてきた美男はその名前であなたの名前を呼びます。
2,缶詰の中にある青い液体を40度のお風呂の中にゆっくりと入れましょう。その際、必ず蓋をしましょう。そうでないと、生まれてくる美男が恥ずかしがります。
3,扉を閉め、30分間風呂場の外で待ちます。その間は、部屋の掃除をする、エッチなものを隠すなど美男を受け入れる準備をしましょう。
4,気をつけてください、美男はあなたのことを無条件で「恋人」であることを信じます。彼たちは実は繊細です。安易な性の対象だけとせず、心の通った日常生活を心がけ、素敵な美男ライフを送りましょう。


ディスクまで見る勇気はなかったあたしはまず取扱説明書である冊子を確認した。そこに書かれていたのは缶詰の取り扱いであり、色々ツッコミどころが満載だった。まず、中身って何、青いの?とか美男が恥ずかしがるってどういう状況、とか。ヤクザって文字に恐怖を覚えたのも事実だけれど、まずこんな缶詰で安っぽいラベルのものをヤクザが必要とするのだろうか?と思えてきてしまって、あたしの中には気づけば好奇心がザワザワしていた。だから、キッチンから缶切りを手に取ってお風呂場に行ったし、お湯を張ってその間に缶詰に自分の名前を書いて、缶詰を開ける。開けた瞬間に鼻をくすぐる香りは妖美というか、色っぽいというか、だけどちょっとだけ甘さがある、男の人がつけてたら絶対アブナイって思えそうな香りがふわっとお風呂場に広がった。中には青いドロッとした液体が入っていてまるで色のついたローションのよう。あたしはゆっくりと缶詰を傾けてそれを湯船に注いで蓋をした。


部屋を出て、一緒に入っていたディスクをノートパソコンに入れてみれば、映像が流れ出す。最初に流れてきたのは取扱説明書と全く同じ内容だった。それをボーッと見ながら、何してるんだろうと我に返り、第一あれを湯船に入れてしまってはお風呂に入れないのではないか、と冷静になる。入浴剤ではないし、肌に触れて良いものなのかもわからない。まず、安全なものかだって確証がないのだ。さっきから冷静な考えと子供のような好奇心が行き来をしているわけだが、今回また何度目かの冷静さを取り戻す。もったいないけれど、お湯を捨てて入れ直すか…と思った矢先のことだった。


「名前、拭くモノ欲しいんだけど」


突然聞こえてきたのは男の人の声だった。この部屋にはあたししかいないはずなのに、確かにそれは聞こえてきて、声の出どころはさっきまでいたはずのお風呂場。キョロキョロと辺りを見渡すけれど、「名前」って再びあたしの名を呼ぶ声がお風呂場から聞こえるから、聞き間違えではないとも言える。


「え、あ、ハイっ、ま、って」


咄嗟に出した返事だったから声は裏返っていて、慌てて立ち上がりバスタオルを引き出しから取り出す。そしてお風呂場の方に急足で歩み寄ったら、扉から覗く腕にあたしは喉の辺りがヒュッとする。華奢にも見える綺麗な腕、だけどそれはよく見れば骨張っていて男の人のもの。それだけではない、肘までは見えないけれど、腕の肘に近い方に見える鮮やかな模様。間違いない、鮮やかな花とかが描かれている、刺青だ。思わずタオルを差し出すことを躊躇してしまい、立ち止まっていたら「なあ、早く」って言われてあたしは慌ててタオルをその手に預けてしまう。するとその腕はすんなりと引っ込んで扉も閉まってしまったため、あたしは一瞬その場に立ちすくんでしまった。しばらく我を忘れてぼーっとした後、ハッとさせられ慌てて部屋の中へ逆戻り。付けっぱなしだったノートパソコンからは、ちょうど何か生い立ちのような説明が流れていたけれど、それどころじゃないあたしはそのまま画面をパタンと閉じる。そして起きっぱなしだった小包の箱に取扱説明書の冊子を入れて、適当に部屋の中の目立たない棚に無造作に仕舞い込んだ。部屋の中をキョロキョロと見渡して、他に何か片付けるものはないかと確認するけれど、今更何をすればいいのかわからない。気持ちだけが荒ぶっていて、その結果動きだって慌ただしいのに何もできていないのだから無駄しかない。


「何やってんの」
「っえ、と」


本当何やってるんだろうか。自分の部屋の中に立ってキョロキョロと辺り見渡してる部屋の主。側から見ても理解不能な光景はあたしにとっても理解不能だった。脳直で振り向いたから、本当にノープラン。振り向いて驚いてヒュってしてガッチガチに体が固まってしまう。


「服あんのにタオルないとか、そういうところ」


振り向いていたのは肩よりも下ぐらいの長さで上段と下でツートンに染め上げられた髪をした男の人。どことなく、あの美男缶に描かれていた似顔絵に似ている、と思う。けど、似顔絵と現物の差は歴然。現物の方が本当に綺麗な顔立ちだった、これは確かに美男だわ。無表情、というより表情変化が元々あまりないのかもしれない。それだけなら、って思ったけれど見間違えじゃなかった。黒いTシャツを着ている彼の首と袖から覗く腕に見える刺青にあたしはサーっと血の気が引くのを感じる。微動だにしないあたしを不思議に思ったんだろう、彼は「アン?どうした」ってこっちをジトっとした目で見てくるから慌てて「な、んでもない!」と否定した。怪しまれたかもしれないし、何か思われたとも思う。けど、彼は特にツッコミを入れることもなく、「なら良いワ」って呟いた。
手慣れているというか、あまりにも自然体だった。あたしの部屋の物の位置をきちんと把握しているって感じで、冷蔵庫から冷やしていたミネラルウォーターを取り出して飲み始めたり、当たり前のようにテレビを付けたり。なんなら、何処から出てきたのかわからないけれど、携帯も持っていたけれどあんまり見るつもりがないのか、テーブルに放ってある。ていうか、そのシャツも下に履いているスエットもどっから出てきたんだろう。あたしの家にそんなものあったっけ、って頭を捻って考えてみたけれどわからなかった。

今牛若狭は何者なのだろう。本当に美男缶から出てきたのか。と、なればあの取扱説明書の通り、これからあたしは彼と恋人としての生活を送るということ?え、ヤクザな彼氏ってこと…?

最初はもう困惑してばっかりだった。若狭はあたしの部屋にくつろいでいたかと思えば突然「タバコ買ってくる」なんて言って出て行ってしまったり。その間にあたしは見ていたディスクを再生する。見てないうちに見覚えのないところまで進んでいたため、一旦チャプターメニュー開いて生い立ちの部分を選択すると、古びた映像が流れ出す。

今牛若狭という男の生まれから始まった。幼少期の生活が語られ、彼の人生の分岐とも言えよう展開が始まった。東関東12チームが集まってできた煌道連合、それを率いたのは白豹≠フ異名で恐れられていたのが総大将である今牛若狭だった。螺愚那六 総長にして赤壁≠ニ呼ばれた荒師慶三という男とバチバチに争っていたこと、そんな二人を当時まとめたのが佐野真一郎という男。彼によって関東は統一されたという。そして彼らは黒龍というチームを作り、黒龍は天下を取って解散した。そこからは各々、それぞれの道を歩んだという。若狭が信頼していた佐野真一郎はガレージYAGOで働いていたのだが、大切にしていた弟の事故から生活が一変。それをずっと側で見ていた若狭だったが、その弟は4年後に他界。その時にはヤクザだった若狭だが、彼のそばにいて気にかけるも、その場のいざこざにより喧嘩別れをしてしまう。荒れてギクシャクしていた若狭を見つけたのがアナタです。という話だった。話の内容が途中から濃密なものになり、一回では覚えきれない部分もあったけど、なんとか見終えることができたあたしは無性に若狭に会いたくなって立ち上がる。家の鍵と携帯を引っつかんで、玄関にあったサンダルを慌ただしく履いて扉を開けようとしたら、あたしが押して開けるより秒差で扉が外に開かれたため、そのまま前のめりに体が傾く。本来ならばそのまま倒れるはずなのに、あたしの体はあたしよりも大きな体に受け止められて、倒れることだけは回避した。鼻をくすぐるこの匂いをあたしは知っている。美男缶を開けた時に嗅いだ香りで、顔を上げてみたら、タバコを買ってくると言って出ていった若狭がそこにいたのだ。


「あっぶねぇな、どうした。慌てて」
「…若狭に会いたくなっちゃって」


ごめんなさい、と小さく呟けば、ふわりと優しく背中に回された腕に抱きしめられる。


「寂しかったのかよ」


あんなに怖いと思っていたはずなのに、恐怖は消えていた。きっとあの生い立ちを知ってしまったからだろう。刺青を入れて、無表情でギラギラしてて、それでも彼の根底には優しさがあることを知ってしまった。仲間を思う大切な心が彼にはある、と。そんな彼自身が一番、今寂しいはずだ。そう思ったら、辛くて一人にしちゃいけないって思っていて、気付けば彼の元へすぐに行きたいと思ってしまう自分がいたのだ。だけど、そんなことを素直に言えないあたしは、若狭問いかけに対して静かに「…うん」と肯定し、ギュッと抱きしめた。


若狭はやっぱり根は優しい男だった。こんな見た目でも、あたしが彼女だからだろう。あたしが寂しがっていたと思い込んだ若狭はずっとあたしを抱き締めて離さなかったし、お風呂に入って濡れた髪のまま出れば「コッチに来いよ」って呼んで髪を拭いてくれた。タバコは吸うけど、あたしがちょっと…って煙に困っていたら、リビングでわざわざ吸ってくれたり。あたしばかりが心が満たされていっている気がした。
あたしが作ったご飯は表情こそ、やっぱり変わらないけれどペロリと完食してくれたり、寝るときは若狭の方から抱き締めてきたので、そのまま眠りについたり。
昼間はあたしも仕事があるから家を留守にした。だけど、それは若狭も同じで日中は家におらず、あたしが仕事を終えるタイミングで迎えにきてくれてたり、後々帰ってきたり。「何してたの?」って聞いたこともあったが、「ヤクザの仕事なんざ聞くんじゃねぇよ」って言われてしまった。きっと言えないような仕事をしているのだろう、あたしはその言葉に従ってそれ以降聞くことをやめたのだ。ヤクザという職種以外、本当に同じ日常を過ごしてくれる若狭。と、言ってもやっぱりヤクザは普通の生活にも限りがあって、一緒にお出かけができないなどという制約がある。迎えにくるのが多分ギリギリなのだろう。だから、外でデートはできず、いつだっておうちデート。これをデートと換算するのもどうかと思うが、あとはコンビニぐらい。本当にそれぐらいしかできなかった。けど、それでも一緒に過ごす日々はとても満たされるものがあったから、本当に深く気にすることはなかった。



若狭との生活を過ごして何日が経った頃だろうか。


お風呂に入った若狭が上半身は何も着ないで洗面所から出てきた。濡れた髪を拭くために頭にタオルをかけているため、全部が見えるわけではないがワカの刺青が普段服を着ている時よりも見える範囲が広いし、やっぱり見慣れないものだから視界に入れた瞬間だけドキッとしてしまう。トキメキのドキッではなく、どっちかっていうと身の危険に近いドキって感じかな。彼氏にそんなことを思うなんて失礼な話だが、刺青を入れていて仕事はヤクザってことも知っているわけで、世間一般的思考として感じる部分だから仕方ないと思ってほしい。とまあ、若狭のことをふと見ていた時だった、あたしは人間の体の中で見慣れないものをふと見つけてしまう。


「若狭…」
「ア?」
「ごめ、何でもない」
「んだよ」


無意識的に呟いていたあたしは、あまりにも不自然だったと思うけど何にもないと否定した。こういう時の若狭はギラリとした目をして怖いけど、あたしも折れるわけにはいかず、「ううん!本当に何でもないの」と首を横に振った。

あたしは若狭の目を盗んで、隠してあった取扱説明書である冊子を取り出しペラペラとめくった。美男缶についての説明ページを経て後ろに書いてある注意と書かれたページを意識的に読み始めた。そこに書かれていたのは品質保存期限について。美男缶には品質保存期限というものがあり、その期限を過ぎると消えてしまうと言うものだった。完全に見落としていた、そんな期限があることを。しかし何事にも期限というものがついて回るわけだから、それもそうかと納得せざる終えない。それこそ、賞味期限、消費期限、保存期限、人間などの生き物に対しては寿命があるように。美男缶はそれが明確になっているだけのこと。若狭に書かれていた文字を思い出し、あたしは携帯の画面を開く。あたしが若狭を見た際に見つけたのはこれと同じだ。携帯に表示される日付と同じような表記をしている文字の羅列。若狭の腰のところにそれは刻まれていて、今の日付より数日先の日付が刻まれていたと記憶している。つまりあと数日で若狭は消えてしまうということだ。あたしは突然の別れとなる期限を突きつけられてしまい、どうしよう…と一人混乱した。





「なぁ」
「…」
「おい、名前」
「え、あ、ごめん、どうしたの?」


完全にぼーっとしていた。なので、若狭に声をかけられても気づかず、気づいた時にはめちゃくちゃ不審な顔をしてあたしの顔を覗き込んでいる。というのも二人でのんびりとした時間を過ごしていて、今もソファーの上に座る若狭に後ろから抱きしめられながら座って二人でテレビを見ていたはずだった。この番組が見たいといたのはあたしなのに、完全に上の空で内容は全く入ってこない。それに気づいたであろう若狭がまるであたしの深層心理を見透かすようにジッと見つめてくるから、内心ドキドキが鳴り止まない。気付かないでと念を送りながら、下手に何か言えば墓穴を掘りそうなあたしはどうしたのと返したまま黙りを決め込んでいれば、若狭の方が折れたのだろう。「別に」って呟いてあたしの首に顔を埋めてしまった。触れられているところから伝わる体温は温かくて、背中から伝わる鼓動だってある。確かにここに若狭は生きているのに、本当にあと数日で若狭がいなくなるなんてことがあるのか、と不思議で仕方ない。信じられない、その言葉に尽きるのだ。

時間の進みは時に残酷に思える。あたしは抗う術もなく、あっという間に品質保存期限と決められた日付の前日となってしまった。結局あれから何もできず、ただひたすらに日常を過ごすだけの日々。一緒に家での時間を過ごしてしまい、あたしは残り1日をどう過ごすべきか何も見出せないままタイムリミット前日になってしまったと一人項垂れる。顔を洗って鏡で見る自分の顔はひどく疲れていてこんな顔で若狭に合わせる顔がない。あたしは、はぁ…とため息一つ吐いた後、両手で顔をペチンと叩いて気合いを入れ直す。


「よしっ」


心配かけるわけにもいかないし、不安にさせるわけにもいかない。若狭は知らない、自分が美男缶であることを。なので、あたしもそれを打ち明けるわけにはいかないと、気合を入れる。洗面所から出れば既に沸かしたお湯で入れたコーヒーを啜る若狭が視野に入る。ポチポチと携帯をいじっていて目は合わないけれど、今日も変わらない日常的な風景にあたしは自然と頬が綻んだ。本当に明日が品質保存期限なのだろうか、と思えるほどに平和過ぎる日常だ。そういえば、若狭の仕事もヤクザだというのに何だかんだ平和な毎日を過ごしていたなと思い返してみても、やっぱり何も変わらない日々だなと思う。


「若狭」
「あん?」
「ねえ、今日の夜、何食べたい?」
「朝から夕飯のことかよ」


本当に品質保存期間があるかわからないけれど、もしあるとしたら。という気持ちを込めて、あたしは最後となるかもしれない夜はせめて若狭とステキな1日にしたいと思ったのだ。だから、若狭の食べたいものを準備したい、そう思って聞いてみたけれど、そんな真意を知らない若狭はパチンと持っていた携帯を閉じて呆れたように笑っている。


「うん、仕事も今日はそんなにかかんないだろうから、買い物して帰ろうと思ってるし。何作ろうか浮かばなくって。だから、ね?」
「あー、そうだな」


若狭はぼんやりと考えながら、あたしから部屋の中へと視線を移し、後に宙を見つめる。


「今夜、一緒に飯食いに行くか」
「え、外…ってこと?」


予想外だった。若狭から外へ一緒に出かけるということが今までなかったから、期待すらしていなかった選択肢が突然浮上。びっくりしすぎて、つい声が裏返ってしまった。驚きがあまりにも露骨に出てしまったせいで、若狭は「何だよ」って笑っている。完全にあたしの反応を面白がっているやつだ。


「たまには良いだろ、俺も今日は早く手が空くだろうしな」


言葉が出ないあたしに対して、ずるい若狭は「それとも、俺と出かけるのは嫌かよ」なんて言うんだもの。その表情はやっぱりニヤリと笑っていて言ってる言葉と表情が合っていない。でもあたしはそんなことを気にする余裕もなく、身を乗り出して「行くっ!!」と勢いよく呟いた。

仕事が終わったら連絡すると約束をしてあたしたちは家を後にした。あたしは仕事に行き、いつものように仕事を終えた後、駅で時間を潰すことにする。ここで待ち合わせ、という明確なことは決めていない。仕事が終わった若狭がどこで合流しようって伝えてくれる流れになったからだ。だけど、待てど待てど若狭からの連絡はない。早く終わるって言っていたのは若狭だから、ちょっと仕事が伸びてるのかな、って思っていたが結局20時を過ぎても連絡がないまま、あたしの不安は募るばかりだった。携帯に着信履歴はなし。あたしは悶々としながらも悩んだ結果、登録してあった若狭の電話番号を表示してボタンを押す。聞こえてきたのは機械的な電源が入っていませんの声。それはあたしの不安をさらに募らせるには十分だった。若狭の仕事はヤクザであり、命に関わるもの。もしかして、そう思ってもあたしに何かできる術は何もない。まさかこのタイミングでそんなことが起きるなんてことある?自問自答を繰り返し、なんとか心を落ち着かせようとしても意と反して早まる鼓動。

とりあえず、家に帰ろう。もしかしたら、いるかもしれない。こんな街中じゃ合流できないかもしれない現状だってあり得る、そう思って小走りで帰路に就く。慌てて差し込んだ鍵を回して玄関の扉を開ける。淡い期待だった。結局それはあたしの期待だったと真っ暗な部屋の中が物語っていた。


「明日のはずなのに」


不安、心配、恐怖。その気持ちを抱えてあたしはその場に座り込んだ。



それがあたしの中にある記憶の全てである。





「名前」
「なあに?」
「色々ツッコミどころ多いんだけど」


コーヒーを片手にジト目であたしを見つめる若狭にあたしは、何が?って聞き返した。


「俺ヤクザだったワケ?」
「そう…!刺青もしっかり入っててね、すごかったの」
「まず美男缶って何」
「知らない?これなんだけど」


あたしは聞かれることが楽しくて、つい意気揚々と語ってしまう。若狭はそんなあたしの話を黙ってウンウンと聞いてくれている、と思う。若狭に聞かれたことを一つ一つ答える上で、美男缶とはと尋ねられたのであたしは一冊の本を取り出した。それには女の人が描かれたピンクの缶詰と美女缶≠ニ書かれている。


「名前ってホント読書が好きだよネ」
「本って面白いよ」
「だからって、本の内容に俺を夢に出すとはな、しかもヤクザ」
「あれかな、任侠ドラマも見ちゃったせいかな」
「感化されすぎ」


そう、あたしが体験したこの話は全部夢の話だ。今目の前にいる若狭には刺青もなければ、髪色だってヤクザな若狭の髪型と違い、二色を交互にしたハーフアップである。あたし自身、趣味である本好きがまさかこんな感じで夢に見るなんて思わなかったから最初は驚いた。しかも前日に見た任侠ドラマのせいもあるなんて、確かに若狭の言葉通り感化されすぎだと思うけど、良いじゃない。


「ふふっ、かっこよかったよヤクザ若狭」
「フーン、じゃあ俺も今からヤクザになるべき?」


ふと、若狭があたしの髪を指に絡めながら至近距離で呟く。思わずドキッとさせられるから、ああもうこの人は。


「それはちょっと困るかな」


ずるい、若狭は自分の見せ方をわかっている。だから、あたしは素直に思ったことを口にすれば、満足そうに笑ってあたしの頬にキスを落とす。


「だよな」
「まあ、ヤクザだったらジムで女の人にモテる心配はないんだろうけど」
「可愛い奴め」
「かっこいい彼氏だから困るんです」


若狭は笑った。ああもう余裕いっぱいでずるいんだから。いつだって不安はつきもの。それでもあたしたちは大丈夫だと信じているけれど、たまには良いじゃない?こういうふうに言わせてもらっても。

あたしは夢と違ってずっと若狭のことを見てたのだから。若狭の人生をたった一枚の映像からではなく、ずっと見つめてきた。楽しいことも辛いことも全部だ。そんな時間を共に過ごしてきたあたしたちだからこそ、関係に期限はないと信じてる。

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