短編 | ナノ


カーテンから差し込む日差しによって浮上する意識。朝の気配を感じながらも、今日は休みだと心の中で何度も言い聞かせ、頑なに瞼を開けない決意を胸に布団の中で寝返りを打つ。まだ起きないと決め込んで、再び微睡の中へと意識が遠のく傍、あたしの意思とは反したものが沸き起こる。それは意識的なものではない、生理的なもの。

そう、尿意だ。

あぁもうまだ寝ていたかった、と少しだけ悔しく、でもこのままでいる訳にもいかず、あたしはかったるいながら体を無理やり起こしてベッドから降り立った。ペタペタと向かうのは廊下を歩いてすぐにあるトイレ。勝手知ったる我が家、寝ぼけた状態でちゃんと開かない目でも若干の視野が確保できていれば難なく歩ける。何処にぶつかるわけでもなく、きちんとトイレにはたどり着いた。扉を開けて、排泄するために下を下げて座ろうとした時、ゴンっと大きな音と共に走る鈍い痛みがあたしを襲った。





「名前、それどうしたんだよ」
「…朝からぶつけた」
「は?何処に」


今日は真一郎と会う日。すっごく楽しみにしていたはずなのに、今のあたしはズンと気分は重い。真一郎はあたしが一番触れてほしくなかった“それ”について触れられてあたしの中で更にズンと気分が下がる音がした。
真一郎は目をパチクリと丸く驚いた表情を浮かべて、まじまじとあたしの顔を見つめてくる。もっと詳しく言うならば、真一郎が見ているのはあたしの顔の中でも唇のところだ。


「笑わない?」
「おう」
「…朝、寝ぼけてトイレ行った時、壁に顔面ぶつけて、その時に下唇と歯が当たって腫れた」


朝、真一郎との約束の時間までまだまだある時間だったこともあり、二度寝を決め込んだはずなのに生理的な尿意を感じて起き上がったあたしの意識は全く覚醒していなかった。慣れた家の中、滞りなくたどり着いたところまで良かったけれど、完全に油断していたあたしは便座に座る瞬間、慣れていたはずのトイレで距離感を掴み損ねていたらしく顔面を壁に強打。その際になんなら唇を打ちつけた際に壁と自分の歯で挟んでしまうしまう形でぶつけたこともありパンパンに腫れてしまったのだ。それはもうたらこ唇のように。

腫れはすぐに引かず、真一郎と会う予定をリスケすることも考えたけれど、それらしい理由が思い浮かばず諦めて会うことにした。絶対、何か言われることを覚悟して。

顔の中でも目立つ唇だ。

化粧をしていようが、唇の形自体が違う、なんなら大きさが違うのだから、どんなに鈍感な人でも気づくはず。一瞬でも淡い期待を胸に秘めていたがそんなに人生甘くない。案の定、真一郎に会ってすぐ気付かれたし、それについて指摘されて、ハイ終了。笑えないくだらなすぎるアホな失敗談を何が嬉しくて彼氏様に言わなきゃなんないんだと思いつつ説明すれば、少しの沈黙。そして、あたしの約束なんて所詮口先だけ、一瞬で破られた。


「ブハッ!何やってんだよ」


ぶっと真一郎は噴き出した真一郎は、想像した通り思いっきりツボに入った表情を浮かべている。あぁ、もうだから今日は会いたくなかった。予想通りの展開がここまでぴったりくるのも面白くない。こんな顔も見せたくなかったのに、そんな人の気も知らないで笑う真一郎にイラッとしたあたしはくるりと背中を向ければ、笑っていた声がぴたりと止まる。


「ごめ、笑わないって言ったのに」
「ホント、それ」
「名前、ごめん。な?」


チラリと首を少しだけ後ろに回せば、真一郎がまだ少しだけ緩む表情を堪えながらも両手を合わせてあたしに頭を下げている。じっと見つめてボロが出ないか様子を伺って見たけれど、真一郎もそれをキープして動かないから、結局あたしの方が折れるのだ。体の向きを元に戻して、ため息を一つ吐けば真一郎もあたしが折れたことを悟り、唇にそっと触れる。


「痛そうだな」
「ぶつけた時が一番痛かった」
「滲みたりしねぇの?」
「案外平気」


朝、鏡で自分の顔を見た時、パンパンに腫れた下唇。ぺらっとめくってみれば、内側は赤くなっていてまるで口内炎のようになっている。けれど、実際に傷になってるわけではなく、内出血なのかな。ぶつけた直後の痛みの後は、触れても痛いって感覚はあまりなかった。だから、真一郎が今あたしの唇をそっと撫でていても、腫れているところを触れられている感覚はあるけれど痛みはない。

さっきまで笑っていた真一郎もよく見れば痛々しく見えるのだろう。ちょっとだけ表情歪ませているから、この人は本当に感受性が豊かなんだなって実感させられる。あたしは見られることだけが嫌なだけで、やらかしたことはあんまり尾を引いていないのに、今では真一郎の方が気になって仕方ない様子。もうこれ以上良いのに、じっと見つめられたまま動けずどうしようと思考を巡らせていたら、次の瞬間には頭の中が真っ白になっていた。
痛そう、ってずっと気にしていたはずなのに、真一郎が突然キスをしてきた。多分、あたしに気遣って触れるだけのものだったけれど、突然のことにあたしは面食らう。


「こんな腫れてたら、やっぱチューすんのも気になってしにくいな」


いやいや、気になるなら何故した?って感じなんだけど。真一郎はこっちの気持ちもつゆ知らず、真剣に言うもんだから言葉に詰まる。


「早く治るといいな」
「う、うん」


なんだろう、普通に早く治りますようにって意味合いなんだろうけど、今仕出かした行動のせいで純粋にそう受け止められないのはあたしの心の問題か、真一郎が天然なのか。どっちもかも知れない。


「名前ってたまにドジするから可愛いよな」
「こんな流れで可愛いって言われても嬉しくないんだけど」


真一郎がニマニマしながら寄りかかってくる。


「今日、どうする?」
「このまま家がいい」
「だよな、のんびり過ごすか」


本当ならせっかくの休み、天気はそこそこ良い。真一郎と一緒にお出かけしたいなって思ってたけど予定変更。こんな姿は真一郎にしか見せられないし、真一郎もそれに納得した様子でそっと抱きしめてくる。


「朝から災難な名前をしっかりとケアしてやるよ」
「真一郎にできるのかなあ」
「任せろって」


口先ではそう言ったけど、知ってる。真一郎の兄貴力はなかなかに狡いってことを。

甘える時は甘えてくるくせに、甘やかすことも知っている狡い男。

今日も真一郎の一言一言に振り回されて、コロコロと手の中で転がされる。おかげでのんびりと真一郎とイチャイチャできる日が過ごせて、朝の災難なんて気付けばどうだって良くなった。むしろ都合よくプラスへと切り替えていた自分がいるから、結果的にあたしは今日もこうやって真一郎にのめり込んでいくのだろう。

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